第6話 空っぽの籠
カチャカチャと食器の触れあう音。小窓から穏やかな陽光の降りそそぐ朝、ふたりは声を発さなかった。ただもくもくと、目の前のオートミールやサラダを食べている。――いや、もくもくと食べているのはララだけで、マリーの方は、あまり食指が進んでいない。
その隣では子リスが木の実を食い散らかし、げぷう、とお腹を出している。
「ちゃんと食べないと、また車酔いしますよ」
ララが促す。マリーは「うん……」とうなずいたものの、ペースは上がらなかった。
「オートミールはきらいでしたか?」
「ううん、そういうんじゃないよ」
オートミールもララも、だれも悪くない。ただ昨晩、夢をみたのだ。
それは家を出ると決意し、畑を手伝うふりをしてこっそり村から抜け出したときの映像だった。どうして今更そんな夢を見たのか、考えられる原因は、ララの壮絶な話をきいてしまったからとしか思えない。
「ちゃんと食べてくださいね。今日はいつもより少し、飛ばしますから」
「えっ」
たちまち意識が引き戻された。
「飛ばすって……車を?」
「はい。少し急ぎたいので」
今までは最大速度ではなかったのか。マリー血の気が引く思いで、急いで皿をかきこんだ。
ララの運転の荒さは痛いほど身に染みているので、子リスを入れる虫かごの中にこれでもかと綿を詰めてやる。衝撃でぶつかって怪我でもしたらたまらない。
「準備はいいですか?」
御者台にすわったとき、ララはいつもの様子でのんびり訊ねてきた。
「うん、だいじょうぶ」
なんにせよ、まだ旅はつづくのだ。
たとえ少し怖い思いをしても、死ぬわけじゃない(たぶん)。それにもう、後戻りはできない。
「はっしんして、ララ!」
車はすさまじい音をたててエンジンをふかし、爆発的に発進した。
「ほんと、なんだか、爆発するみたいにはしるね、この車」
「実際、爆発していますからね」
さらりと恐ろしいことを言うので、マリーはヒッと息を呑んだ。
「ほんとに……?」
「わたしの魔導石のエネルギーを使って爆発を起こしてるんですよ。でなければこんな巨体、こんな速さで動かせません」
「で、でも、それ、危なくない……?」
今更ながら、この御者台にいることが恐ろしくなる。
だがララは、きりりと眉を持ち上げた。
「だから、わたしが運転してるんです。自分の魔導石のエネルギーの放出を抑えて、上手にコントロールしているんですよ」
と、勇んでハンドルを切る。キキキッと危うい角度で車が曲がり、マリーも子リスも右に大きく倒れかけた。
「運転するひとが、ぜんぜんいない理由、わかったよ……」
たとえ才能があったとしても、そもそもやりたがる人が少ないだろう。馬車や牛車で安全に旅した方が何倍も平和だ。
でも……
「魔動車ってなんていうか……すごいよね。とくべつだよね」
少なくともこの車には、素敵な少女の住まいが載せられている。
「うれしいことを言ってくれますね……」
ララが感に堪えかねたように声をあげる。目元までじーんと赤くして。
「よし、こうなったら、もっとはりきって運転しちゃいますよ!」
「いや、ハンドルはゆっくり回してくれても……」
「それいけララ号! 目的地まで全力でつっきるのです!」
「やめてーー!」
車はさらに勢いを上げ、マリーは今度こそすさまじい恐怖を味わった。
魔動車はすごくて、たのしい、たのしいけれど――
意識が遠ざかる。マリーは生まれて初めて、恐怖で意識を失った。
*
「起きて、起きてください」
肩をゆさぶられ、はっと目を開ける。
体を固定していたバーが上げられ、目の前にララの顔があった。心配そうにのぞき込んでいた顔がほっとゆるみ、口元がほころぶ。
「よかった……気がつきましたね」
「ここは……」
背もたれに頭をあずけたまま、瞳を動かす。御者台のむこうには、なんの変哲もない、緑の風景が広がっていた。
だけど、なんとなく懐かしいにおいがする。干し草と家畜の独特のにおい。それに、川のせせらぎが近くから聞こえる。……頭がまだ少しぼんやりしている。
「ついたの?」
「はい」
「え、ついたの!?」
慌てて飛び起きる。「お姉ちゃんの言ってた、もくてきち?」
「はい。着きましたよ」
目的地についたら、旅が終わる――
完全に意識が覚醒した。座ったまま、きょろきょろと辺りを見渡す。
「あれ――」
周囲の風景には、はっきりと見覚えがあった。田園のなかに、ぽつぽつと建つ背の低い家。遠くに見える家畜小屋。そして何より、そのなかに静かに流れる一本の小川は……
ついこの間、飛び出してきた村の風景を、マリーは再び目にしていた。あっけにとられて声も出ない。
どうしてここに? ララの目的地とは……自分がここから来たことをちゃんと言ったのに……いや、言ったからだろうか?
「お、おねえちゃ――」
「マリー!」
自分を呼ぶ声にさえぎられる。マリーは、この声をよく知っていた。だれよりも多く耳にしていた。
後方を振り返ると、母親が走ってくるのが見えた。後ろには父親もいる。ふたりの姿が目に入ったとたん、マリーは慌てて目をそらし、すがりつくようにララを見上げた。
「お姉ちゃん、どうして……」
その間にも、ばたばたと足音が近づいてくる。
「マリー!」
焦ったような父親の声に、マリーはぎゅっと目をつむった。
「ああ、マリー、無事だったんだな!」
「マリー、マリーなのね?」
母親に肩を揺さぶられる。だがマリーは御者台から動かない。
「おや、君は……」
父親は驚いたように立ち止まった。目の前に立つ、白いベレーとワンピース姿の女の子に、「ああ、君は……!」と驚愕の声を上げる。
「あなた、この子を知ってるの?」
「ああ、このあいだ町の門番をしていたとき、通った子なんだ。ギルドの使いで……」
以前は鎧の
「ギルドの使いじゃありません。旅のお買い物です」
きっぱりと訂正するララ。
「あの時の門兵さんが、お父さんだったんですね。あのあと、森でマリーに会いました。事情をきいて、村の方へ便りを出したんです」
「まあ、それじゃ、あなたが、あの手紙を……」
涙ぐむような母の声。
ずっと俯いていたマリーが、そのときやっと声を上げた。
「……ひどいよ、お姉ちゃん」
昨日の朝、ララはハヤブサ便で便りを出していた。伝書鳩と違って料金は高いが、いつでもどこでもすぐにやってきて、何より配達が段違いに速い。馬車で二日ほどの距離だと一日もあれば届けてしまうのだ。
「仕事だなんて嘘ついて。ほんとは、あたしの村に」
「マリー」
自分とあまり変わらない小さな手が、なだめるように頭をなでる。
「思ってることは、ちゃんと言わないと伝わりませんよ。それに、家族には自分の気持ちを言う権利があるんです」
「……けんり?」
「あなたが傷ついてるってことを、ちゃんと言わなくちゃ」
その言葉にはっとした。
母親は何もわからないのか、「どういうことなの?」と口走っている。マリーはぎゅっと目をつむり、そっと瞼をひらく。意を決して口を開いた。
「ママもパパも、あたしのこと、いらなくなったんでしょ」
「な、なにを言ってるんだ」
父親がうろたえたような声を上げる。「どうしてそんなことを」
「だって、弟がうまれてから、あたしのこと、どうでもよくなってたじゃない!」
弟――母のお腹に赤子ができるまえは、この家の子どもはマリーだけだった。決して裕福な暮らしではないけれど、一緒に眠って一緒にはたらいて、ときにはちょっとだけわがままが言えた。わがままはいつも聞いてもらえるわけじゃなかったけど、別にそれでもよかった。「もう、この子は」と呆れながらも笑ってもらえるのが嬉しかったのだ。
それが、母のお腹が膨れはじめてから一変してしまった。
何を言っても、何をしても、「マリーはお姉ちゃんになるんだから」「わがまま言わないで!」とあしらわれる。父親はもともと、遠くの町に派遣される兵士なのであまり家にいない。いらいらとする母と、お腹の中のまだ見ぬ赤ちゃんに挟まれて、マリーは息苦しい思いをしていた。
それでも、赤ちゃんが生まれてしまえばきっとこの状態もよくなるにちがないと信じていた。赤ちゃんが生まれるというのはそれだけ神聖で、特別で、喜ばしいことだったからだ。
だけど――
「弟がうまれたとき、パパがめずらしく早くかえってきて……ついに男の子だなってよろこんでた。まるで、ずっと男の子がほしかったみたいに。女の子のあたしなんて、いらなかったみたいに!」
「マリー」
父親が血相をかえる。「そんなことは……」
「ママなんて、もっともっとあたしのことをほうっておくようになった。あたしだって、努力したよ。あたしの弟なんだから……お世話のおてつだいをすれば、こんなきもち、どこかにいくんじゃないかって……でも、だめだった。パパとママが、どんどん遠くへいっちゃうみたいで……」
声が震える。ちゃんと口に出して言いたいのに、やっと言えるときがきたのに、どうしてこんなに情けない声になってしまうのだろう。
涙があふれて、止まらない。ずっと押し込めていた感情が、車のエンジンみたいに爆発している。
「マリー……」
しゃくりあげる娘の小さな肩を、母親が覆いかぶさるように抱きしめる。
「ごめんなさい、あなたに、そんな思いをさせていたなんて……」
ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返す。
「遠くへ行くだなんて、そんなことはないのよ。パパもママも、どこへも行かないわ。ただ……お腹が大きくなるとね、どうしても気持ちが不安定になってしまって。生まれてからも、赤ちゃんのお世話でいっぱいいっぱいになってしまって。マリーが我慢強い子だってことに甘えてしまっていたの……」
「私も、仕事ばかりで」
父親も、いたたまれなさそうに俯いている。
「だから、マリーが寂しい思いをしていることに、気がつかなかったんだ」
「……わかってる、わかってるよ」
しゃくりあげながら、息も絶え絶えにマリーは訴えた。
「赤ちゃんのお世話、たいへんなんでしょ。お金もかかるから、パパも帰れなかったんでしょ」
そんなことは百も承知だった。「でも、それでも、気づいてほしかった……」
「きっと、マリーが赤ちゃんのときも、同じように大変だったんですよ」
今度はララが、そっと顔を寄せる。マリーはぴくりと肩を震わせた。
「あたしの、ときも……?」
「きっとへとへとになるまでお世話して、お仕事もがんばって、そうして育ててくださったんですよ。そういうお父さんとお母さんなんですよ」
優しく目を細め、「そのスカートもエプロンも、お母さんの手作りでしょう」と続ける。
マリーはララを見、スカートを……裾に咲く花の刺繍を見下ろした。
「……うん」
「だから今、赤ちゃんがお世話されている光景は、あなたのときと同じものなんですよ」
マリーははじめて、おずおずと顔を上げた。涙をたたえた父と母の顔がそこにある。
「ごめんなさい、マリー」もう一度、母親はそう口にした。「帰ってきて。私たちのお家に。マリーは大切な、私たちの子どもなんだから」
「そうだ、私にとってマリーは、宝物のように大切な娘なんだ! 丸一日立ちっぱなしで、ときに恐ろしい化け物やら不届き者やらと戦わなくちゃならないときも、マリーのことを思えばがんばれるんだ。パパは、いつもそうやって――」
「うわあああああああ!」
小さな体が御者台から飛び出す。そのまま、父と母の方へ飛び込んでいった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいいいいい!」
「謝りたいのは私よ。ママの方よ。いつも我慢ばかりさせてごめんなさい。これからは、もっと一緒にいましょうね。一緒に、新しい家族を育てていきましょう」
「パパも仕事をもっとがんばるぞ!」
「あなた、それじゃだめじゃない。もっと家の方を……」
「そうだ、そのために出世して、あんな休みもとれない門兵じゃなく、もっと家族のために時間をとれる椅子に座るんだ! ああ、そうと決まればもっと鍛えなければならないな。忙しくなるぞ!」
泣きながら、呆れながら、笑いながら、口々に言いあう家族の姿を、ララは一歩はなれたところで見つめていた。
――よかった。
そう、心から安堵しながら。
*
家族三人は落ち着くと、改めてララに礼を言った。
「ほんとうに、なんとお礼をすればいいのかしら……」
「いえ、わたしはなんにも」
「ところで君、この車は……魔動車じゃないか? しかしこの造りは……」
「パパ、お姉ちゃんの車、すごいんだよ! あのね、うしろがお家になってるの!」
「なんだって? 家?」
「そうよ。キッチンもベッドも、お風呂だってあるんだから!」
「はい、車で旅ができるようにしたんです」
遠慮していたララも、自慢の車を褒められれば目つきが変わる。ちょっと胸を張りながら、後ろの扉を開けてみせた。
「な……これは」
中を覗いた父親も母親も、思ってもみなかったその完璧な造りに、ぎょっと目を丸くしている。
「あたし、このお部屋でごはんをたべて、おふろにはいって、ねむったの。ぜんぶ、お姉ちゃんのおかげよ」
「まあ……」
「それに、お姉ちゃんがいなかったら、森でモンスターに食べられてた」
マリーはララのほうへ身を乗り出す。
「ほんとうにありがとう、お姉ちゃん」
「……いいえ、わたしも、ほんとうに楽しかったんですよ」
命の危険や思いもよらぬ事件がつきものの旅。だがなんにでも純粋によろこび、驚きながらも楽しんでくれるマリーの存在は、旅の道中を明るく照らしてくれた。
「短かったですけど、すてきな旅路でした。マリー」
会話の流れと、徐々に赤みを増していく空模様の動きから、この時間の終わりが近づいているのを感じる。ララは「そうだ」と思い立って、御者台から丸い虫かごを取り出した。
「あっ!」
マリーが声を上げる。子リスは籠の扉が開いたとたん、黒い影となって勢いよく飛び出した。
「その、リスは?」
母親が尋ねる。「とてもかわいいけれど……」
「あのね、森で出会ったの。この子、お家がないみたいでね」
「まあ」
「それで、いっしょに旅を、と思ってつれてきたんだけど……」
子リスはマリーのポケットにすっぽりおさまり、我が物顔でくつろいでいる。
「その子、マリーになついているんです」
ララが苦笑ぎみに説明した。
「そのポケットがお家なんですよ」
「いいぞ、そのリスも今日から我が家の家族だ」
父親がそう告げると、マリーも母親もぱっと顔を上げた。
「いいの……?」
「ああ。ちゃんと名前もつけて、世話をしてあげよう。マリー、できるかな?」
「もちろんよ! この二日のあいだもずっと、あたしがめんどう見てきたのよ」
マリーは嬉しそうにポケットに手をやる。
「よかった……ほんとうに、よかった……」
子リスは、自分に新たな家ができたことも、家族が増えたことにも気づかないで、すっかりぬくぬくくつろいでいる。その様子がおかしくて、だれともなく笑い声があがった。
「……では、わたしはそろそろ、行かないといけません」
名残惜し気にララが告げると、たちまちマリーの笑顔が翳る。
「もう?」
「まあ、そんな……よければうちに泊まっていきませんか? もっときちんとお礼を……」
「いえ、お気持ちだけでうれしいです。わたしも残念ですが、次の目的地がありますから」
ララはぺこりと頭を下げた。
「どうかこのまま、村へ行ってください。名残惜しい気持ちは、みなさんのお姿を見送ることでおさえます」
「そんな……」
父親も母親も、顔を見合わせた。だがララは旅人だ。マリーと変わらない背格好をしていても、ギルド証を持つ自立した少女なのだ。
「わかりました。でも、どうか忘れないで。私たちの家は、あなたのためにいつでも開けていますから。お水やご飯がほしいとか、たまには車以外で眠りたいとか、どんな小さなことでも立ち寄ってくださいな」
「町にもぜひまた来てくれ」
父親も、感極まったようにララの手を取る。
「道具屋という道具屋に、もっと品ぞろえをよくしとくよう、言っておくから……」
「そ、そんな、じゅうぶんでした。あの町の情報は地図にも書き加えていますから――」
「お姉ちゃん!」
マリーも駆け寄って、ララをぎゅっと抱きしめる。
「やくそくだよ。また来てね。お手紙もちょうだいね。それで、また車に乗せて。ね、ね?」
「はい。それは……もちろんです」
ララは、マリーの体を優しく離した。
「さあ、もう、行ってください。どうかみなさん、お元気で」
「ほんとうにありがとうございました」
「ありがとう、小さなお嬢さん」
「またね、お姉ちゃん。またね!」
三人が歩いていく。父親と母親に手を引かれながら、小さなマリーは何度も何度も、こちらを振り返った。そのたびに、ララは手を振った。
強烈なオレンジ色の光が空から降ってきて、麦畑を赤々と燃やす。あまりにもまぶしいその光のなかに、三人の姿が溶けていく。
「……」
空っぽの、丸い籠を両手に抱えて、ララはしばらく、その場から動けなかった。
***
ララのひとり旅が、また始まった。いつもの日常が、戻ってきた。
ララは自慢の車に帰っていく。住みやすいように、不便も楽しいと思えるように、たくさん考えて改造した、世界にひとつの、自分の家。
たくさんある収納スペースのひとつを開けて、ララは空っぽの籠をしまいこんだ。両手を深く差し込んだ奥のほうへ。
ふん、ふん、ふーん……♪
鼻歌を歌いながら、御者台へ戻る。はめ込んだ魔導石に意識を傾けながらレバーを引く。轟音を立てて震えだす車体。かろうじて届くつま先でペダルを押し込み、車は発進した。
次はどこへ向かおうか。今夜はどこで眠ろうか。車中泊なら自由自在だ。たくさん危険はあるけれど……不便でひもじい時もあるけれど……
「さあ、また、たのしい旅のはじまりですよ」
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