猫だけが、知っている。

束白心吏

猫だけが、知っている。

 けたたましいアラームの音が部屋に響く。


「ん……もう朝ぁ?」


 部屋の主はアラーム音を止めてスマホが表示する時刻を見る。6時30分。アラームをセットした時間で違いなかった。

 彼女はもう少し寝たい衝動に駆られながら上体を起こし、グッと一つ大きく伸びをする。疲れの取れた気がしない。季節の変わり目に弱い彼女は毎年、この時期の体調がいいとは言えないが、今年の不安定な気候もあってか、はたまた歳を重ねたせいか、今まで以上に体が重い。そんな体に鞭打って、彼女は寝ている間にボサボサになった癖毛を直すために洗面台に向かった。


「うわ、凄い隈……隠せるかな」


 洗面台に向かうと、鏡には不健康そうな顔をした女性──つまるところ彼女──が写っていた。肩にかかるくらいのボサボサな髪の毛に、目元の濃い隈。最近は早く寝ているのにこれであるから、睡眠の質が悪いのかと、どうにか改善しようと普段はしない濃い化粧を施す。

 慣れないことに戸惑いながらもどうにかメイクを終わらせた彼女は、時計を見てすぐに着替えを始める。時刻は七時過ぎ。普段ならとうに朝食を終えている時間だが、疲れや慣れないメイクのせいで時間が押したのだ。

 彼女は朝食抜くか出社途中で買うことに決めて、身だしなみを整える。朝に弱い彼女はこういうことが多々あるため、その判断は早かった。

 普段から鞄を持って玄関で靴を履き、ふと思い出して下駄箱の上に置いてあるキャットフードの袋から適当な量を隣に置いてある器に流し込む。


「にゃあ」


 その音に釣られて、彼女の唯一の同居人である黒猫が音もなくやってきた。


「おはよう。今日も


 あまり外にでない、番犬代わりの黒猫をひと撫でして、彼女は外に出る。

 玄関に残された猫は、皿に入っていたキャットフードを食べ終え、その場で丸くなる。日差しも然程入らない、少し寒い玄関で、黒猫は今まさに寝んとしていた。

 その様子は番犬ならぬ番猫……とも言えるかもしれない。黒猫がこの場で寝る真意こそ定かでないが、この家の主人が作った猫用の寝床ではなく、朝食を食べてすぐ寝てしまうのには深い理由もある。


 そもそもの話であるが、彼女の「よろしくね」という発言は黒猫に対して番犬代わりを任せての話ではない。そんなことをしなくても黒猫は番犬の代わりを十全に果たすと彼女も知っている。

 ならば何故「よろしくね」なんて猫に言うのか……それは朝の弱い彼女の盛大な勘違いから生まれたことで、睡眠不足の原因でもある。


 話は変わるが、彼女の住む家は木造二階建ての典型的な日本家屋だ。一人と一匹で住むには広すぎるこの家は、静かな場所を好む彼女にとって住み心地こそよかったが、家中に掃除の手が行き届かないことが不満でもあった。故にある時、彼女は一緒に住む一匹──老いた黒猫──に愚痴を零すように言ってしまったのだ。


──猫の手を借りたい、と。


 それから、彼女は睡眠不足に悩まされるようになる。まだまだ働き盛りで、普段から健康には人一倍気を使う彼女は、歳だからと睡眠の質を落としたわけではない。、睡眠不足になっているのだ。

 そして睡眠不足なのは黒猫も同様。彼もまた長く生きたが故に、彼女の願いを、猫の手を借りてでもと願われてしまったが故に、睡眠時間を削られている。


 彼女は知らない。猫の手を借りていると思っているのは、実際は猫に手を借りられているだけのことを。

 願いを叶えて貰っていると思って、実は自分で叶えていることを。

 そして、自分が憑かれていることを。

 彼女は知らない。知っているのは、猫だけ。


 猫だけが、知っている。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

猫だけが、知っている。 束白心吏 @ShiYu050766

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ