第5話

 成瀬瑠璃の一日の始まりは、とくに気合の入ったものだった。目覚まし時計が鳴ったのは五時。

「ふぇ?」

 しかし成瀬の起きた時間は六時半。予定よりも一時間半遅れてしまったのだ。

「え……ちょ、やだっ!」

 本来の予定では、いつもより早めの時間である五時に起きて、弁当を二人分作るつもりでいた。まったく同じおかずを用いて、だ。つまり、成瀬瑠璃は自分ともう一人の分──つまり、ある想い人のために、弁当を作るつもりでいたのだ。

 しかし、六時半に起床してしまった。それはつまり、予定に大きなずれが生じてしまうのだ。二人分作るのには一時間ほどかかる。予行練習で時間を測ったとき、一時間を過ぎていた。 

 自宅を出るのは七時半ごろ。今から一時間のタイムリミット。間に合うか間に合わないかの瀬戸際。

 だが、万が一にもこういう事態に陥った場合、成瀬は自分の分を減らし、〝彼〟の分だけを作ると心に決めていたのだ。

「……よおし、がんばるぞお」

 朝食をも抜きにし、たかが弁当のために奮闘する少女。成瀬の屋敷に住む使用人や、彼女の執事はそれを見てどう思っただろう。

 奇妙だ。あるいは珍妙だ。

 いや、もしくは。

 今日、地球が滅ぶのか。それとも地球外生命体が攻めてくるのか。それともお嬢様が男に振られて、鬼と化すのか。その勢いで屋敷全員の者たちが喰われるのか。

 屋敷の連中のそんな確信に似た危機感は肌をじりじりと焦がしていった。



 そんなわけで、成瀬瑠璃のスケジュールだった。

 弁当を作り、ぎりぎり七時半前のところで制服に着替えて、黒塗りの高級車に乗り、走っていると〝彼〟を見つけたのだ。

 しかし、成瀬は不機嫌だった。彼──御子柴春太は彼女のことを覚えておらず、そのうえ御子柴には想い人がいた。

「成瀬瑠璃。それがわたしの名前です。どうぞお見知りおきを、というかとっくに知っておいてくださいよっ!」

 成瀬瑠璃。実際はどういう字を書くのか、御子柴にはわからなかったが、おそらく似ているというのだから、成という部分以外は同じなのだろう。

「じゃあ、わたしはもう行きます。また学校でお会いしましょう」

「は、はい……また」

 その車が高校へ向かって、姿が小さくなっていくのを御子柴はじっと見ていた。

「……なんなんだ、あの」御子柴はため息交じりにいった。「ま、いいか」

 しかし、気にしない。

 これも些細なトラブルだ。興味さえ持てない、ちっぽけな、ただの一つのトラブル。

 御子柴はなかなか冷めた気性である。勉強も、運動も、それなりにはこなしているが本気でやろうとは思えない。なにかに夢中になったといえば──やはり、それは恋愛なのだろう。

 じつに若者らしい。

(もっと違うものに熱くなれたら──)

 御子柴はいつも、そんなふうに思っていたが、誕生日を迎える前も、そのあとも、特筆して熱中できたものなどなかった。

(早く学校へ行ってしまおう)

 桜並木を抜け、高校の正門前へ。始まりのベルまでまだ十分以上もある。

「お、御子柴」後方から声をかけられたため、御子柴は振り返った。そこに永井遼太郎が御子柴に向けて手をふり、立っていた。

「ああ。おはよう」

 御子柴も両眉を上げて、手をふった。すると遼太郎が小走りで御子柴のほうまで行って、彼のとなりに立ち、共に校舎のほうへ入っていった。

 そして教室へ着いて、お互い前後の席に座ったとき、御子柴が「じつはさ……」と話を切り出した。それから御子柴は朝に起きた出来事を話した。最初こそ遼太郎は興味深そうに聞いていたが、話が進んでいくにつれて彼の眉がぴくぴくうごくのが解った。

「──んだよ、ただの自慢話かよ」

 と軽く遼太郎は舌打ちした。

「自慢話……って、そんなわけないだろう」

「いや、自慢話だね。お前自身はそう思うかもしれないが、俺からしたらただ、謎の美少女に絡まれたっていういかにも男好みのシチュエーションを見事に現実にしてみせたぞーっていう、頬からニキビが浮き出てきそうなぐらい羨ましくも恨めしい自慢話さ」

「どういう表現ですか、それ」

「昨日読んだ小説に出てきた。知らねえのか? 『僕は君のドッペルゲンガーに恋をする』の作者が書いた実質的な続編! 『蒼物語』だよ」

 御子柴は頬杖をつきながら、遼太郎の布教話を聞いていた。時折、御子柴はあの少女のことを思い出していた。

 成瀬瑠璃。奇怪というわけではなく、かといって普通でもない。的を射た表現を、たとえ言葉の宝庫から手探りで進めたとしても、その空白にはまるものはないのだろう。

 遼太郎の長話を遮るかのようにチャイムは校舎内に響いた。そのとき遼太郎は少し名残惜しそうに唇をへの字に変えて、「むう、じゃあしゃあねえ。この話は今日の昼休みにでも」といって、黒板のほうへ向いた。

 御子柴は頬杖をついたまま、窓を眺めていた。でも教室に来て一つ気になっていたことが彼のなかで浮き彫りになっていった。

 ゆっくりと隣の席のほうへ首を動かし、視線を向ける。彼が向けた視線の先──そこに、永瀬瑠璃がいる、はずだったのだが、そこに人の姿はなかった。

 そのとき、御子柴のまぶたの裏に一つの記憶がよみがえった。オレンジ色の染まる天上の空。夕陽がこちらを覗いていた、あのとき。

 永瀬瑠璃は屋上にいた。

(もしかして……)

 瑠璃との言い合い。そのときの声が、あらかじめ録音していたかのように頭のなかに声が流れていく。

 胸が空っぽになりそうだった。いや、もうすでに空っぽになっているのかもしれない。罪悪感とともにやってきた後悔は、御子柴の心を内側から食い破ってくるのだ。

(いやいや。もしかしたら単に遅刻かもしれない)

 しかし、彼女が遅刻するところなど見たことがない。少なくとも、彼が彼女と過ごした中学校生活のなかでは。

(……謝りたいな)

 屋上から瑠璃が去っていくのを、ただじっと見ていた自分自身に対し、刺々とげとげしい嫌悪感が湧いてくる。

「えー、ホームルームを始める。が、その前に。またもや今日から新しいお友達が来る。──入ってきていいぞ」

 いつの間にか教壇に立っていた担任である藤岡教諭が、教室のドアの向こう側の誰かにいった。

 二日続けて転校生──というのはやはり珍しいケースなのだろう。御子柴含め、生徒たちは戸惑いつつも期待感に胸をふくらませていた。

 そして引き戸を開け、そこから入ってくる少女。肩までおろした流麗な茶髪が、開けていた窓から吹き込んできた風でなびく。その姿は、生徒たちにはどう映っただろう。

 神か。あるいは天使か。それとも悪魔、またはサキュバスか。それとも未来からやってきたロボットなのか。

 どれも違うだろう。

 あまりに綺麗で、光を束ねた明朗快活な瞳をもつ、可愛らしい美少女だ。

「成瀬瑠璃ですっ。あ、えっと字はですね……」

 成瀬瑠璃と名乗った少女は後ろを振り向き、チョークをもって、達筆な日本語で名前を黒板に書いた。

「これですね」といって、手をぱんぱんと音をたて、チョークの粉を落とす。それから成瀬は生徒のほうへ向いて、「では、改めて! わたしの名前は成瀬瑠璃です! これからよろしくおね、が──」とある一点に視線を向けて、成瀬の声は小さくなっていく。

 その一点とは、御子柴春太である。じっと成瀬のほうを見ている。成瀬も彼を見つめているため、この状況は目が合った、というべきなのだろう。が、それぞれが抱く思いはやはり別であった。

 御子柴のほうは、

(そういえば、また学校でお会いしましょうとか言ってた、けど……よりにもよってこのクラスにとは……)

 成瀬のほうは、

(御子柴くんが……このクラスに……しかもわたしのことを見ててくれている……)

 戸惑いと喜び。あまりにすれ違った思いであった。

「おい、もしかしてあの子……」遼太郎が御子柴のほうを向いて、ささやき声で訊いてきた。「ああ。さっき話した……」

「やっぱりか──あの子、お前のこと見てんぞ」

「……やっぱりあれは、僕を見てるんだよね……なんか、ちょっとした期待を通り越して怖いんだけど」

「贅沢いうな。期待しろ。大いに期待しろ。あれは間違いなく惚れた男を見る目だ」

「……惚れられたという事実自体は嬉しいけどさ、どう対応すればいいんだい?」

「知るか。期待だけしとけ。そして砕けろ」

「──君って案外毒舌とか言われたりしない?」

「ふん」と鼻を鳴らす遼太郎。「ま、でも慎重にな」

「うん、了解」


「御子柴……くん……」

「え、えっと。僕に何か──」

「御子柴くん……御子柴くんが、ちゃんとここにいる……」


 少女は目を涙で濡らしていた。その突然の涙に、誰もが目を丸くさせていた。


「愛してる──御子柴くん」


 少女は小首をかしげ、目を細めて、いった。その突然の愛の告白に、誰もが目をひん剥かせた。


 御子柴春太の人生は、前途多難、ということなのだろうか。


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