第4話

 二日目。

 御子柴春太は転校から二日目にして、あまりすぐれない気分だった。体調が悪い、というわけじゃなく、昨日の放課後のことが頭から離れないでいたからだ。

 脳裏に浮かぶ、濃い緑色のような苦い記憶。その味は微力ながらじわじわと御子柴の思考の軌道を変えていく。あれからもう一晩経っているというのに、だ。

「……どうすれば、いいんだよ」

 懺悔のようにも、戸惑いのようにも聞こえるその言葉は、春風に吹かれてどこかへ消えていった。

 御子柴の視界には、ピンク色の花弁がいくつも舞い散っている。桜並木だ。彼は顔を伏せ、胸のまえまで手のひらを持っていく。桜の花弁が一枚、手のひらの上に乗る。そしてしばらくすると、また生暖かい風が吹いて、手のひらの上にあった花弁が回転するように舞っていき、御子柴の手から離れた。

 と思ったら、またピンク色の花弁が御子柴の手の上に。さきほどとは少し形が違う。

「御子柴くんっ!」

 花弁を地面へ落とすと、彼は不意に誰かから名を呼ばれた。少女の声。その声は車道から聞こえた。御子柴はその方向へ顔を向けると、見知らぬ少女が、黒塗りの高級車の車窓しゃそうから顔を出していた。輝かしい黄金の花を連想させるような満面の笑みだった。

「ええっと、どなたですか?」

 御子柴は少女の名を知らなかった。顔を知らなければ、名も知らないのは当然であろう。しかし、その茶髪の少女は彼の顔も名前も知っていた。そしてなにより少女は、御子柴が自分のことを知っているはずと確信をもっていた。

 だからこそ、御子柴に「どなたですか」と訊かれて、その満面の笑みを一瞬で崩してしまうのも当然であろう。

「え、ええええななななんで……!?」

 だからこそ、唇を震えさせ、呂律ろれつが回らなくなるのも、当然なのだろう。

「……なんか、すいません。僕、あなたのことはよく知らなくて」

「──え、知らない? 知らないなんてことないでしょ?」

 御子柴はそう言われて、その少女の顔を、目を細めて凝視した。細い眉。綺麗につり上がっている長いまつ毛。この世ではあまりに珍しい青色の瞳。吸い込まれそうだ。ぷるんとした女性らしいやわらかそうな唇。

 少女は彼にまじまじと見られていることに対し、頬を赤く染め、目を泳がせていた。

 端正な顔だ、ということ以外は何もわからなかった。──正確には、端正な顔であることと中学のころの永瀬瑠璃と似ているということだけだった。

「えっと、綺麗な顔ですね」

「ふぇ?」

 動物の声みたいだ、と御子柴は思った。

「だから知らないです。あなたみたいに綺麗な人で、おまけに僕と知り合いなんて、一人しかわかりませんから」

 それは紛れもなく永瀬瑠璃である。

「誰ですか、そのひと」

 御子柴はその言葉に恐れを抱き、思わず一歩退いてしまった。少女の声は、それこそ聞いてしまうと死んでしまいそうな、そんな恐ろしいものだったと言える。

 つまりはドスのきいた低い声であったのだ。

「たぶん、知らないひとだと思いますよ……?」

 おそるおそる言ってみる御子柴。

「構いません、言いなさい」

 命令なのか、と御子柴は胸中でつぶやく。絶望もしていた。石化でもしたみたいに、体が動かない。

 不良に見つめられることと少し似ていた。

「永瀬瑠璃、ですけど?」

「……わたしと名前、似てますね」

「そうなんですか?」

「ええ」少女はそう言葉を切ってから、名乗った。「成瀬瑠璃。それがわたしの名前です」

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