第3話
3
昼休みというのは、ついこないだまでは有意義な時間だった。夏の日差しとともに、そよ風が窓から吹き込み、御子柴の心を透けて通っていく。そんな清々しい気持ちのなかで本を読むのは素晴らしい時間であった。それに勝る時間なんて、彼女と話をしているときぐらいなものだ。
数は減った。休み時間を重ねるうちに御子柴に質問をしてくる優しい人たちとやらは、数を減らした。
というか──あんまり来なくなったんだな。なんでなんだろう。あまり気にしないでおこう。
「御子柴。メシ食おうぜ」
弁当持ってるか、と続けて御子柴に問いかける遼太郎。彼は机の横にかけてある通学カバンから、布で包まれた弁当箱を手にした。
それを机上に置き、「あるよ」と言った。
「お、じゃあ」と遼太郎も自分の弁当を御子柴の机上に置き、イスを動かして御子柴のほうを向いた。
あ、と御子柴は声を洩らし、顔を横に向ける。視線の先にいるのはやはり頬杖をついている永瀬瑠璃だ。
ああ、もう。やっぱり違うのか?
冷徹なる隣人は御子柴が知っている永瀬瑠璃とは別人で、本当の瑠璃は別の高校で青春を送っているとでもいうのか。
一応、誘ってみるか。
「あ、あの。永瀬さん、よかったらいっしょに──」
「私、学食だから。じゃあね」
と言って席を立って颯爽に教室から去っていくのを、御子柴はじっと見ていた。
「……御子柴」
「うん……」
ああ、永井くん。君という奴はどうしてそんなに優しいんだろう。
御子柴は目を涙で濡らし、その瞳を輝かせていた。
「残念でした!」と言って胸の前で手を叩く遼太郎。訂正しておいたほうがいいな、と御子柴はつぶやく。「俺も一回、告白したんだがな……なんか、好きな人がいるって断られた。でもひどい断り方じゃなかったぞ」
そんなエピソードを聞いても慰めにはならない。それどころか彼は自分で自分の傷に塩を塗っているようなものじゃないか?
「それ、自分で言って大丈夫なの?」
と御子柴は包みの結び目をほどいて、弁当を裸にする。
「今はそんな気にしてないな」
「そうなんだ」
御子柴は蓋を開け、中にあるおかずたちを外気に晒し、箸を手に取る。むんむんとした香りが彼の鼻を透き通る。少し胸がわくわくしてきた。
「でも、よく永瀬さんみたいな怖そうな人に告白できたね」
「ああ。俺が読んだ漫画の登場人物が言ってたんだ。『クール系の女の子にこそ、積極的になるべきだ』ってな感じで」
ああ、それは僕も知っている、と胸中でつぶやいた。
御子柴はあまり漫画を読むほうではないのだが、ある一つの漫画にはすごくのめり込んだ。それはジャンルでいうと、恋愛漫画というものなのだが、一巻の冒頭から引き込まれた。それからは漫画全巻買って、原作小説や映画も全てコンプリートした。
「それ、〝僕は君のドッペルゲンガーに恋をする〟だよね?」
「お、知ってるのか? おもしれえよな。とくに最後のどんでん返し」
「僕もそこは鳥肌立った!」
「映画みたときは俺、ちびりそうになったんだぜ!」
「あ、それ僕も──いや共感したくない」
「んだよ、ノリわりいなー」
そんなふうに、その昼休み中、御子柴は遼太郎とその作品について語り合った。このシーンが好きだとか、この文が好きだとか、映画は十回ぐらい観に行ったとか。あとは、逆にこの部分は気に入らないってところも挙げてみた。
そんななかで遼太郎には姉がいるということを知った。
「うちの姉貴は泊まり込みで仕事しててな。どうやらどっかでメイドとして働いてるみたいなんだけど、あの頑固姉がメイドなんてな……」
遼太郎は眉間にしわを作って、いかにも不満そうに口を尖らせた。
メイド、なんて今どき珍しい役職だ、と御子柴は眉を上げる。
「へえ」と御子柴は口角をつり上げる。「永井くんって、シスコンだったりするのか?」
「ば、ばっかちげえよ」
「ほーん」と御子柴は小さく何度か頷いてみせた。でもそれは納得したという意味ではなく、からかっているつもりだった。
「父親は?」
さっきの話で、姉と一緒に父親に対して少し文句を言っていたので、気になったのだ。
「親父? 刑事だよ。そういえばこの前、親父が探偵を家に連れてきたんだぜ。藍沢っていう」
へえ、と御子柴は興味深そうに返事をしてみる。その後、御子柴と遼太郎は弁当は食べ終わったが、無駄話のほうは終わらなかった。御子柴自身、彼の話には思わず聞き入っていたので、無駄話と言っていいのかわからない状態でもある。
遼太郎の話を聞いていると爽快な気分になる。のどの奥につまった大粒がすっかり流されてしまったかのような、そんな気分だ。
永井遼太郎の言葉の一つ一つがはっきりとしていて、聞いていて思わずうんうんと頷いてしまう。彼の話すときの仕草も、自然としていて上手いと思う。
「って、あっという間にチャイム鳴っちまったな」
盛り上がるところを邪魔するようにチャイムは学校中に響いた。遼太郎は自分の弁当を布で包んで、通学カバンの口を乱暴に開けて入れた。
御子柴も弁当箱を包み、しっかりと結び目を作って、通学カバンの口に入れた。
そういえば、と御子柴はすっと素早く横を向いた。いない。そう、昼休み開始早々、教室から去っていった瑠璃は、予鈴が鳴ったのにもかかわらず戻ってきていない。それは数十秒、数分、あるいは授業は一コマ終わる時間になっても同じだった。
4
放課後。御子柴は遼太郎から一緒に帰ろうという誘いを受けたが、意識は別の人物のほうへ向いていた。
「ごめん、ちょっと僕、用事あるから」と御子柴は言って、彼女を探すため、床を足で蹴って、廊下を駆けた。二年生の教室全てをまわったあとで、階段を昇る。心当たりが、なんてものじゃなかったが、御子柴にはある一つの予想が、淡い灰色のように頭に浮かんできた。
きっと、永瀬瑠璃はここにいる。
確信に近い予想だった。
御子柴は屋上の扉までたどり着く。彼が中学生のころ、正確には中学二年生で永瀬瑠璃のそばにいたとき。瑠璃は、「屋上っていいよね。よく何かあったときにはここに来てるんだ」と言っていた。
もし──もしも、彼女が僕の知っている永瀬瑠璃なら。
御子柴はすうっと息を吸う。そして吐いた。鼓動は太鼓のように身体のなかでどくんどくんと鳴り響いている。少しうるさいほどだった。
汗が額に滲む。下唇を噛む。ドアノブを握る力が強くなる。目を細め、眉間にしわを作る。
次の深呼吸のあと。
御子柴はそのドアを開けた。
強い風が吹き込んで、全身に当たる。額辺りがすうすうとする。
「えっ」
ドアがひらいた音に気づいたのか、その少女は振り向いた。屋上の真ん中でぽつんと少女が立っている。ドアの音がするまで、じっと空に浮かぶ雲を見ていたのだ。
「永瀬さん──いや」御子柴は言葉を切る。「瑠璃、だよね?」
「……ぇ」
戸惑いを隠せぬ少女。
永瀬瑠璃は沈黙のまま、潤んだ瞳で御子柴を見ていた。
御子柴はドアから離れて、力強い足どりで瑠璃に近づく。
瑠璃のすぐ目の前まで来て、御子柴は強い意志のこもった瞳で、瑠璃の弱々しい、涙で濡れた瞳を見る。
瑠璃はさきほどまで涙を流していた。目元と鼻を赤くして、唇を噛み締めていた。誰もいないのに、嗚咽を我慢していた。それは、泣くこと自体、認めてしまうということ。御子柴春太という存在が、自分の領域へ踏みいることを認めるということなのだ。
「な、なんで……」
「やっぱり、瑠璃なのかっ」
「違う……違うから、人違いだから」消え入るような声で瑠璃はそう言った。そして顔を伏せ、見られないようにした。
「違わない。だって、同姓同名で、顔もそっくりで──好んで屋上に来るんだよ? 僕が知っている限りでは、瑠璃と同じなんだ、君は」
「…………」
「瑠璃、どうして。どうして……」
「やめてよ」
瑠璃の肩は震えている。指先さえも凍りそうだった。顔をくしゃくしゃにした状態で、面を上げる。
「私のことなんか、忘れればよかったのに……なんで、なんで覚えているのよ……」
その言葉の意味を、御子柴は上手く読み取れなかった。
「春太──なんて、春太なんてっ」瑠璃は顎をひいた。「もういい。これからは話しかけないで」瑠璃は御子柴の横を通り、背中を見せ、そう言った。
瑠璃はドアを開ける。それから階段を降りるような足音が御子柴にまで聞こえた。
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