第2話

一章 青春は一割の甘酸っぱさと九割の理不尽で出来ている。



 ある小説で、青春は一割の理不尽と九割の甘酸っぱさで出来ている、という文章を読んだ。その小説の展開は、まさにその文章と一致していて、理不尽な部分はあるものの、若い男女の恋愛らしく甘く、そしてすっぱい。そんな読後感がすっきりとするような青春物語だった。

 いや、それはおかしいんじゃないか?

 御子柴春太はこの小説を読み終えてから思わず出た言葉は、それだった。理不尽がたった一割なんて、そんなのはふざけてる。

 御子柴のなかに沈殿していたある想いが、そんな批判を生んだのだ。中学生のころ、初恋の子と付き合って、少し時間が経てば親の転勤で引っ越してしまった。

 理不尽だ。理不尽でしかない。

 だから少なくとも御子柴春太が青春だ、と思っていたその時間は──一割の甘酸っぱさと九割の理不尽で出来ていたんだ。

 そんなことを考えながら、御子柴はある高校へと向かっている。

 空は雲一つなく、唯一浮かんでいるものは燦然さんぜんと輝く太陽。僕が歩く道には、両脇に桜並木があり、ピンク色の花弁を散らしながら、この春を彩る象徴となっている。

 学生であれ、社会人であれ、まさにこれは等しく人の始まりと言える季節である。

 ならば、つまりそれはこの少年の始まりとも言える。人生は物語だという哲学者がいるのであれば、自分は大いに賛成しよう。

 次に踏み込むこの一歩も、物語の一部だと思えば特別感があって面白い。

 と、前置きが長くなってしまった。

 御子柴春太はこの春、この地に戻ってくることになった。生暖かい風を浴びながらスタートラインに立っている。

 生まれたのはここで、中学生まではここで育った。しかし親の急な転勤でここより遠い場所へ引っ越してしまったわけだが、高校二年となる今、再びここへ戻ってきたわけだ。

 そんなことを考えていると、あっという間に御子柴は教壇の上に立っていた。黒板にチョークで御子柴の名前を書いて、クラスメイトたちのほうへと顔を向ける。

「熊本から引っ越してきました。御子柴春太です。これからよろしくお願いします」

 そう言って御子柴は頭を下げた。その間に先生は「はい、じゃあ仲良くしてあげてね」と言った。顔をあげる。先生は一番後方の、窓側の席を指差して「それじゃあ御子柴くんの席はあそこだから」と御子柴に言った。はい、と返事をしてその席へ向かう。その途中でちらりとクラスメイトの顔を見てみる。

 何度か目が合う。やはり転校生というものは注目されてしまう。熊本に引っ越したときもこんな感じだった。個人的に、この状況を二度も味わった身としては、やっぱり苦手だなと考えてしまう。

 指定の席に座る。思わず、横を見た。

 そこには──思わずを目を張ってしまうほどの、端正な顔立ちをした少女がいた。

 最初は黒板のほうをじっと見ていたけれど、今、たったこの瞬間だけだけれど、彼女はちらりと瞳を動かして彼を見た。

 最悪だ、と思う。同時に、最高だ、と思った。

 だって、永瀬瑠璃と──初恋の女の子と、再会したんだから。



 御子柴はゆっくりと視線を先生のほうへ戻した。彼女を見た瞬間、彼の心臓は高鳴り、その鼓動が全身へ浸透していった。思わず彼は口が開いてしまったので、口を右手で抑える。

 何を考えているんだ、僕は。

 声をかけたい。そりゃかけたいさ。でもまだだ。まだこの時じゃない。あとで声をかければいいだけ。そう、あとで。

 そう自分に言い聞かせて、隣人に不審に思われないよう、息をひそめる。そしてそっと深呼吸をする。

 それから先生の話を聞き、朝のホームルームが終わった。

 すると、前の席の男子が、「よう、俺は永井遼太郎。これからよろしくな」とにこりと歯を見せて自己紹介をしてきた。眉が太く、少しばかり二、三歳ほど上の男性のように見えた。

 それから自分の字を引き出しから出した紙に書いてくれた。永井遼太郎、という字だった。

 たった今の自己紹介だけで人の性格の善し悪しがわかるわけじゃないけど、たぶん、この人はいい人なのだと思う。

「うん、よろしく」

「俺も生まれは熊本だったんだぜ」と得意げに話す遼太郎。

「え、そうなんだ。まあでも、僕は神奈川生まれだけどね」目を細めて御子柴は笑う。

「へえ、そうなんだな。でも熊本もいいところだろ?」

 御子柴は頭のなかに住んでいた場所を思い浮かべながら話した。「うん。すごくね。水はおいしいし、空気も澄んでいる。外に出るのがいつも楽しみだった」

 へえ、わかってんじゃんと目を細めて、唇をつりあげ、笑う遼太郎。たぶんこの人は笑うのが得意なんだろう。リョウタロウの笑顔は誰かを惹きつけるものがある。

「御子柴くん、生まれはここなんだ」と女子が話しかけてきた。それはもちろん隣の少女ではなく、別の席からやってきた、やや細目の女の子だった。

「うん。中学生のとき引っ越したんだ、熊本に」

「へえ」

 その女子をはじめに、ぞろぞろ男女がやってくる。質問攻めだ。御子柴はそれに困り果て、遼太郎に質問してみた。

「ここの学校、転校生は珍しいの?」

「特別珍しいわけじゃねえと思うけどな。まあやっぱり転校生のことは気になるもんだろ」

 まあ、そういうもんだよな、と御子柴はぼそっとつぶやく。注目されることに嫌悪感があるわけじゃない。むしろ、その注目の意味が良いものだとしたら嬉しい。けれど、ここまで来ると──正直鬱陶しい、と御子柴は眉を曲げた。

「そういう、若干冷めたところ、変わんないね」

 え、と御子柴は声をあげる。まるで彼の心を見透かしたような声が聞こえた。しかもその声の方向は、となりにいる永瀬瑠璃のものだったのだ。

 彼女のほうを見てみると、相変わらず頬杖をついて、黒板を見つめている。

 一時限目の授業が始まる直前になり、御子柴のほうへ集まっていた生徒たちは自分の席へ帰っていった。

 これはチャンス、と御子柴は心のなかでガッツポーズをとった。

「あの。僕、御子柴春──」

「さっき聞いたけど?」

 思ったよりも早い返事でよろしい──ではなく。

「あ、ああ。じゃあよろ──」

「それも聞いたんだけどね」

「…………」

 肩まで黒髪をおろしている、クール系のその少女は、僕の言葉をある程度予測していたかのように即答していった。

「じゃあ、名前聞いていいかな?」

「……永瀬瑠璃」

 少し間を開けて、彼女は名乗ってくれた。その声質は単調で、感情という火が灯っていないろうそくのように思えた。

 むかしなら。そう、自分と瑠璃が付き合うときなら。彼女はこう自己紹介したはず。「あ、えっと……永瀬瑠璃って言います。これからよろしくね!」と夕陽の光が窓から差し込んでくる教室で、首をかたむけて、目を細め、少し照れくさそうに笑ってくれたのだ。その笑顔が走馬灯のように彼の頭に浮かんだ。

 現実に戻るんだ、僕。

 今、御子柴の視界に映っているこの少女は、あの永瀬瑠璃なのか? 名前は似ている、顔だって似ている。本人かもしれない。たしかに御子柴はそう思った。そんな気づきが彼の胸を躍らせた。実際、彼の心臓の鼓動はアクセルを踏んだかのように加速していった。

 だが、あの笑顔と合致しない。そもそも表情すら無だ。なんの感慨もない表情だ。

 だからたぶん、彼女はあの永瀬瑠璃じゃないのかもしれない。ある人の話では、全く同じ顔をした人間がこの世に三人いるという。おそらくそれだ。いやそれしかないと、御子柴がそう踏み切ったところで、

「ああ、うん。ごめんね」と言った。彼女はそれに大した、「ん」と頷くだけだった。

 

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