第181話 ブラックスター 中-1

 はじめの衝突は、マリア・ペローから始めたものだった。これは自明の理と言える。不利有利を言えば足を負傷したマリアと五体満足のギルダー・グライドとではグライドのほうが有利になるのは当然のことだし、グライドの性格上、その機を逃すということはない。だからマリアは負傷していようと自分の出せる最速でグライドに襲い掛かる。


 一歩、そして半歩。マリアは雷槍を長く持ってグライドの喉目掛け突きを繰り出した。グライドはそれを半歩下がって剣で受ける。


 マリアはその場では軽く押し込むにとどめ、何度もグライドのブランクスペースを探し出し、そこへ向かって突きを放つ。それが防がれると今度は回転して腰回りにブレードを突き立てるが、これも防がれた。


 グライドが放った前蹴りをマリアは盾で受けた。強い衝撃と足元のおぼつかなさのためにマリアは尻もちをつき、大きな隙が生まれる。ギルダー・グライドは鎧ごと叩き伏せるかのような重い一撃を振り下ろす。マリアは再び盾でそれを受けた。


 ギルダー・グライドは細身の男だが、彼の力はかなりのものだ。鉄の塊が振り下ろされれば直接傷がつかずとも、腕は痺れ、体中が痛む。二度、三度、剣を防いだところですでにマリアはうんざりし始めていた。


 攻撃が止んだのには運が絡んでいた。ここまで幾度となくマリアの命を救った盾が、限界を迎えかけていたのだ。ギルダー・グライドの剣が振り下ろされた瞬間、その剣身が盾に喰い込み、グライドの攻撃を遅延させた。


 マリアは盾を斜めに捻り、グライドの身体の正面をこじ開けようとしたが、グライドが先に盾の縁を掴み、マリアの手から引き剝がそうとした。痺れた腕ではそれを跳ねのけるのは無理だ。代わりにマリアは盾にかけられた力の方向に転がり、痛みに呻きながらももう一度盾を構える。ギルダー・グライドが身体を回転させ、また盾に向けて蹴りを放った。マリアはこらえようとしたが、クロスボウの矢が刺さった左足が思うように動かず、いとも簡単に転がされてしまいそうになる。


 マリアはどうにか右足に力を込め、転がされる前に不安定ながら立ち上がる。転倒しそうになるのを防いだのは、ギルダー・グライドだ。グライドが盾を掴み、上下に揺らしてマリアの手から引き剥がした。


 盾が床に落ちる。それをコマ送りのようにスロウにマリアは見ている。そして、右足をバネのように曲げ、今込められるだけの力を込めなければ死ぬと自分を叱咤した。これはグライドにとって予想外だった。盾を引き剥がしたグライドはマリアの肩に剣を振り下ろそうとしていたが、その前にマリアが片足で地面を蹴って懐に入り込み、グライドの腕を掴むと、バイザー越しに頭突きを放った。


「ぐ……」


 強烈な一撃を喰らってグライドが怯む。


 まだ腕は掴んだままだ。そしてギルダー・グライドが剣を持っているほうの腕を抑えているのは、彼女が雷槍を持っているほうだった。


 マリアはギルダー・グライドの喉に突きを放った。普通なら絶対に除けられないタイミングだ。だがグライドは尋常じゃない柔軟性でこの攻撃を避けると、その余波で二、三歩、後ろに下がった。


 ギルダー・グライドが立ち直ると、また打ち合いが始まった。グライドのほうが力も技術も勝っているが、マリアのほうが打たれ強い。何度も殴られ、切られ、紙一重で剣が鎧の下まで届くのを防いでいる。


 グライドのほうが傷らしい傷はないが、年齢と、頭突きの影響かマリアよりも疲労感が漂っている。


 一番の理由は、煙だ。執務室に広がった火は、どんどん大きくなっていた。まるで戦っている二人を横から飲み込もうとしているかのようにだ。加えて煙も立ち込めている。グライドのほうが煙を吸っていた。


 剣の一撃を手甲で受け止め、受け流す。そのまま横へ撫でるように振るわれた切っ先を避け、マリアが雷槍のブレードをグライドの肩に突き刺した。といっても鎧の上からで、それだけでは小さな穴を開ける程度だったが、マリアは全力で体重をかけ、手甲で殴りつけて深く突き刺した。


 グライドの鎧の隙間から血が噴き出した。グライドがわめき声に近い声をあげ、マリアのバイザーを弾き飛ばし、鼻を殴りつけた。雷槍は離さなかった。


 二人とも地面に膝をついた。息苦しさに耐えながら呼吸をし、手探りで敵を殺さんとする。


 その二人の間を割ったのは、大きな天井板だった。火事で天井の一部が崩落したのだ。これにはさすがの二人も飛びのいて離れざるを得なかった。


 ギルダー・グライドとマリア・ペローは、互いに地面に体をつけ、視線を交わしていた。ギルダー・グライドの眼は険しく、マリアを射殺さんばかりだったが、マリアはそうではなかった。どこか遠い目をしていて、目の前に誰もいないかのようだ。


 マリアは膝立ちになり、手甲を外して鼻の下を擦り、血を拭き取った。そして、話し始めた。


「昔から、頭がかっとなる瞬間があるんだ」


 マリアは回想する。騎士学校にいたときから、戦争に至るまで。そしてその後の生活まで。


「どうしても目の前の人間を殺さなきゃいけないと思う。今みたいなときに」


「ああそれは」ギルダー・グライドが返した。「正常な反応だよ。敵を目の前にしているからだ。兵士としては当然のことだ。そうじゃなきゃ生き残れない」


「私はそうは思わない。エリザベートに人殺しはして欲しくない」


「ああん?」


「ここに乗り込む前、そう思ったんだ。だから彼女にはクロスボウを持たせなかった」


「戦場に、武器も持たせず投げ出したのか」


「私が守れると思っていた」


「今そばにいねえじゃねえか」


「運よく彼女が生き残っても、考えを変えるべきじゃないと思うんだ」


「考えが甘いな、お前。よく戦場で生きられたもんだよ。それともお前まさか、代償もなく切り抜けられると思ってるのか。だとしたら都合よく考えすぎだ」


「人殺しは、人殺しがやるべきだ」


 マリアが譲らずにそう言い切った。ギルダー・グライドは呆れたように眉を曲げたものの、それ以上言い返すことはしなかった。不毛な会話を重ねる代わりにゆっくりと、確実に、立ち上がる。


「終わりにしようじゃないか。私とお前で、最後まで」


 マリアは無言で立ち上がった。彼女が立ち上がったとき、彼女は右足を強く踏ん張った。そして違和感を


 それはつまり、覚えるべき違和感を覚えなかったということだ。ギルダー・グライドも同じく。むしろ彼の方がひどい。彼が左足を踏み出し、剣を振り出した瞬間、大地が二人の戦いを拒んだように、大きく揺れだした。そして次の瞬間、二人は外に投げ出されていた。

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