第180話 ブラックスター 前‐2

 マリアは専門家ではなかったが、偶然にもこの処置はよい結果をもたらした。リネン室の環境は床に張った水とその水を吸ったシーツ類、それから壁を破ったときにリネン室の棚が倒れたことで、空いた穴から入って来る煙や火も、死とはほど通りほどだった。


 このためにマリアは軽度の火傷と腿についた傷の悪化のほか、打ち身と切り傷だけで自分の作り出した状況から生きて抜け出すことができたのである。


 彼女は数分で眼を覚ました。幸い煙を吸った時間は長くなく、地面に張った水で窒息しすることもなかった。


 とはいえ痛みや精神的な負荷はひどいものだ。叫び声とさえ形容できるような呻きを繰り返し、たった二十キロ前後の鎧がどうしてこうも重いのか。熱せられた甲冑の下にあった皮膚が焼けてびりびりと痛む。倒れて気絶してしまったことで切れたスイッチを戻すのは、さしもの彼女でも苦労が要る。


 それでもなんとか彼女は立ち上がった。「ううううう……あああああっ!」と、そう声を上げ、腕に力を込め、上半身を起こすと、汚れたシーツをいれるカーゴにしがみつき、立ち上がろうとする。しかし、マリアの重みに耐えきれず、カーゴがひっくり返った。マリアは横転したカーゴの口に入るような形で、もう一度、規律を試みた。


「ああ、もう、クソ……」


 身体がぶるぶると震えた。熱さと冷たさが混じって、体がひどい調子だった。きっと明日は高熱になるはずだ。そういうのは事前にわかる。


 マリアは慎重に、慎重に立ち上がった。そしてリネン室の正式なドアから廊下へ出た。火をつけたのとは反対側で、こちらはまだ火の手が少ない。マリアはバイザーを片手に、濡らしたタオルを顔に巻いて廊下を移動した。


 その後はとにかく上階に着くことを優先した。そのために屋敷をぐるりと回って、ギルダー・グライドがいる執務室に近い階段を昇って行った。他の階段はどれも燃えて落ちているか、煙が多すぎて昇れなかった。


 そして、今。


 いま彼女は、執務室の扉の前に立っていた。白銀の鎧は煤に汚れ、見るからにぼろぼろで、愛用の武器である”雷槍”の一本はどこかに行ってしまっていた。盾もあちこちが凹んでいるし、折れている矢と折れていない矢がそれぞれ一本ずつ刺さったままだ。


 それでも重要なのは彼女が生きているということで、彼女に戦う気力があるということだった。どれだけ悲惨な姿であろうと、彼女の戦意は、その眼を見ればわかることだった。


 ギルダー・グライドは、机のうえのカンニングペーパーを閉じ、執務机の後ろから前へ出た。剣を抜いて、地面に向ける。


「マリア・ペローか! いいぞ! 早く助けろ!」


 殴られ、引きずられ、腕の骨を折られ、遺書まがいの手紙を書かされていた。ようやく希望の光を見たグザヴィエが横から口を挟んだ。


 マリアは濡れタオルを外し、愉快ささえ滲ませてギルダー・グライドとグザヴィエを交互に見た。


「アデラインはどうした」


 ギルダー・グライドが言った。


「アデライン? お前の横にいた騎士か? それなら会わなかった。エリザベートはどうした? 彼女の家族は。そこにいるやつ以外に」


「アデラインが殺した筈だ。順調ならば」


「そういうってことはつまり、順調でもないみたいだ」


 二人から無視されたグザヴィエが抗議の声をあげた。彼の立場からすれば、ギルダー・グライドに対してはもちろん、マリアに対する苛立ちはかなりのものだっただろう。腕の骨のことがなければもっと強く抗議していたはずだ。


 でもそうはならなかった。


「でも互いに、見逃す理由はない。いくら他に気になることがあっても」


 マリアがぽつりと、零すように言った。バイザーを被り、片方だけ残った”雷槍”を握る手に力を込め、盾を体半分のところまで上げる。執務室を巡る火は、さっきまでと比べ物にならないぐらい盛っていた。マリアが執務室の扉を開けたことで入ってきた風が火の活動を助けたためだ。執務室が燃えているのを見てグザヴィエは静かに椅子の裏に周り、二人の様子を観察した。


 ギルダー・グライドとマリアは、互いを牽制し合った。それが終わったところを見るには、グザヴィエの動体視力では不足している。

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