第179話 ブラックスター 前‐1

               ▽


 時は再び巻き戻される。


 マンティスがアデラインを殺害し、エリザベートたちを追い詰めるより前。


 グザヴィエ・デ・クリスティアン・ルイス・マルカイツはお気に入りの部屋で意識を取り戻した。


 シックなこだわりの天井板に、法学書や歴史書を集めた大きな本棚。一流の職人に作らせた暖炉。黒オークで作らせた高級な執務机。


 ギルダー・グライドとグザヴィエは、彼の執務室の中にいた。


 グザヴィエの執務室は、屋敷の西側、正面の道路を見下ろせる位置にあった。西側はすぐそばに巨木が存在し、燃え移った火がすでに二階にも広がりかけていた。執務室はまだましな方で、あちこちに火の光が見られるものの、まだ立って息することもできないではなかった。


  ギルダー・グライドはグザヴィエを引きずって執務室へ運び込むと、彼を床に捨て置き、自分は机を漁って紙とペンを探していた。小ぶりなペンとマルカイツ家の紋が入った紙を見つけると、鎧の内側に手を入れ、カンニングペーパーを引っ張り出す。


 ギルダー・グライドに引きずられている間、なにも考えられずにいたが、彼が執務室の、普段グザヴィエが座っている椅子に座っているのを見つけると、意識を取り戻した。


 覚醒したグザヴィエが床の上で体を曲げ、グライドに尋ねる。


「私をどうする気だ。こんなことしてただで済むと思っているのか」


 ギルダー・グライドはつまらなそうに片目を瞑り、カンニングペーパーを閉じてグザヴィエのほうを窺った。


「そういうターンは終わったんだよ。状況は次に移行している」


「一体、なにを……」


「察しが悪いな。愚鈍なやつだ」


 ギルダー・グライドは立ち上がってグザヴィエの腰の上に座った。グザヴィエはグライドの言葉に腹を立てたが、鎧の重みでそれどころではなくなった。


 ギルダー・グライドはグザヴィエの手を取ると、背中のほうに向かって曲げた。本来人間の腕が曲がらない方向に、まだ痛みがあるほどではない程度に。そしてグザヴィエの耳元へ囁いた。


「お前にはやってもらいたいことがあるんだよ……。そしてそれをお前は断れない」


 グザヴィエが困惑して眉を曲げる。そして次の瞬間、肘の骨が折れた衝撃で甲高い悲鳴を上げようとして、ギルダー・グライドに手で口を塞がれた。


 ギルダー・グライドがグザヴィエの上から離れる。カンニングペーパーを執務机のうえに開くと、紙とペンを横に用意する。


 折られた腕を抑え、うずくまって動けないでいるグザヴィエを立ち上がらせると、今度は執務机の前に座らせた。


「片手でも書けるだろう? 書いて欲しいんだ。助かったよ。あのまま逃げられていたらどうしようかと思っていたんだ。お前が大馬鹿野郎で助かった。あの騎士と、それからお前の娘。いいところまで行ったんだけどな。片方は焼け死に、片方はこれから射殺される」


 執務室の外から大きな音がした。屋敷が火に巻かれ、崩壊し始めた音だろう。


「悪いがもうあまり時間がないらしい。それを早く書いてもらえるか。なに、書きづらい? 別に曲がっててもいい。その方がリアリティがある」


 執務室の前を歩く音がした。


「入っていいぞ! そろそろ終わる」


 ギルダー・グライドが扉の外へ声をかける。アデラインが仕事を終え、こちらへ戻ってきたのだと思ったのだ。


 扉を開いて姿を現したのは、予想外の人物だった。白銀の鎧を煤で汚し、クロスボウで突かれた足を引きずったその人物を見て、ギルダー・グライドは舌打ちをした。

 

 

 時間は三たび巻き戻される。


 グザヴィエ・デ・クリスティアン・ルイス・マルカイツがギルダー・グライドに腕の骨をへし折られるよりも前。アデライン・スコッツウォードが壁にはりつけにされた後、マルカイツ邸のホールに叩きつけられるより前の話だ。


 マルカイツ邸一階のリネン室で一人の人物が気絶から帰ってきていた。その人物はマリア・ペローという名前で――そう、マルカイツ邸の廊下に撒かれた油に自分で火をつけて焼死したと思われた彼女だ。


 実のところ彼女は、まだ生きていた。ギルダー・グライドの騎士たちとマリアと鎧の強度はさほど変わらなかったし、炎に対する人間の強度も、それが炎上の渦中のなかで違う結果を引き出すほどには、変わりない。にも拘わらず彼女一人が生き残ったのは、マルカイツ邸のことを知っていたからだ。火をつけた場所のすぐ近くに、リネン室があることを。そしてリネン室の壁は、他のところよりも脆くて薄い。元々壁のないところにリネン室を作ったからだ。前の場所は少し不便だからと、必要のない通路を封じて作った。急だったから壁も急ごしらえで、そのことにエリザベートは文句をつけていた。


 加えて火の勢いと、マリアの後先考えないタックルが壁をぶち破った。着ているものに燃えるようなものはなかったが、あれだけの炎を浴びたせいで鎧が熱を持っていた。それよりも問題だったのは、油が爆発を起こしたことで酸欠を起こしたことだった。マリアは酸欠で気絶する前にリネン室の水をなみなみと貯めたタンクをぶち壊して水浸しにすると、リネン室の床に横たわり、目を閉じた。

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