第182話 ブラックスター 中-2

 実際に起こったことは、もちろん神秘的でもなければ、示唆的でもない。調理場に置いてあった油の樽が盛大に爆発した。そして火事に見舞われ、つい何分か前にも外壁の一部を吹き飛ばされた屋敷が、とうとう耐えられなくなっただけの話である。


 長時間、炎に晒された一階部分の支柱が弾け飛んだ。二人の間に天井板が落ちてきたとき、天井の柱も折れていて、瓦礫が次々と落ちてきていた。そして油の爆発によってそれは加速度的にエスカレートしていった。炎によって脆弱になり、想定外の負荷をかけられたために二階の一部が傾く。


 今や執務室の一部とその外側の廊下の天井が落ち、一階上部の壁が崩れ、執務室は急な斜面となっていた。


 世界の崩壊を錯覚させるような凄まじい軋み音がする。耳がおかしい。


 二人が耐えきれた時間はほとんどなかった。グザヴィエは場所が悪く、爆発、そして壁がなくなって外の景色が露わになったときにはもう、執務室の範囲を外れていた。体勢を変えて落下を先送りにしようとして、落ちてきた執務机ごと外に投げ出された。


 マリアは雷槍を地面に突き立てて耐えていたが、こちらも正面から滑り落ちてきた本棚に轢かれ、咄嗟に腕をクロスして防ぐも衝撃は躱しきれず、一気に屋敷の外へ転落した。


 ばたばたと耳元で空気が鳴る。景色が回転し、真っ暗になる。そしてマリアは強い衝撃と共に、地面に叩きつけられた。


 神秘的でもなければ、示唆的でもない。けれどマリアにとってそれはそういったご都合主義的なものというより、皮肉で、暗喩的なものを感じていた。


 マリアは屋敷のすぐ下の庭園に落ちていた。柔らかい地面とはいえ、鎧がなければ死んでいただろう。


 さっきまで自分たちがいた場所からごうごうと燃え盛る炎が、なにかまた燃えるものを見つけたのか一層輝きを増し、その光が半壊した壁と幾何学模様に刈られたトピアリーの間に、ギルダー・グライドのシルエットを映し出す。


 ギルダー・グライドは屋内にいたときよりも元気に見えた。恐らく煙から解放されたからだろう。美しい空気を愛でるように吸い込んでいる。マシというだけで、この辺りにも煙はあるのだが。


 ギルダー・グライドが剣を片手に近づいて来る。


 マリアは起き上がろうとして、土を掴んだ。しかし、すぐには無理そうだった。代わりに近くに転がっていた瓦礫を掴む。


 マリアは瓦礫を投てきした。グライドはそれを剣で割り、さらに接近すると、マリアがなんとか繰り出した蹴りを掴み、引きずって反対にマリアの顎を蹴り抜いた。


 武器も盾も失い、血を流して倒れるマリアを見下ろし、グライドは皮肉っぽく笑みを浮かべる。おそらくまた皮肉なことに、この笑みはここ数時間でギルダー・グライドが見せた最高の善意だ。


「やはり甘かったな」


 マリアが咳き込んで血と土の混じったものを出すと、ギルダー・グライドは剣を持ち上げた。マリアはまだやる気だった。だがなにをすればいいのかわからない。覚悟を決め、仰向けになってグライドを見上げた。どこからかガチン、となにか器具のようなものが駆動する音が聞こえた。ギルダー・グライドがふと、その音のほうへ首をやった。


 次に起こったことは、誰にも予想がつかなかった。恐らくやった本人でさえもだ。鉄柵の向こう側にいたコンスタンスが急いでバリスタに矢を装填し、薄暗闇に浮かぶ影目掛けて撃ったのである。


 ギルダー・グライドの首は、幅3.5cmの分厚い矢を喰らい、爆裂して四方へ飛び散った。頭を失った胴体は、同じように矢に引っ張られ、半回転して壁にぶち当たったあと、地面に落ちた。


 マリアが雷に打たれたかのように跳ね起きると、鉄柵を挟んで向こう側に、バリスタが見えた。城から強奪してきた荷車だ。マリアは足を引きずってゲートから外へ出ると、硬直して動けなくなっているコンスタンスを発見した。


 コンスタンスは自分のやったことに酷くショックを受けていた。自分が人を殺したという事実を受け入れたくなくて、両掌を上にして、マリアに促されて降りるまで、荷車の上で直立不動になっていた。


 マリアは少し悲しい気持ちになったが、その気持ちを心の中に押しとどめた。代わりにマリアはコンスタンスの肩を掴み、顔を覗き込んだ。


 こういうとき、なんて言葉をかければいいか。マリアにはわからない。自分が初めて人を殺したときはそんなことを気にしていられる状況ではなくて、そのことについて深く考えられるときにはもう、マリアは以前よりずっと強くなっていたから。


「コンスタンス……」


 なにも言わないわけにはいかない。マリアがコンスタンスの名前を口にし、コンスタンスがマリアのことを見る。次の言葉が出ない。


 すると、コンスタンスとマリアの横から、腕が伸びてきて、コンスタンスの人中に触れた。コンスタンスがその場にばたりと倒れる。


「うわっ!」


 マリアは驚いてその腕を捻りあげそうになったが、その人物に見覚えがあることに気付いて、ぱっと手を引っ込めた。


「ひどい様子ですねえ」


 パースペクティブはマリアに掴まれた手を擦り、彼女の全身を眺めてそう言った。


 パースペクティブ。マルカイツ家専属の占星術師だ。マリアはこの女のことを完全に忘れていた。だが出て来たなら、聞かないわけにはいかない。


「お前、どこにいたんだ」


「ずっと離れにいましたよ。向こうも私に興味がなかったみたいで」


 パースペクティブははじめは自分だけでもどこかへ逃げようと考えていたが、持ち出す資料を選んでいるうちにタイミングを逃し、今の今まで離れの二階から水晶玉で様子を窺っていたのだと言った。


 まったく矛盾はない。水晶玉で見ていたのであればこちらを助けてくれてもいいのではとも思えるが、ひとまず矛盾はないらしい。マリアはそう考えた。


 マリアはパースペクティブに尋ねた。


「それで今さらのこのこ出てきたのはどういうわけだ?」


「治療が必要と思いまして」


「はあ?」


「物事をなかったことにすることはできませんが、なかったかのようにすることはできるのです」


「わけのわからないことを……」


「記憶を消したんですよ」


 パースペクティブがこともなげに、しかしとんでもないことを言う。記憶を消す魔術なんてものは、この世界にはもうない技術なのだ。それも古代遺跡から持ち出した魔術書のお陰なのだろうか。


 マリアは眉根を顰め、パースペクティブの眼をじっと見た。どうやら嘘をついているというわけではないらしい。話をよく聞く時間があればそうしたかったが、マリアの身体もかなり限界を迎えていて、そこまで気にしている余裕がない。


 鉄柵にもたれて崩れ落ちたマリアを見て、パースペクティブが眼を白黒とさせた。


「あらら。今治療しますね」


 そう言ってしゃがみこみ、マリアの足鎧を脱がせる。血がぼたぼたと零れた。今足鎧をひっくり返せばボトル一杯分の血が汲み取れそうだった。


 パースペクティブは手際よく傷口の上に止血バンドを巻きつけると、力いっぱい締め上げた。マリアの口から呻き声が漏れる。痛みはあったが、一先ずこれで、命の危険はなくなったわけだ。


「立たせてくれ。行かないと」


 マリアが言う。命の危機が無くなったのなら、エリザベートを探しに行かないといけない。


「あらあら。元気だこと。構いませんけど、先ずは周りを見た方がいいと思いますよ」


 パースペクティブが言う。その発言の真意を問う前に、マリアは首を回して、屋敷の全体を見る。そして屋根の上に立つ、エリザベートを見つけた。


「さっきの話、あとで改めて訊くからな。言い訳しなきゃいけないことがあるなら、今のうちに考えておけよ。それじゃ、お先に」


「よろしければあなたのも消して差し上げましょうか」


 足鎧をはめたマリアがバリスタによじ登る。


 そして、パースペクティブの方を向くと、にこりともせず、答えた。


「やめとくよ」

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