第165話 ワイルド・サイドを歩け 中

 手紙はどこかへ消えてしまった。エリザベートは、目元を拭い、ドレスに手を擦りつけた。


「満足した?」


 アイリーンがそう訊いた。


 どうだろう、と考える。彼女のその問いは言葉通りではなくて、いろんな意味を孕んでいる。例えばエリザベートが立ち直ったのかだとか、もう次に進めるのかだとか、そういう。その中で、もう悩むことはないかと訊かれているのならば、それはきっと違うだろうとエリザベートは思った。

 これからだっていくらでも悩むことはあるだろうし嫌なことにイライラすることはあるだろうし動揺して自信を喪失することだってあるはずだ。そんなものなければいいとは思うが、そこまでの完璧超人ではないし、そもそも完璧超人なんてどこにもいない。それなら何を悩むのか。今、前進する気になっているのなら、それでいいはずだ。


 エリザベートはそう考えた。そう考えて、言った。


「二人のところに戻ろう」


                    ▽


 中庭ではエリザベートの騎士とメードが、並んで芝生の上に座っていた。騎士であるマリア・ペローは、手にクレマチスの花を持ち、一枚ずつ花弁を千切っていた。


「行かない……行く。行かない……行く。行かない……」


 最後の一枚は、”行く”をさしていた。花弁がたった一枚になって貧相な姿を晒したクレマチスを、マリアはため息をついて地面に投げ捨てた。


「行くことにするの?」


 隣に座っていたコンスタンスが言った。彼女は芝生を千切って手の中でこねくり回していた。


 マリアはクレマチスを見下ろし、それからコンスタンスのほうも見た。そしてもう一度、大きなため息をついた。


「実はなコンスタンス。この種のクレマチスは花弁が8枚と決まっているんだ。知っていたから”行かない”から始めたんだ。なあ、目を瞑ってるからどこかからか花を持って来てくれないか? それで決めよう。その方がフェアだ」


「わかった」


 コンスタンスが本当に立ってしまう。その眼はすでに千切るべき植物を狙っているかのようだ。

 マリアは飛び出そうとするコンスタンスの服の裾を引っ張り、隣に座らせた。


「いや、やっぱりいい。馬鹿みたいだ……」


 マリアは自嘲して呟いた。


 行く、行かない。そんなことに悩んで花占いまでやってしまうとは。女々しいという言葉は好きじゃないが、あまりに湿っぽくて無生産な感情の動きにマリアはげんなりしていた。


 状況を整理してみれば、エリザベートのところにはアイリーンが行ってくれたし、自分にはあれ以上、なにも言えることはなかった。後悔して欲しくないのは本心だが、命を落とす危険があっても勧められるほど大胆ではない。本当のところは自分にそれだけの力があるのなら、自分一人で解決しただろう。でもそれは無理だ。自分は最強ではないし、しかしだからといって、悩んでいる主人を放って安心できるほど図太くもない。ただ、どういう場面でも自分が出向くことが適切なわけではない。自分では絶対に駄目な場面があるということも、マリアは身を持って知っている……。


 このままじゃ負のスパイラルに落ち込んで出てこれなくなるだけだ。無限後退を繰り返し、最後には豆粒みたいな大きさになって消えてしまうだろう。そんなのは御免だ。


 マリアは深く息を吸ってストレスを追い出し、こめかみをもんで精神の安定を図った。コンスタンスを見下ろし、彼女の髪を撫でようとしたが、コンスタンスはぶんぶんと頭を振り回し、マリアの手を追い払った。マリアはクレマチスを拾って、口に咥えた。


 そして、決心がついたのか、気合いを入れようと大声を出して立ち上がった。


「ああクソ! やっぱり見に行こう。こんなの不健康すぎる」


「なにしてるのよ」


 背後から声をかけられ、マリアが珍しく素で驚いた声を出した。振り返ると、憮然とした表情のエリザベートが立っていた。その後ろにはアイリーンもいた。


 エリザベートはマリアの足元に転がっていたクレマチスを指さした。


「なにそれ」


「なんでもないです」


「馬鹿やってないで。大事な話をするから」


 エリザベートは彼女を自分の前に立たせた。そして、マリアをじっと見た。彼女はぼろぼろで、明らかに疲れているように見えた。一回死んだ分、まだ体力が癒えていないのではないか、ありえない話だが、そんな風に感じる。コンスタンスはマリアの隣に立って、彼女と同じようにこちらを見ている。


 でも行くと決めたのだ。自分の目的にはマリアが必要だったし、マリアもきっと、置き去りにされることを望んでいない。うぬぼれに近い――と以前のエリザベートなら思ったかもしれないが、あの手紙にあったように、マリアが自分にちゃんとついて来てくれるということを、もっと信頼してもいいはずだ。


「行くから。私。家族を助けに行くの。ついてきてくれる?」


 返ってくる答えを、エリザベートは確信している。けれど実際に質問したときは、心臓が悪い鼓動を刻み、不安にもなった。


 マリアが笑顔で、彼女の望む答えを出した。


「あなたがそう言ってくれるのを待っていましたよ」


「一応、一応、きいておくけど、行ったら死ぬかもしれないけど、それでもいい? 大丈夫?」


 心配というよりも、嬉しくなって訊いてしまう。マリアもうなずいて、笑いながら繰り返した。


「問題ありません。だいたいそういうのはあなたより慣れていますから。どしどし死なせてください」


「それは駄目」エリザベートが頭を抱え、注意した。冗談でなく死んでいる姿を知っている身としては、言葉がちょっと悪趣味過ぎた。「できるだけ死なないで」


「ええ。最善を尽くします。きっと生き残りましょう」

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