第164話 ワイルド・サイドを歩け 前

「これ、あなた宛てだよ。私にじゃない」


「私あて?」


 脳が混乱して、アイリーンの言っていることが一瞬分からなかった。


 いつまでも受け取らないエリザベートにアイリーンは腹を立てて、手紙を引き抜き、彼女の手に押し付けた。


「私あて?」


 エリザベートは手元の無理やり持たされた手紙と、アイリーンのちょっと憮然とした顔を見比べた。


「そんなはずない。これはあんたあての手紙だったはず。メアリーは最後にあんたへメッセージを残したくて……」


 メアリーの顔がフラッシュバックする。疲労していながらも、笑顔でエリザベートを見送った。エリザベートはその時の言葉を思い返した。確かに、メアリーは手紙を誰宛てとは言っていない! でも元々アイリーンのために時間を戻すまでしたメアリーの手紙が、まさか彼女にあてたものではないだなんて、思わないじゃないか!


「その人のこと、私はあまり知らない。多分、知っていたんだと思うけど、どうしてだか心にぽっかりと空白ができているみたいに、その人のことを思い出せないの。だから実感はわかないけど、きっと素敵な子だったんだろうね」


 エリザベートは手紙を開いた。遡行してから何度も見た、汚い書き文字の列が並んでいた。その内容はまず、アイリーンへの謝罪から始まっていた。


”エリザベートがもしかすると、いや間違いなく、あなたへ手紙を渡してしまうかもしれない。そうなったら面白いと思って、わざと誤解させた。あとはまあ、適切なタイミングで手紙が渡るようにするため。あなたをメッセンジャーにするだなんて、とんだ役不足だと思う。でも多分この役目を負えるのはあなただけだろうから。お願いします。ごめんなさい”


 メアリーはアイリーンにそれしか言わなかった。それから先はエリザベートに対するものだった。やれどうせまた挫けているんだろうとか、つまんないジレンマに悩まされているんだろうだとか、そういうことをつらつらと。


「だいたい君は態度がデカいくせに自信がなさすぎるんだ。君のその怯えた子犬みたいな目で睨まれても、憐れみぐらいしか浮かんでこないんだよ」


「どうせ騎士や私にまかせてきて、自分が流されているだけだとでも思ってるんだろう。流れ着いた先にいるんだと」


「だけどさ、無事に流れ着くのも才能だと思うんだ私は。悪運が強いっていうのもそうだけど、例えばマリア・ソ・フォン・アレクサンドル・ペローは君じゃなかったらついて来なかったわけで、あのコンスタンスとかいうメードだって、わりと慕っているみたいじゃないか。それにクレア・ハースト。彼女の君に対する思慕はなみなみならぬものがあると思うよ。拗らせて逆に離れていったぐらいには」


「ようするに君だって君が思っているほどには価値のない人間じゃないってこと。君が望むほどじゃないのかもしれないけれど」


 そしてその先には、今の状況を言い表す言葉が書いてある。メアリーは戻ってきた先でなにが起こっているのか事前に知っていたのだ。ただきっと、あの場で知らせて恐慌に陥ったエリザベートの相手をする時間がなかったのだ。


 クーデターが失敗することも、フェリックス王が裏で糸を引いていることも、騎士団が家を襲うことも、すべて書いてある。


「難しい状況だと思うけど、勝機がないわけじゃない」


「確かに君は凡人かもね。専門知識に抜きんでてないし、魔法の才能なんかもない。芸術の才能もない。でも才能なんていくらでもあるものだ。凡人だから無理とか、凡人だから諦めるとか考えなくてもいい。心に従うんだ。恐怖心に縛られるな」


 一陣の風が吹き、エリザベートの髪を揺らした。彼女は手紙を握り、舐るように手紙の文字を追っていった。笑い声と、泣き声の合わさったような声を出すと、上を向いて鼻から深く息を吸った。


 メアリー・レストは最後に、エリザベートにむけてぼやいていた。どうして君宛ての手紙を書いているんだろうね、と。アイリーンのために最高の別れの挨拶を何十万文字も考えたのに、と書いていた。結びは控えめな激励の文句で、たった六文字。まあ、がんばれ。とそれだけ。


「わかったよ。もう……」


 エリザベートは手紙を読み終えると、そうつぶやいた。するとまたどこからか強い風が吹き、メアリーが照れくささから手紙を奪ったかのように、紙束は巻き上げられ、城の外へ飛んで行ってしまった。


 エリザベートとアイリーンは髪を抑えながら、それをしばらく見送っていた。




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