第163話 ソリッドするアスペクト 後
「なによ」
エリザベートはアイリーンに鋭い眼光を浴びせた。手のひらを植え込みから話すと、彼女の手から数枚の葉がはらはらと地面に向かって落ちていった。
アイリーンは、黙って落下する葉を見送りながら、エリザベートの正面に少し距離をとって立っていたが、憐憫や同情からそこに立っているわけではない。恐らくそれが、エリザベートがアイリーンを怒鳴って追い返さなかった理由だろう。
彼女は話すことに困っているわけでも、話す必要がないと考えているわけでもない。ただ適切な話し方を探しているのか、一定の距離を保ったまま、眉を曲げて、背中からなにかを出した。
明暗の悪戯で、それがなんなのかエリザベートにはわからなかった。彼女が近づいてきたので、彼女の表情を正面で捉えた。アイリーンはキスでもするのかと思うほど滑らかにエリザベートの前に立つと、彼女の手を取り、手のひらにくっついていた葉を取り払った。
「手を傷つけちゃいけないわ」
そして溜息をついた。
「マルカイツさん。いえ、エリザベート」アイリーンが言う。エリザベートは手を振り払い、距離をとった。焦燥と困惑が顔に現れている。
「一体何なの。いつ名前で呼んでいいなんて?」
「今そんなことどうだっていいでしょ」
「どうせ――」エリザベートが泣き笑いして言う。「どうせ――笑いに来たんでしょ。馬鹿にしてるんでしょ。溜飲を下げてるんじゃないの。よかったわね。あんたの悩みの種が一つ減るわよ」
「溜飲なんて下げられるわけがない。あんな不快な話を聞いた後に。話を聞いて。自分で全部決めてしまわないで」
「話を聞く?」エリザベートが心底馬鹿にしたように笑った。「いったいなんの、話を聞くわけ。辺境の観光名所でも教えてくれるの。それとも家族を失う痛みについて講義でもするつもり? ふざけんな! どっちもごめんなんだよ!」
エリザベートの大声にアイリーンは目を大きくして驚きながらも、上体をすこし逸らしただけで、怯んだりはしなかった。
「じゃあ助けには、行かないつもり?」
アイリーンは落ち着いた声で言った。
それがますますエリザベートを苛立たせる。
「行かないよ。行くわけない。行ってどうなる? 殺されるだけだ……それならいっそ、自殺でもしたほうがマシ……」
エリザベートは俯き、最後には消え入りそうな声でそう言った。エリザベートは憔悴していた。彼女がさっきマリアに語ったように辺境で安穏に暮らすことすら、前向きにはとらえられない。
それどころか自分はもう、悲劇の真っただ中にいて、あとはエピローグで余生を語られるだけだとすら考えている。マリアも、コンスタンスも、遠ざけた。あとはアイリーンがどこかに行って、終わり。幕が閉まった後は、劇作家が出てきて今後の展望でも語るのかもしれない。
「なんだ、自暴自棄になっているだけか」
消沈しきった頭に投げかけられたのは、そんな言葉だった。
「どういう意味よ!」怒りが沸いてきて、エリザベートは腕組をしてこちらを見下ろすアイリーンの襟を掴んで詰め寄った。それでも彼女は平静だった。
「だって、そうでしょう。機会は提示された。逃げても手に入るものがあるのに、あなたは絶望してばかり。あのね、言っておくけれど、絶望したって人生は続くのよ。自暴自棄になって投げ出して、考えることをやめたって人生は続くんだよ。それが嫌なら……」
「それが嫌なら自殺するしかないって? 上等だよ! そうしてやる。死んでやる!」
「よして。そんな勇気ないでしょ。どうやって死ぬの。それに死んだあとは? 死んだあなたをきっとマリアが見つける。隣にはコンスタンスもいて、話を聞いたクレアもやってくる。クレアはどうなるの? 首を掻っ切ったあなたを見て、どうなる?」
エリザベートは言葉を詰まらせた。歯をぎりぎりと言わせ、アイリーンをねめつける。彼女はいつもエリザベートのことを彼女以上にわかっているかのようだ。それが気に食わない。そこがずっと気に食わなかった。遡行する前から、自分の悩みからなにからすべて彼女にとってはよくあることのように見えたのだ。そうすると、自分が矮小に思えて、ますます気に食わなかった。
今この場で舌を噛んで死んでしまおうか。その価値はきっとある。この女の顔が歪むところを見られるのなら。
でも実際にはそうしない。エリザベートの口のなかにあるのは、胃液に似たすっぱい匂いだけだ。
アイリーンは続ける。
「自殺するなんて意味ない。いい? 絶望しても人生は続く。それが嫌なら――その後は、その後はね。こう続くの。脳細胞が焼き切れるまで悩んで死ぬか、戦って乗り越えるか。その二つしかない。あなたのような人にとっては、そう」
最後の言葉を言ったとき、アイリーンはどうしようもない憂いを見せた。それを見て、エリザベートは戸惑う。
戸惑った自分に腹が立つ。それと同時に、彼女はアイリーンの表情が、自分に真実を見せようとしていると感じている。
アイリーンへの恨みがずっとあった。彼女はいつもエリザベートの脅威で、自分はなんなく、いなされてしまう。けれどそのとき気が付いたのだ。エリザベートがアイリーンの悩みの種であるのは、彼女が敵意を持っているからだけではない。どうすれば仲良くできるかが、わからないからなのだ。
「あなたが自殺すると叫ぶのは、安穏な生活を選んでも、心はそうならないと知っているから。結局あなたは優しいんだよ。そうじゃなかったらあなたはずっと、フェリックス王の部屋でシャルルの後ろに隠れていたはず。それならあなたは戦うしかない。それ以外に、あなたは生きていられない。……それでも納得できないなら、はい、これ」
「これ?」
アイリーンがエリザベートの前に左手を差し出す。なにかわからなかったものは、見覚えのある紙束だった。自分がアイリーンへ手渡した。メアリー・レストの手紙だ。端っこがひしゃげていて、一度中身を広げたせいか、渡したときよりも膨らんでいる。
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