第162話 ソリッドするアスペクト 中

 数分たってその後、エリザベートは彼女の希望通り中庭に辿り着き、ナンテンの木の前に蹲っていた。彼女と少し離れたところに、人混みに背を向けた三人の人間がいて、それぞれが難しい顔をして話し合っていた。(といって、実際に話していたのは二人だったが)。


 少し前、マリアに抱えられてきたエリザベートは、断片的ながらも先ほど作戦指令室で知った事実を洗いざらい話していた。マリアとアイリーンはそれらを繋ぎ合わせ、自分の国で起こっていることとエリザベートが迫られた選択について知ったのだ。


 一国の王がクーデターにかこつけて政敵を消そうと考えている。そして奇妙なことに同時に――その政敵を救うチャンスを与えようとしている。ギルダー・グライドの騎士団は少数精鋭で、人数が多いわけではない。とはいえ確かに、実質マリアだけでは難しいのも事実だ。


 だけれど恐らく、問題はそこにはなかった。問題は、エリザベートにとってはどうすることが最善か、あるいはよりベターなのか、ということなのである。


 だからこそマリアはエリザベートにどう声をかけるべきか決めかねていた。重要な選択をするとき彼女は大抵、より大きなものに流されてきていた。エリザベートの心が決まっていて、あとはそれを推しはかるのであれば、そんなに難しくはないのだが。


「どうしたいですか?」


 かといってなにも話しかけないまま、無意味に時間を過ごすことは、もっとナンセンスだ。

 なにしろ今開いている二つの扉はずっと二つでいてくれるわけじゃない。ものの数時間でギルダー・グライドはマルカイツ邸に到達し、彼らを制圧する。そうなればもう手遅れだ。


「どうしたいですか?」


 そう聞くことは間違ってはいないけれど、少々卑怯だ。マリアは頭のなかでそう考えた。彼女の判断にゆだねるだけで、いったいどうやって彼女を支えればいいのだろう。


「どうしたいですか?」マリアはそう訊く代わりに、彼女の正面に座り、彼女の顔を覗き込んだ。エリザベートはもう泣いてもいなかったが、乾いた涙のあとを拭うこともせず、自分の膝に顔を埋めている。


 なにか言おうとした。けれど、うまくいかなかった。結局自分は随伴する人間なのかもしれない。


 マリアが立ち上がってまた、彼女から離れようとすると、エリザベートが顔をあげ、マリアを視線で捉えていた。それでマリアは座りなおした。


 マリアは息を吸い、出てきそうになる言葉を飲み込んだり、必死になって一文字目を考えたりしたあと、ため息をついた。そして出たのは、どうしても、卑怯な言葉なのだった。


「……あなたは、どうしますか」


 言い方を変えたのはせめてもの抵抗だったのかもしれない。こんなに自分に失望したのは久しぶりだとマリアは思った。

 エリザベートはとくに失望などの感情はわかず、低い声で聞き返す。


「……マリアは、どう思う? あなただったらどうする?」


「私ですか……。私はご存じの通り」マリアは息を吐いて次の言葉を考えた。「いちばん強い騎士を自称してはいませんから。逃げることを否定はしません。むしろ逃げどきを間違えれば、きっと悪いことになる」


 マリアはここで、まず自分がどう考えているか整理する必要があることにも気づいた。そして恐らく、自分にできることはエリザベートを強く悩ませることぐらいだということも。


 マジックワードはないし、強い人望も持ったことはない。そういう経験が不足していた。


「逃げるべきだと思う?」


 マリアはエリザベートの手を引っ張って立たせた。エリザベートは驚くほど素直に従った。マリアはエリザベートの手を握りしめ、言った。


「逃げどきというのは、逃げないどきでもありますから。けっきょく心にしたがうしかありません。逃げたいという気持ちも、戦いたいという気持ちも、絶対に間違いなんかじゃない。私は逃げることを否定しません」


 エリザベートの顔に影がかかる。そんなことを聞きたかったわけではないのだろう。マリアの手を離しかけるが、マリアは彼女の手が落ちないよう、強く握っていたため、二人はまだ繋がったままだった。


「私は……聞いてください。お嬢さま。今言ったのは、嘘じゃない。本当です。でも、はっきりいって私はいろんな意味で”諦め慣れて”いるんです。女ですから、騎士の誉を正当に受け取れたことはありません。それに女が好きですから、人から避けられることもよくある。マイカのことだってそうです。私だって出来ることなら彼女をずっと愛していたかった。でも出来なかったから、私は妥協したんです。飄々としているように見えることもあるかもしれませんが、そうなりたかったんじゃなく、そうじゃないと傷つくからだ。

 私は……後悔はしていません。ええ。自分のやったことに、誇りを持っているとまでは絶対に言いません。言えませんが、後悔はしていない。でも後悔しなくたって、わだかまりは残るんです。忘れることはできませんよ。目を背けたものは一生ついてきます。あなたの一部として、残り続ける。

 私はあなたにそうして欲しくはない。あなたはそうするには、まだ若すぎる。諦め慣れてなんか欲しくないんです」


 マリアがそう言って、手を離す。自分に出来ることはそれだけだと言わんばかりに。エリザベートは目に涙をためて、俯いた。


「どうすればいいか、わからない……」


「お嬢さま、それは……」


「怖いの! 死ぬのが怖い! 失敗するのも怖い! わかったようなこと言わないでよ!」


 エリザベートはマリアの前から逃げ出した。

 マリアは手を伸ばそうとしたが、彼女を引き留めるまではできなかった。どうすればいいのかなど、マリアにもわからなかったのだ。


 エリザベートはプレッシャーに潰されかけていた。


 マリアがそう言うことはわかっていた。彼女は優しいから、自分のやりたいことを受け入れてくれる。でも実際に動くのはマリアなのだ。彼女を死なせるのは自分で、死なせないのも自分の手のなかにある。


 エリザベートはあの金属ゲートの傍まで来ると、植え込みを握りしめた。枝葉が掌に突き刺さるのもかまわず、それを乱暴に振り回し、植え込みを支えるレンガを蹴った。


 フェリックス王の言っていたことを思い返していた。彼は”予想外だった”と言った。それはマリアのことを言っていた。マリアがあんなに強いとは思わなかったと。アドニス・ケインズのこともそうだった。あの情報を引き出したのは、自分じゃない。オクタコロンは実際にはひどく傷ついた子供のようなもので、なにもしなくたって自壊寸前だった。魔法を使って散々苦労していたのはメアリーだ。


――私はここまで、なにをやってきたんだろう? なにもやってきていない。それに今さら、なにができるっていうの? 強くもない。頭がいいわけでもない。どうやってギルダー・グライドに勝てばいいというのだ?


 植え込みの陰から、別の人間が彼女に近づいた。それはエリザベートの最も会いたくない人物だった。




 

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