第161話 ソリッドするアスペクト 前
エリザベート・マルカイツは音のない真っ暗な道を進んでいた。歩行の無意識さは、それが”歩行”であるというより落下であるとも言えた。エリザベートの脳裏にはなにも浮かんでおらず、頭のずっと斜め上のほうに、銀色の文字がぐるぐると回り続けていた。
フェリックス王に言われたこと。自分の置かれている状況。その中には、遠くで起こっていたはずの二人の口論もある。
フェリックス王に自分の生かすつもりはない。それは命をとるというだけではない。マルカイツ家の終わりはエリザベートの終わりを意味する。今、助けに行かなければ確実にそうなる。
フェリックス王はどういうつもりであんなことを言ったのか? きっと私のことなど本当はどうでもいいのだ。助けに行かないなら彼の言った通り、どこか遠くの屋敷に詰め込まれて一生を過ごすことになるだろう。それでもいいし、私が助けに行くのでもいい。そっちのほうが少し楽だと思っているかもしれない。フェリックス王としては、マルカイツ家の人間が全員あそこで死んでしまった方が後腐れがないのだ。いずれにしろ選択肢は二つしかない。
逃げるか、立ち向かうか。でもこの二つの選択肢は、困難さと、あとの処遇とで、全然つり合いが取れていない。そのことにエリザベートは気付いていた。どう考えたって立ち向かうより逃げたほうが楽なのだ。フェリックス王はわざわざ”平穏に暮らさせてやろう”と言っていたのだから。
その言葉に嘘はあるだろうか? 考えてみたが、それはないように思える。フェリックス王は大ウソつきの大ペテン師だが、一国の王としての矜持は捨てていない気がする。なにより彼は、嘘で躍らせるよりも真実で苦しませるほうが好きなのではないか。
エリザベートはここで、自分の中に闘争する選択肢があることに気が付いた。エリザベートの反骨心はしっかりとフェリックス王に対する嫌悪感を示している。このまま言いなりに流されることが許せない! フェリックス王をぶん殴れないならあの男の予想を上回って本当に助け出せばいい! と。だがそんな感情は絶対的な現実の前では萌芽に終わってしまうものだ。ギルダー・グライド率いる騎士団から家族を救い出す? こっちにはマリアしかいないし、マリアにそんな自殺行為をさせられない。
よって残るのは、絶望ばかりだった。エリザベートは耳を塞ぎ、目を閉じ、嵐が過ぎ去るのを待ちたかった。暗闇の中を歩くのではなく、平穏な生活を考えるのもいい。フェリックス王の言ったように平穏を手に入れられるなら……。
でも結局のところ、ここまで悩んでいるのは、エリザベート自身助けたいと思っているからだ。無理だとわかっていても死にに行くことに、意義を感じているからなのだ。ただ絶対に無理だと考えているだけで。
エリザベートは暗闇など歩いていない。彼女が歩いているのは、聖ロマーニアスの、あの男の居城だった。あの男の胃袋の中を歩いているに過ぎないのだ。それなのにどうして陰謀から逃れることなどできようか。
視界の広がったエリザベートの後ろから、マリアが話しかける。実のところ彼女は、エリザベートが作戦指令室を出た瞬間から、彼女に話しかけている。
「どうしました? お嬢さま? お嬢さま!」
マリアがエリザベートの肩をつかみ、自分のほうを向かせた。エリザベートは忘我から還り、騎士の目を見つめ、泣き出した。
「どうしよう。マリア……。もうダメだよ……」
「ダメって、なにがですか。フェリックス王となにを話したんです」
「もういい。中庭。中庭に行こう? コンスタンスと三人で……そう! コンスタンスとあなたがいれば大丈夫。どこに行っても問題ない。そうでしょう?」
狼狽し、マリアに縋りついた。
「お嬢さま!」
「私のやったことはほとんどみんな無駄だったんだ……」
「待ってください。事情を……」
「嫌!」
エリザベートは錯乱しかけていた。マリアの腕を乱暴に振り払い、駆け出した。舞踏会の時と同じ。どこに逃げればいいのかわからない感覚。どこも同じ。自分を傷つける。自分自身さえも自分を責め、苛むのだから、当然逃げる場所などない。最後はあの時と同じように階段を踏み外して死ぬのだ。
エリザベートは走った。回廊の出口を目指して。そしてカーペットの歪みに躓き、転びそうになった。転びそうになった、というのは、結果的にそうはならなかったからだ。エリザベートが足を踏み外してカーペットとキスをする前に、マリアの手がエリザベートの胴を抱き、彼女を支えていた。
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