第158話 フリュイドするサスペクト 前
扉を開ける。意気込んで入って行ったシャルル王子も、後に着いていったエリザベートも、中の様相を見て、絶句してしまう。
作戦指令室はいわゆる謁見の間と構造が似通っている。手前には柱だけ。奥に何人掛けかの長いテーブルがあり、テーブルの向こう側にこの国の要人たちが座って会議をするのだ。壁の上方にはステンドグラスがあり、聖ロマーニアスの国父、国母の姿が入れられていた。
フェリックス王は、テーブルのちょうど中心に位置する、他の椅子と比べ背もたれを極端に長く作った、誰が見ても王の座るものだとわかる椅子の隣に立っていた。より詳しく言えば、彼は血だらけの剣を持ち、ついさっき刺し殺したと思われる屍の前に佇んでいたのである。
「いったい……」シャルル王子が言葉を漏らす。父親に対して発せられたようで、実際は空気が口から洩れたのと変わらない。そんな音だった。
斃れた男の姿は扉の前ではよく見えなかったが、入室の許可を確認させたということは、この光景を見せてもいいと判断したことになる。フェリックス王は悪びれるのでもなく正当化するのでもなく、ただ冷淡にシャルルとエリザベートの姿を一瞥し、二人の背後に立つ兵士に向かって屍に指を差した。
「片付けてくれ。息子と少し話がある」
数人の兵士が作戦指令室に入ってきて、屍を持ち上げた。それが回収されるときに、エリザベートはこの死体の男を知っていると気付いた。王の指の一人だ。
兵士たちは抱えた屍から血を垂れ流しながら退出する。エリザベートはその様子を首を捻って見送ったが、シャルル王子は父親を尋常ならざる目で見ている。
エリザベートは、扉の隙間からマリアの姿が見えないかと、それが閉められる瞬間まで注視していたが、彼女は扉の死角に立っているのか、兵士たちの動きを見て脇にどいたかしたのか、どこにも見当たらない。
この異常事態を前に、早くもエリザベートの心は折れかけている。ここにいてどうやって状況を好転させられるのかわからない。その場から動けなかったのは、その不安を必死に押し殺し、説得せしめたからだ。
「さて、話があるんだろう。話してみろ」
その声を聴いてシャルル王子ははっと我に返る。今はもうしまった扉を振り返り、父親に視線を戻すと、彼に挑みかかる。
「まず、まず……あの死体はどういうことですか。父上が直接手を下したのですか」
すると、フェリックス王は退屈そうに首を動かした。テーブルの端まで歩き、窓の近くに置かれていた水晶のようなものに手を伸ばした。金属の台に澄んだ色の球体が載せられている。その中には、不思議なことに何羽かの発光する鳥が入っているようだ。明らかに魔術と関係するものだ。
「黒い鳥だけが帰ってこなかった。その理由が今、わかった……ふふん、予想外のことはいつも楽しい。その逆は――苛つきはしないが、少々落胆する」
「父上! お答えください!」
「当然、そうに決まっているだろう。シャルル。あの男は反逆者だ。それゆえに私自ら剣を振るった。為政者としては、至極当然のことだ」
フェリックス王がこちらへ近寄って来る。エリザベートは思わず後ずさりしそうになった。目の前にいるこの男は、いったい何者だ? 今まで持っていたフェリックス王に対するイメージとはまるで違う。フェリックス王は、柔和で、民を愛し、しばしば教会と激突しながらも、完全な対立ではなく、共存する道を模索していた。そのために優柔不断だと批判を受けることもあったはずだ。遠い昔、謁見したときにも、初めての登城で緊張しているエリザベートに冗談を言って笑わせてくれた。
「お前たちはいくらかの情報を持っているな……だから私が当然のことをしても、どこか異様なものを感じ取ってしまうのだろう」
フェリックス王は暗になんでも質問してみるといい、と言っている。それはエリザベートにもわかる。だがそれは寛大さからではなく、断頭台の紐を弄っているようなものだった。質問如何によっては、こちらは簡単に見切りをつけられてしまう。それは本当に首を落とされる、という意味ではもちろんないが。
シャルル王子にもその緊張感は伝わっているのか、いつになく余裕がなさそうだ。相手が父である分、エリザベートよりももっと心に気持ちの悪いものを抱えているはずだ。それをそのまま飲み込んでしまいたいとも、吐き出したいとも思っているはず。そして彼はそういうとき、吐き出す人間だ。
「ここへ来るまでに、敵の兵器を見ました。あれは遠い昔の、失われた時代の兵器でしょう。それをいとも簡単に倒した。お答えください。父上、あなたはクーデターが起ることを知っていたのですか? 私がクーデターがあるかもしれないと伝えたときにはすでに、知っていたのですか」
「いいや? 知らなかったとも。私としては迂闊だった。まさかこの国でこんな計画が進められているとはね……だが我が国の軍事力が彼らを上回ったというわけだ。私たちは敵兵力を先進的な技術とたゆまぬ鍛錬で撥ね飛ばしたのだよ。私は幸運な王だと思う。そして今回のクーデターで落とされた命は、みな貴重だ」
「おためごかしはやめてください! このクーデターのせいで、犠牲者が何百人も出た。向こう側もです。事前に首謀者を捕まえてさえいれば、戦いで命を落とすものなどいない。彼らのほとんどは日常に不満を抱えているだけの市民でした。扇動されなければ、こんなことに参加しなかったはずだ」
フェリックス王がシャルル王子の肩に手をのせ、微笑んだ。
「なるほど。お前には私がクーデターを前から知っていたという確信があるようだな。だが、それは間違いだ。お前はただ凄惨な現場を見て、冷静さを欠いているだけなんだよ。私を責めたいんだろう。確かにお前は、クーデターの可能性を随分前から私に説いていたからな。その誹りはあまんじて受けよう。しかし私がなにか陰謀を企んでいると考えているなら、それは違う」
今度は悔恨の表情をとる。そのせいで本当にどっちなのかがわからなくなる――つまり、フェリックス王は本当に知らなかったのか、そうではないのか――その表情は、本当にことを悔いているように見えるのだ。
「そんなことをして何の意味があるというのだ。シャルル。私にはクーデターを見逃す理由などないはずだ。それはお前も認めるところだろう?」
「ええ」シャルル王子が苦虫を噛み潰したような顔で言う。確かにここまでやってきてフェリックス王を糾弾するには、こちらの持っている情報はほとんど役に立たない。言いがかり――とまでは行かなくとも、フェリックス王が陰謀に加担しているとは必ずしも言えないだろう。「その通りです。ですが……」しかしシャルルはまだ納得がいっていない。
「ですが、ここにいるエリザベートは、先ほど王国の騎士に襲われました」
フェリックス王がこちらを向く。エリザベートはどきりとして、なにか反応を起こそうとするが、そうする前にフェリックス王は、泣きそうな顔でこちらに歩みよってくる。エリザベートは俯く。フェリックス王の顔を正面から見ることができない。
「なんということだ。怪我はなかったかい? そうか。君の騎士は実に優秀なんだな」
「ご心配、痛み入ります……」
「そんなことは言わなくてもいいんだ。恐怖だっただろう。しかし――」
声つきの柔らかさに、エリザベートは安心感を憶え、顔をあげる。そしてすぐ、体を硬直させた。フェリックス王はなにも笑ってなどいないのだ。
「しかし、シャルル。その言葉が本当なのであればの話だ」
「どういうことです。父上。まさかエリザが嘘をついているとでも?」
「違う違う。そうではない。いや、違いはしないが、それは少々露悪的というものだ。シャルル、お前は彼女を前から知っているはずだ。私も知っている……エリザベートは実にできたご令嬢だ。しかし、彼女の父親は、実に、支配的な人間だよ。グザヴィエ・マルカイツ。彼なら娘に虚偽の発言をさせようとなんでも――そうなんでもするだろう。それこそジュスティーヌの命などを人質にすることも考えられる」
「そんな!」
「ないと言い切れるのか?」
シャルルが言葉を詰まらせる。ここまで、エリザベートのやってきたことが全て裏目に出ている。
エリザベートはプレッシャーに押しつぶされていた。完全な敗北感に体を支配され、生殺与奪さえ今や二人に預けている。
「婚約者のお前なら見てきているはずだ……グザヴィエのエリザベートに対する言動を……。お前の前でさえ時折あの男は、娘を役立たずだと言っただろう」
「しかし……」
「大丈夫だ、シャルル。エリザベートはどうあれあの男から解放される。彼女が最上の状態でこの夜を乗り越えるには、お前の支えが必要だ」
「首謀者を、もう特定しているということですか」
「そうだ。このクーデターを主導したのは彼女の父であるグザヴィエ・マルカイツをはじめとした、四名の”王の指”だ。間諜のお陰でわかった」
フェリックス王に伝えなければいけない。それは間違いであると。反論しないといけない。わかってはいても、言葉は出なかった。この男を前にして自分程度がどうやって言葉で勝てるというのだろうか。
「シャルル。お前の手で解放してやれ。それがお前が彼女にできる、最後の心遣いだ」
シャルル王子が俯いて、エリザベートのほうをちらりと見た。その眼に宿っているものがなんなのか、エリザベートは知ることを恐れ、彼と目が合わせられない。
黒幕はアドニス・ケインズだ。メアリーと一緒に、苦労して答えを見つけた。確信しているはずなのに、フェリックス王の前に立つとその記憶が抑えつけられる。
アドニス・ケインズ。アドニス・ケインズ。アドニス・ケインズ。アドニス・ケインズ。真実であるはずの情報をエリザベートは、噛み砕くようにして繰り返した。そうすることで正気を保っている。そう言っても過言ではない。自分は正気で、間違っていなくて、間違えているのは向こうであると。
でも信じてもらえない。エリザベートは遡行前のことを思い返していた。誰にも、なにも信じてはもらえない。そういう経験をした。自分のやってきたことのせいで、自分がなにを言っても、少しだって騙される人はいない。あの瞬間、エリザベートは丸裸で、口はなく、考えていることすべてが周りに流れ出していた。
吐きたい気持ちを抑える。ここから今すぐ逃げ出したい。エリザベートは実際にそうしそうになった。それがきっと、フェリックス王の狙いでもあったのだ。エリザベートが逃げ出すことで、疑いは完成する。それは偶然によって防がれた。エリザベートは腰砕けになって、その場に立つのが精いっぱいだったのだ。足は二本の棒であり、コントロールが効かない。それがかえってエリザベートの身体を支え、彼女を立ったままの姿勢で、釘づけにしていた。
それを見てシャルルはこう言った。
「黒幕はアドニス・ケインズではありませんか」
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