第144話 なにかが道に落ちている 前‐2
ホールの中にはおよそ数百人の生徒や教師たちがいた。さすがに食事をとったり談笑したりなどということはないが、前のように机の下に隠れているような状況とも違う。いくつかの集団で固まり、ひそひそとその中でここから逃げ延びる必要があるか話し合っている。緊張と弛緩の入り混じった空気が漂っていた。
シャルル王子は戦闘指揮のある騎士たちが集まって話している集団へエドモンドと割って入り、エリザベートたちにホールにいるよう伝えた。
エリザベートはどこのグループに行く気にもならず、アイリーンと立っていることに若干の違和感を覚えていたものの、ホールの端で避難した生徒職員の間を歩く騎士たちの邪魔にならないよう、縮こまって佇んでいた。理由はわからないが額に触れると脂汗をかいていた。
マリアは隣で何食わぬ顔をして立っているものの、なにか探しているのかきょろきょろとホールを見渡している。
そうして、ある一点に眼を留め、エリザベートの肩を叩き、彼女と視線を同じにして、ホールの真ん中あたりを指さした。
あ、と思わず声を零す。視線の先にいたのは、落ち着かない顔で床に体育座りをしているメードと、彼女を立たせるか立たせまいか悩んでいる様子のメードだった。
アイリーンも気づいたのか、むこうがこちらを認めないうちから手を振り、彼女の名前を呼んで近づいていく。エリザベートはその後ろから、しずしずと歩いて行った。
「お嬢……」
クレア・ハーストは主人へ言葉を返そうとして、固まった。背後にエリザベートの姿を見たからだ。クレアは優秀なメードである。普通ならそんなことにならないし、なってもすぐにリカバリーできる。クレアはアイリーンを迎え入れた。エリザベートはクレアをちらりと見ただけで無視をして、みっともないから立ちなさいとコンスタンスに言った。
もちろんエリザベートも、そんな態度はとるべきじゃないとわかっている。けれど昔からクレアを前にするとつい冷たい態度を取ってしまうのだ。その理由について考えたことはなかったが、一連の経験を通してエリザベートは、自分のクレアに対する感情の振れ幅が、他の人間よりも少し大きいのだと気付いていた。動揺しやすいから、動揺しないように冷静さを意識してしまうのだ。
まだクレアが憶えていてくれたらよかったのだけど。と、エリザベートは密かに思う。意識しているわけでもない。文章として頭に浮かんでいるわけでも。ただ無意識にそう思ってしまっている。死ぬ前、殺される前、彼女がすべてを憶えているように振る舞ったのは、メアリーがそうしたからだ。今の彼女はなにも憶えていない。きっと自分がまだ怒っていると思っている。話しかけることを怖がっている。
エリザベートはマリアかコンスタンスを話し相手としようとした。そうすればこのもやもやも頭から離れていく。もう少し平穏な心持で居られる。
けれどそのマリアとコンスタンスは、すでに二人で話を始めていた。というよりマリアがコンスタンスを囲うようにしてこちらに背を向けている。エリザベートはそれで思わず、クレアのほうへ目を走らせてしまう。
クレアと目があった。彼女はアイリーンと話しながらも、こちらの様子をちらちらと窺っていた。
話すこともできたはずだが、どちらともなく視線を落としてしまう。
この期に及んでまだこんなことをしているとは、と嫌気が差す。無理にでもマリアとコンスタンスに割って入ろうと口を開きかける。すると、背後から軽い衝撃があった。
振り返ると、クレアが立っていた。アイリーンがこちらを見ていて、彼女がクレアを送り込んだのだとわかった。
「なに? なにか用?」
ああ。こんな風に言うつもりじゃないのに。
「いえ、えっと、その……」
クレアがアイリーンへ助けを求めるような視線を送る。エリザベートは今度は、それに少しだけ腹が立った。クレアの手を掴んで、こちらを向かせた。
クレアが驚いた顔をした。掴んだとはいっても、それはエリザベートの感覚で、実際には優しく包み込むようだったというのが正しい。
クレアの驚きよりも、エリザベートの驚きのほうが大きかったかもしれない。顔はいつもの様子を繕っていたが、頭が真っ白になっていて、次の言葉が浮かんでこない。
「お嬢さま……ああ、いえ、違う。マルカイツ様……その……私……」
「お嬢さま、でいいわ。あなたは」
エリザベートがひとつひとつ、慎重に言葉を紡ぐ。こんなに話す内容を吟味したことはシャルル王子を相手にしたときでもなかったかもしれない。
「苦労かけたわ。違う。忘れて。いなくなったことは……違う。違う。私は別に、あなたが……疎遠になっていいとは、思っていない……違う」
違う、違うと繰り返すエリザベートを見て、クレアは自分の顔から緊張が解けていくのを感じた。
彼女の手を包み返し、胸の前までもっていく。
「申し訳ありませんでした。お嬢さま……近くからいなくなるべきではありませんでした。あの時の私は……臆病でした。今もそうです。お願いします。仰ってください……」
エリザベートは気圧されたように息を吸った。完全に向こうのペースになるのは本意ではなかった。だから彼女は声が震えないようにして、クレアの頬に手を当てた。
「ごめんなさい。痛かったでしょう……私のために……」
クレアにはエリザベートの言っていることがなにを指しているのかはわからない。けれどここで言う内容は、どういう言葉でもいいのだ。エリザベートはクレアに想う気持ちをかけられるのなら、なんでもいいのである。
事実、クレアはそれで満足げに微笑んだ。彼女の今の主人であるアイリーンも同じだった。
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