第139話 ディザスターピース 前

 幼いころから、お姫様になりなさいと教えられてきた。

 お前はそれ以外にはなれないから、なりなさいと。


 なんのエキスパートにもなれやしない。お前はうちに生まれたこと以外は、なにもできないただの凡人であると、父から教え込まれてきた。癪だがそれは事実だ。妹のような音楽的才能はない。形だけ真似ることはできても、それでは誰の心も打つことはできない。


 私は平凡な子供だった。いい家に生まれ、いい環境で育っただけの、平凡な子供だ。私は特別優しくないし、特別強くもない。特別な才能も特別な性質も持っていない。ただコンプレックスばかりが高かった。


 婚約は私にとってたった一つの拠り所だった。私は王子の婚約者であることだけで、特別なのだ。


 逆にそれ以外で、特別になれるはずもないのだ。


 今思えば、両親が私にしたことは、受け入れがたい。なにかに依存して離れられないような人間になりたくなかった。依存しているもののために自分を道化にしてしまえるような人間にはなりたくなかった。もっと自尊心を持って生きたかった。

 

                ▽

 再び、暗転。

 瞬きをすると、エリザベートはまたあの丘のパビリオンで、椅子に座らされていた。


 オクタコロンの空間から解放され、メアリーのいう青い壁の向こうからも帰ってきていた。

 まだ頭がはっきりとしていない。身体を揺すって、椅子から滑り落ちそうになった。正面にメアリーが座って、紅茶をまた淹れていた。メアリーはエリザベートが覚醒したことに気が付くと、ふと微笑んだ。


「親が怖いって? ……ありがちだな」


 メアリーが言う。嘲ったような言い草だったのにも関わらず、声色はどこかウェットで、エリザベートにはむしろ慰めているかのように聞こえる。

 そっちのほうがむかついた。


 エリザベートはてすりを持って体を大きく持ち上げた。自分の体を大きく見せようとするトカゲのように。ずれた衣服を直して、メアリーの顔を睨みつけた。


 そして諦めたように、ため息をついた。


「あんたに告白したんじゃないわ。あいつによ」


「意外だった」


「なにが」


「殺さなかったこと。殺せただろうに。憐れんだのか? それともまさか、慈しみとか」


 エリザベートは足を組んで背もたれに寄り掛かった。「自分のことは殺せないでしょう」


「オクタコロンは”自分”なのか」


「少し違うけど、そうよ」


 エリザベートは言って、こめかみに手を当てた。オクタコロンのことを考えているようだった。あの時、オクタコロンの錯乱によってエリザベートの手が解放され、アミュレットを彼女に接触させることができたのに、そうしなかった。灰色の床で眼を覚まし、そのままこちらへ帰ってきたのである。


 殺す気が萎えてしまったのだろう。決して同情やメアリーのいうような”じあい”とかいうケチな感情からではない。エリザベートが自分の問題を語っているうちに、しゅるしゅるとその気持ち自体が無くなってしまったのである。ようは自分のために殺さなかったのだ。


 そういえば今、オクタコロンはどこにいるのか。パビリオンには見当たらないが、殺していないのだから死んでいるはずもない。あるいはメアリーがなにかしたのかもしれないが……。


 エリザベートの視線に含まれたものに気づいたのか、メアリーが手を振って否定する。


「私はなにもやってないよ。元々、オクタコロンは魂なき生物だ。僕が捨てた君の記憶を媒介に生まれたファジーで、脆い存在なのさ。君がアミュレットでそうしなかったから、瀕死の重傷から、もっと瀕死の重傷になっただけ。まだ死んでいない」


「なら……よかった」エリザベートは釈然としない顔で言った。


「よかった?」メアリーが今度はきちんと皮肉っぽくエリザベートを嘲る。「お優しいことだ。あのエリザベート・デ・マルカイツ殿が心配なさるとは。その優しさをどこかで発揮してればこんなことにはなっていないというのにね」


「よかったなんて思ってない」エリザベートが言う。「いや、よかったとは言ったけど、ホントには思ってない。ただその……もういい。でもこれだけは確か。本当に、よかったとは思ってない。よしんば思ってたとしても、そこまでスウィートな言葉じゃない」


「言わんとしてることはわかる。私も君が少し精神的に成長してくれて嬉しいよ。それはそれとして、私たちにはまだやることがある。それをやらないと」


「そうだ。黒幕! まだ見つけてない。どうするの?」


「問題ない。オクタコロンの残滓が……」メアリーは小さな金魚鉢をエリザベートの前に差し出した。「ここにある。この液体が教えてくれる。さあ、一緒に見ようか」


 メアリーはテーブルの下から四角い箱のようなものを取り出し、長い奇妙な材質のひもをそれに取りつけた。ひもは金魚鉢の下に据え付けられた金属の板のようなものに繋がっていて、メアリーが四角い箱のスイッチをいれると、液体がぶくぶくと沸き立ち始めた。


「さあ。時間よ教えてくれ。このクーデターの主導者は誰だ?」


 メアリーが言う。四角い箱に張られたガラスから、ひどいノイズと乱雑な虹色が飛び出してくる。あまりに強い光線に眼がちかちかする。エリザベートは強く目を閉じた。恐る恐る目を開くと、にわかにガラスに一人の人間が浮かび上がった。


 エリザベートはその人物を見て、眼を丸くして驚いた。


「アドニス・ケインズ! 平民出身の王の指ね。でも、どうして? 動機が分からない」


「これは嘘はつかない」メアリーはじっとその人物を観察する。「理由は後からいくらでも理解できるはずだ。今は早く元の世界に戻ろう。間に合わなくなるぞ」

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