第138話 エリザベート・マルチプル・オブ・マッドネス 後-2

 オクタコロンが柏手を打つと、エリザベートはまた記憶の波に飲み込まれた。彼女の脳裏に黒いものが迫り、そして、辺りはあの何もない白い空間から、ほんの数分前にはいた、あの校舎前に変わっていた。


 エリザベートの前に、マリアが血を流して倒れている。目をそらして後ろを向くと、そこにも彼女の遺体が落ちていた。


 エリザベートは息を強く吐き、そして吸った。鼻孔に血の匂いが入ってきて、彼女は噎せた。


 目の前の光景に耐えられず目を瞑ったが、瞑った先にあるものは瞼の裏ではなく、また倒れたマリアの遺体だった。彼女の身体は、エリザベートが眼を瞑るごとに増えていくようだった。


 マリアの遺体が積み上がり、当たりじゅう全ての光景がマリアで埋まっていく。エリザベートには逃れる術がない。目を逸らそうとも瞑ろうとも、その光景からは逃げられないのだ。


「彼女が死んだのはお前のせいだ」頭の中で自分の声がする。「彼女の忠義や親切心や友愛を最後まで疑っていたお前が、この死を招いたんだ」エリザベートの前に紫色のドレスを着たもう一人の自分――オクタコロンが現れる。「こいつもお前のせいで死んだ」


 オクタコロンの隣には、体が人形のように固まったクレア・ハーストが立っていた。オクタコロンはクレアの服の上から腹の辺りを撫でた。


「お前にはいつも不信が付き纏う……。自分にも他人にもだ。お前は人を信じられないんだ。お前は他人が自分のように嘘をつくと信じている。お前のように人を騙すのだと信じている。お前のように矮小な人間ばかりだと信じている……だからマリアやこのクレア・ハーストが持っていたような高潔さがわからないんだよ……」


 オクタコロンのクレアの腹をまさぐっていた手に、いつの間にかナイフが出現していた。オクタコロンはおもむろにナイフをクレアの腹に突き立てた。血液が零れ、腹の傷から中身が覗いた。


 オクタコロンは、それからエリザベートの眼をジャックして、何度も何度も、自分がクレアを殺した場面を再生した。クレアは気丈に振る舞っていたが、それで痛みが消えることにはならない。身体が自分の手で真っ二つにされるさまをエリザベートは見せられていた。


 そして急激に状況が変わり、今度は学院にエリザベートは放り込まれていた。辺りはモノクロだったが、エリザベートは”実感”を肌身で感じている。


 耳元で嗤い声がした。振り返ると、また嗤い声がする。どれだけ振り返っても姿は見えない。ただ嗤い声ばかりがした。


 嘲りは外ではなく、内側からやってきた。エリザベートの内側から、コンプレックスと自己嫌悪が現れ、それが今まであったあらゆる人間の形をとってエリザベートを苛んだ。

                 ▽


 それでもエリザベートは、アミュレットを離さなかった。


 あの記憶は、誰にとっても耐えがたい。自分が大事に思っている人間が死ぬ様を、あまつさえ自分で殺しているような映像を何度も見せられる。それも時間間隔が滅茶苦茶になるようなやりかたで、繰り返しの場面や時系列、因果さえも並列な経験として同時にエリザベートを攻撃する。


 腕の感覚はもう失われているはずだ。他の多くの情報に惑わされ、なにが正しいのかわからなくなって来ているはず。


 もうアミュレットを落としてもいい頃だ。


「いいさ、こっちには時間がいくらでもあるんだ」


 焦りを消し去ろうとして、そう口に出す。だがこれは事実でもあった。”青い壁の向こう”は時間の狭間だ。あるいはアキレウスと亀の逸話のごとく、時間は細分化され、無限の数字を刻む。時間間隔が相対的であるなら、それは無限の時間と変わりないのである。


「なにエリザベートを攻撃する記憶はいくらでもあるから、飽きることはない。気長にやろう」


 オクタコロンはそうつぶやき、エリザベートを見続けた。


 彼女は殺し、殺され、死に、死なれ、嘲り、嘲られ、憤怒し、憤怒され、嫉妬し、嫉妬され、殴り、殴られ、苛み、苛まれ、嘔吐し、転び、窒息し、首の骨を折り、、逃げ、逃げられ、切り刻み、切り刻まれ、一人だった。孤独に苛まれ、不安に苛まれ、才能に苛まれ、自尊心に苛まれ、痛みに泣き、痛みなきことに泣いた。


                   ▽


 いくら待ってもその時はやってこない。確かに苦しんでいるはずなのに。確かに涙を流し、やめろと叫ぶことさえしてもいいはずなのに。


 エリザベートは強靭だった。この責め苦においてはである。まるでなにかを悟ったように彼女は、ある一定のラインから下へ感情を動かすことなく、オクタコロンの責め苦に耐え続けていた。


 オクタコロンはもう一度、エリザベートの前に姿を現した。


 エリザベートは白い部屋の中心にうずくまっていた。目を瞑って、逃れようとしているのは明らかだ。どうしてまだ耐えられているのかわからない。


 オクタコロンはエリザベートの頭に手を置き、さらに記憶を加えた。苦々しい顔で彼女を見降ろし、苦痛に耐えていた。


 エリザベートがぐっと顔を上げた。


 エリザベートは両目から大粒の涙を流しながら、オクタコロンを見上げていた。


「こんなもんじゃないでしょ」


 オクタコロンはその言葉に虚を突かれ、後ずさった。単に強がりではなく、ある種の確信をもって言っているとわかったからだ。


 オクタコロンは怯みかけた。そして手で髪を撫でつけ、すぐ立ち直ったかのように振る舞った。


「そういうなら、もっといいものを見せてやろうか。お前の死の直前の部分とかな。悲惨だぞ? 災禍は国の隅々にまで及んだ。保養所のやつらはもう逃げられないと悟るや、保養所を放棄し、最後のみやげとばかりにお前を殺したんだ。たっぷり時間をかけ、ゆっくりとな。それを見せてやる」


 エリザベートにその記憶はない。しかし、こういえば動揺するだろう。このクソみたいな虚勢を排除できるとほくそ笑んだ。


 エリザベートは、鼻で笑っただけだった。


「それをあんたは見せない。脅しだけ。その部分に私は”実感”を持ってないんだから」


 エリザベートは紫のドレスの裾を掴んだ。オクタコロンは嫌がってはいるが、エリザベートが立ち上がるのを阻止できない。


「あんたが見せた記憶は、確かに私にとって忸怩たるものばかりだよ。マリアもクレアも、確かに私のせいで死んだ。私が殺したようなものよ。私は学院で孤独に暮らしていて、誰もが私を侮り、誰もが私を嘲った。まあそこは、それだけならいいわ。あんな低脳どもにどう思われようが、私は気にしない」


「そんなことない。気にしてるだろ」


「気にしてるけど、気にしてない」


 エリザベートの滅茶苦茶な返しに、オクタコロンは喉を潰されたような顔になって黙った。


「嘲ってももらえないほうが、私は嫌なんだよ」


「やめろよ」


「アイリーンもシャルルも、善人だ。そういう人間たちに嘲っても貰えない方が、私は辛いんだよ。ああいう連中に正面から立ち向かっても勝てないって、思わされるのが、クソみたいに屈辱なんだよ」


「やめろって言ってるだろ」


 オクタコロンがエリザベートの手を振りほどこうとする。しかし、その力は弱弱しいなんてものじゃない。まったくの無力だ。


「マリアのことも、クレアのこともそうだ。私は反省するよ。私はあの二人を見誤ってたんだ。ずっと強い人間だったはずなのに。信じられなかったから。……ねえ、私が記憶を見るとき、あんたも一緒に思い出すことになるんだろう。あんただって辛いんだ。辛いからあんな程度のものしか見せられないんだ」


 決定的なものをオクタコロンも避けて怖がっている。


怖がってるものはなに? 言ってみてよ」


「やめろ」


「あんなものじゃないはずでしょう」


「やめろ!」


 オクタコロンはずっと、エリザベートを動揺させるために演出を施していた。はじめに記憶も実感もない悲惨な記憶の数々を、次々と見せる。マリアの遺体やクレアの遺体には、オクタコロンは自分に恐怖やトラウマの実感がない。遡行前ではなく、後からできたトラウマを積極的に刺激した。


「紫のドレスに私は動揺した。なのにあんたはそのまま追い打ちをかけては来なかった。そのドレスはあんたにとっても嫌な記憶ってことだ。動揺した私を、あの二人で揺さぶった。上手く行かなかったから、学院の記憶にも頼ることにした。それで内容は何? 陰口や嘲笑ですって? 笑わせないでよね。そんなの今さら。ナンセンスなのよ」


「やめろって、何度も言ってるじゃないか」


「私たちが怖いのは、親だよ。ずっと私を縛り付けてきた。今も縛られている。それに比べればシャルルだって大して重要じゃないんだ」


 エリザベートの手からオクタコロンの手が滑り落ちる。オクタコロンはしゃがみこんで、さめざめと涙を流している。


「そんなこと聞かれたらどうしよう……」


 エリザベートはそれを見て自分も、静かにどこかで泣きたいような気分になった。


「やめてよ……」


 エリザベートの手首から挟まれているような感覚が無くなった。天井が真っ暗闇になる。オクタコロンはもう、この空間を維持する余裕がない。


 暗闇が迫りくる。エリザベートは瞼の裏に、両親の顔を思い浮かべている。

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