第115話 蛍狩り 後

 どう見てもおかしいその状況に、コンスタンスはなにも言いだせなかった。自分の思っていた通り、恐らくこの国には蛍が取れる場所はないし、、主人はどこかおかしいのだ。


 コンスタンスはここに至るまで、あまりそこに自信がなかった。マリアやクレア、自分はほとんどあったことはないが、シャルル王子も。自分が信頼を寄せている人物がことごとく彼女がいつもより変だとは考えていないように見えたからだ。


 しかし自分の判断に自信を持てないことに関しては、こと右に出るもののいない彼女であっても、流石に何もないところに連れてこられて”蛍がいる”と言われれば「あれ?」と思う。


 一見してその場には、なにもなかった。エリザベートと、コンスタンスを除けば、そこにあるのは逆説的に”ある”と言えるのかもしれない虚無ばかりである。普段と変わらない。何本かの木と、よく整理された芝。誰かが蹴って穴を開けたのか剥げている部分があるものの、これといって目を惹くものはない。まして蛍などと! コンスタンスは「ついたわ」と言った主人の真意を測ろうと、彼女の顔を覗き込んだ。暗くてよく見えなかった。


「なに?」

 

 ぶしつけに使用人が顔を覗き込んでも、エリザベートは特別彼女を叱ったりはしなかった。憮然とした表情で、お前は間違ったことをしているぞ、と伝えたが、当然暗いのだからそれも伝わらない。それがわからないエリザベートは、いつまでもこちらを見るコンスタンスに諦念を込めた溜息をし、正面を向いた。


 彼女の眼とコンスタンスの眼に映っているものは。ここにはなにもない、なんてことはない。よく人は、詩的表現でもってこの世になにもないと言えるのは、感性が鈍いかその余裕がないからだと言うが、そういった意味とも違う。ここでは文字通り見えているものが違っているのだ。


 それはエグザミンによるものであろう。彼女の眼には、あちこちを飛び回る蛍が見えている!


「蛍を取るのよ。さあ早く」


「えっとう……」


 コンスタンスは虫取り網を手渡そうとしてくるエリザベートと、庭園を見比べ、あたふたしてしまう。ないものをとれとは、まるで寓話である。そういえば聖ロマーニアスには、目の見えない令嬢を生涯騙しとおした使用人の話があったか……。


 コンスタンスの頭にまたもどうだっていい情報がかけめぐる。そのうちに虫取り網は彼女の腕のなかにあり、あとは振りかぶっていもしない蛍を捕まえるだけになってしまう。だけと言っても、エリザベートを満足させる一連の動きの中で、いちばん難しいのはそこだろうが。


 コンスタンスは網を持ったまま、そのばでぶるぶると震えた。感情からではなく、ただそれ以上、エリザベートと庭を見比べる動作を繰り返さないようにしようとすると、そうなってしまうのだ。どうやら彼女はさっきからその動きのせいでやきもきしているようだから。


「どうしたの? 早く捕まえなさいよ」


「はい。わかっています……」


「わかってるなら早く。私を見てないで。振り返って取りなさい!」


 エリザベートが乱暴にコンスタンスを押す。ここから先はエリザベートの癇癪とのチキンレースになってしまう。そんなのは嫌だ。そう思ったコンスタンスは、思い切って蛍なんていませんよ。ということにした。


「待ってください!」


 コンスタンスが控えめな声で叫ぶ。エリザベートは目を丸くして、彼女から一歩、後ずさった。


「言うぞ。言うぞ……」


 コンスタンスは深呼吸をした。いったん下を向いて、心の準備をする。それが終わるまで、時間はほとんどかからなかった。にもかかわらずコンスタンスの覚悟は、顔を上げてエリザベートの眼を見た途端、新たな展開によって吹き飛んでしまった。


「な、なんで……? あれ……?」


 コンスタンスが呆然と呟く。彼女の視線の先で、エリザベートはぼうっと曖昧なシルエットとなっていた。。街灯の光も届かないこの場所では、エリザベートははっきりと見えていない。覗き込んでも顔の凹凸があまりわからなかったぐらいだ。それが今、少しばかり違う風景になっている。


 エリザベートが学生寮を背景に、あいまいな輪郭線を描いてぼんやりと浮かび上がっているのは、同じだが、今はそこに視線のきらめきが加わっていた。黒い影に、はっきりとした眼の反射光が浮かんでいたのだ。コンスタンスはそれをよく見ようと前へ歩いた。するとそれは、一つの光ではなく、複数の動く光だとわかった。


「目の中に……光が……」


 コンスタンスが呟く。すると今度は、ぱっと、それまでずっとそうだったと言わんばかりに、エリザベートの姿がはっきりとわかるまでに辺りが明るくなった。コンスタンスはぎょっとして光源を振り返り、絶句した。


 辺り一面、蛍まみれだったのだ。


「なにぼさっと突っ立ってんの。ほら。あんたが取るのよ」


 エリザベートはコンスタンスが抱える虫取り網の柄をつつき、彼女の体を揺らした。コンスタンスは釈然としない顔で「はい……わかりました……」と言うと、ぱっと網を振るって、何匹かの蛍を捕まえた。


 エリザベートがコンスタンスから網を受け取り、びんのなかにそのうち一匹を放り込む。空気穴を開けた蓋を締めると、びんを顔の前までもっていった。


 コンスタンスも同じようにびんを見る。確かに、蛍らしき虫が入っている。コンスタンスは大混乱した。自分がいくら浅学とはいえ、これはおかしい。この国には蛍なんていないしまして庭になんているはずないしでもいるし。という……。あたかも万能の神がつくりだした”何をしても持ち上げられない岩”を目撃した人間かのように目を白黒とさせ、見たものを否定するように両目を拳で擦った。


 そんな使用人をよそに、エリザベートはびんから眼を離す。


「よくやったわコンスタンス。ご褒美に明日は休んでいいわよ」


 そう言い残して消えたエリザベートを、コンスタンスは見送る。彼女が背中を向けると同時に消えた蛍たちの光を、背中に受け止めながら。


 一人になったコンスタンスは、呟いた。


「こんなこと……どう言ったらいいんだろう……」




 


 

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