第116話 知っての通り世界の終わり 前
そして、全ての準備は整ったのだ。マリア・ペローをはじめ、エリザベートの周りに頼りになる者がいなかろうと、彼女は蛍を手に入れた。蛍を手に入れたのなら、することは一つしかない。
手紙の魔術師を探しに行こう。
もう迷いはなかった。エリザベートが本当にやりたいことがなんであるのか、それは本人でさえわからない。だがあえてお為ごかしを言うのなら、そんなものは誰だってわからないのだ。蛍を探したかったかもわからない。けれど、手紙の魔術師を探したいと考えていたのは確かだ。それは第一義的な願いではない。つまり、幸せになりたいがためにする行動ではない。けれど思い通りにいかないことがあまりに続く中でそれは、エリザベートにとって最後に残った展望のあることだったのかもしれない。
婚約者にはほとんど見向きされない。そもそもこの学院でほとんど会っていない。ライバルは相変わらず彼女の前に立ちふさがる。メードは大して役にも立たないし、彼女の騎士は気が多すぎる。
エリザベートの準備が整ったのと同様に、シャルル・フュルスト・ロマーニアン、アイリーン・ダルタニャン、マリア・ペローらの集団も、旧水道に侵入する手はずを整え、それは今夜決行されることになっていた。
マリアは朝早くから、彼女の下へ向かい、今夜は用があると報告した。
「アイリーンと逢引き?」
「いいえ。今日は水道掃除です」
「なにそれ」
エリザベートが皮肉を込めて笑った。
「私もちょっと闇雲すぎやしないかと思うことはあるんですけどね……」
マリアはなにかを誤魔化すように前髪を軽くつまんだ。
「行かないではくれないのね」
「必要なことですから」
マリアは前髪を離し、主人と相対した。エリザベートはマリアから眼を逸らし、ああそう、と呟いた。
「申し訳ありません。話せればよいのですが」
「やってることを知りたいんじゃないのよ。結局。私はね」
「ええ」
マリアの返事にむかついたエリザベートが、座っていた椅子の近くにあったランプを投げた。込められた感情よりもずっと軽い投げ方だったこともあり、簡単に受け止められてしまう。
「おっ、と……」
エリザベートは、ふん、と鼻を鳴らした。
「夜まではどうするの」
「なにも」
「それじゃあここにいて。ずっと」
「それは……」それは意味がない、と言いかけてとマリアは口ごもる。エリザベートが本心では自分にどこにも行ってほしくないことはわかっている。ここが何度目かの分水嶺であることも。しかし、結局、夜になって出て行くのであれば意味などないのだ。それがマリアをここに留め置く手段を模索するための試みであるというならば、ますます意味はない。何故ならそれこそ、マリアはエリザベートのためにこうまでやっているのである。
「ずっとは、無理ですよ」
エリザベートはなにも言わなかった。
マリアは十八時頃までそこにいた。今日は国の祝祭日で、加えてシャルル王子が手をまわして生徒たちに自主的なイベント開催をさせたため、寮から人がいなくなっていた。講義が終わり、いったん自分の部屋に戻って着替えたのち、再び学院の校舎へ向かう生徒たちの姿が、窓から見えた。
そのころには、マリアはエリザベートの椅子の後ろに立って、その列を眺めていた。もうじき自分も王子たちに合流し、道具を持ってここに戻って来る手筈になっていた。
「今日は祭りのようです」
ああそう、とエリザベートが言った。そう言いながらも彼女はマリアの隣に立って、同じように列を眺めた。
「行ってみたらどうですか? 意外と楽しいかもしれませんよ」
マリアが言う。虚言だった。この建物から彼女を離したいがための。エリザベートは首を横に振り、「私には関係ないわ」と言った。
「わからないの? あんなの求めてないのよ。私は」
「……ええ」
エリザベートの鋭い平手打ちがマリアの頬を打った。
「もういい。どこへでも行けば?」
エリザベートが泣きそうな声で言った。
こんなことを言われて、本当に出て行く人間がいるだろうか。マリアはそう思った。そしてすぐ、それが自分であると気が付いた。なんてひどい人間だろう。滑稽に笑い飛ばす以外、今の自分を正当化する術はなかった。そんなの正当化でもなんでもないただの誤魔化しだが。
マリアがどこかへ行った後、エリザベートは椅子に座り直し、ぶつぶつと独り言をいくらか言った。
エグザミンが瞼の裏に現れ、彼女を煽る。それが熱を持って頭の中へ入り込み、彼女を支配するのだ。彼女は苛立ち、そして立ち上がる。金切り声を上げて、椅子を持ち上げて壁に叩きつけた。椅子はバラバラになった。
地団太を踏み、部屋にあるものを全て破壊しつくした。この部屋に意味などない。ここは自分の部屋ですらない。自分はここですら異物なのだとエリザベートは思った。
しかし意外にも、彼女はエグザミンの薬には頼らない。びんを掴み取り、ガラスを通して世界を見ていると、割れ窓から吹く風も手伝って、気分の落ち着く思いがした。
彼女は部屋を出て行った。マリアはそのころちょうど、王子らとともに寮へ舞い戻っていた。エリザベートの気配をマリアは感じ取り、昨夜、コンスタンスと話したことを思い出した。
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