第114話 蛍狩り 前
蛍の取り方は、それほど難しくない。網を用意して、あとはちょっとした勘と動きやすい服があればいいだけだ。メード服や貴族のご令嬢が来ている服は向いていないが、それ以外なら概ね問題はない。
蚊やアブを取るよりはずっと簡単だろう。蛍は光っているし、動きもずっと遅い。なにより気持ち悪さもマシだから、取りたいという気になる。蚊やアブを取りたいと思っていることもあるだろうけど、そういうときというのは、きっと彼らに怒りを抱いている時だ。怒りを抱いてなにかをやるよりも、やりたいことをやっているときのほうが、力感のない理想的な動きができるというものである。
主人であるエリザベートから、”蛍を取りに行きましょう”と言われたとき、コンスタンスの頭に浮かんだのは、そんなどうでもよい情報だった。彼女が以前、エリザベートの命を受けて”時間を戻す魔法”にかんする本を探すよう言われたとき、ついでにこっそりと借りた本に書いてあった。
確か、蝶類の研究をしていた人だったけれど、名前は何だったか。まあ、ともあれコンスタンスは、エリザベートの言葉にそんなことを思い浮かべたのだった。そして、すぐにそれを頭から振り払って追い出そうとした。なにしろ今は、シリアスでいなければいけない時間なのだ。
それは自分の中にいる何者かの要請であるというよりは、彼女自身の意識だった。真面目に、目の前のものを捉えていたい。だからといって彼女の培ってきた精神性が、きちんと物事を解釈できるかどうかは、また別の話であるが。
「行くの? 行かないの?」
オークウッドの椅子に座るエリザベートが繰り返しそう尋ねる。
「あっ、えっと、はい……」
コンスタンスは腰を曲げて、深くお辞儀するような姿勢をとった。そして瞼のなかの眼球を限界まで左上のほうにやって、どう返すのが正解なのか考えた。
――えっと、わたしはマリアとお嬢さまの事情が知りたくて、それからクレアのことも知りたくて、ええと……それから……あれ、これは蛍と関係ない。蛍は何だったっけ? 蛍は……ええと……光るよね。じゃなくて。あれ……この国に蛍を取れる場所があったかな……。
コンスタンスはパンクするまで考えていたかったが、エリザベートがやや苛立った声で「行くの? 行かないの?」ともう一度繰り返したので、反射的に返事をしてしまった。
「同行させていただきます」
コンスタンスがそう返事をしても、エリザベートの機嫌は直っていない。むしろ悪化しているようにさえ見える。しかし、コンスタンス自身が拒否されることはなかった。誘われている以上、そんなことがあろうはずもないのだが。コンスタンスはついそう思って安堵してしまったのである。
そういうわけで、彼女たちは蛍狩りに向かうことが決まった。時間は、今日の夜ということだった。
エリザベートはコンスタンスに、いったん、学院の業務に戻るよう言った。
コンスタンスは学院の食堂へ向かい、自分の代わりに拭き上がった皿を運ぶ業務を二倍こなしていたメードに軽く声をかけると、隣でその仕事に加わった。細腕で、持とうという気概もないから、あまり役には立たない。ただ、疑問を頭で繰り返す賢さはあった。疑問を忘れたらひどい目にあうと、やはり以前借りた本に書いてあったのである。
コンスタンスは改めて、先ほど頭のなかでぐるぐると考えていたことを思い浮かべる。
――でも、蛍ってこの国にいたかしらん。わたしが読んだ本だと、この国にはいないから外国まで見に行ったって書いてあったけれど……。馬車で夜、国の外に行くのかな。
だが、彼女が賢かったのもそこまで。コンスタンスは今までのエリザベートのふるまいを鑑みてみて、もしかしたらお嬢さまならありえるかもと納得してしまったのである。
もちろん彼女の考えていることがまったくの間違いであるというそんなことを知るのは、ほんの少し後のことだ。
十九時に言われた通りエリザベートの部屋へ行った。エリザベートは部屋でびんを目の前に持って行って、
「あのう……今からですか……」
いまさらそんなことをいうコンスタンス。眠くなってきているらしい。エリザベートは「当然よ」と言ってびんを机のうえに置く。
「蛍は夜じゃなきゃ取れないでしょ」
そんなことはないと思いますけど。
そうコンスタンスは言わなかった。無用な質問だったからだ。それに、主人はなんだか機嫌が悪そうだった。
やりたいことをやりに行くはずなのに。
「それとも、やりたくもないのに蛍なんて取るのかな……」
それは正しい。とても正しい。けれど、意味もなく藪をつつくなら、蛮勇が必要だ。彼女にそんなものはない。結局、頭で混乱しながら体はびんをそのふただけを持ってでていくエリザベートの後ろを、ついていく他なかったのだった。
コンスタンスに状況を解決する能力は残念ながらなかったのだ。はなからそんなものはわかっていたはずだったが、コンスタンスは密かに、自分でも気づかないようなところで、少しがっかりした。
二人は寮から出て、少し歩いた。少しだけだった。エリザベートは寮をぐるりと回って、裏手の小さな庭に到着すると、「ついたわ」と宣った。
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