第112話 尊重されざる 中
エリザベートはマリアが去った先を、じっと暫く見続けていたが、背後から他の生徒が彼女を追い抜くと、これに引きずられるようにして身を翻した。翻した先に立っていたメードにぶつかった。
直前に気づいたので二人とも、大きなリアクションはしなかった。相手が小柄なのもあって、エリザベートなどはぶつかる音だけきいて、衝撃などはほとんどなかったぐらいだ。相手の顔を見下ろすと見覚えのあるつむじがあった。
「コンスタンス」
エリザベートは相手の名前を呼んだ。
「どうしてここにいるわけ?」
エリザベートのメードであるコンスタンスは、学院では主に彼女のそばではなく、学院の他の家から連れてこられたメードたちとともに仕事をしている。メードは学生のいる校舎にはめったに顔を出さないのだ。
学内清掃や個々人のメードとしての役割を果たすときも、講義の最中や比較的生徒の少なくなった放課後に行われることが推奨されている。始業の少し前である今に、彼女がここにいるというのは、いささか不自然であった。
しかしコンスタンスは、なにがおかしいと思われているのかもわからない様子で、エリザベートが詰問する態度でいることに不安を覚え、小首を傾げて、目元を震わせている。
「もういいわ。……どうせ大した用でもないんでしょ」
エリザベートはハアっと息を吐き、項垂れた。コンスタンスの肩を軽くたたき、彼女から離れていく。
コンスタンスはその様子を、黙って見送る。その顔には明らかな疑問が浮かんでいるにも関わらず、主人の癇癪を引き出すことを恐れて、なにも質問できなかった。
▽
ほんの少し前に、コンスタンスは同僚のマリア・ペローにこんな質問をした。
「いったい何があったのか?」と。いったい何があったのか? 恐らく全ての疑問の答えはそこに集約されているだろう……しかし、マリアにはそれに答えることはできない。自分でもわかっていないことが多すぎるうえに、迂闊に主人の心情を唱えるべきでないという、ポリシーもある。また、目の前のこの娘にそんなことを話しても仕方がないだろう、という思いもあった。
結局、マリアはコンスタンスの質問をはぐらかして、いつもの業務に行ってしまった。ぽつねんとひとり残されたコンスタンスは、今度はクレア・ハーストの下に向かった。
誤解されているが、コンスタンス・ジュードはなにも考えていないわけではない。人よりおおらかで、人より愚かなところもあるが、一切、なにも考えずに生きているわけではない。
だからマリアがなにかを隠していることはわかったし、それが恐らく主人にも関わりがあるであろうことも理解できた。加えて、もしかするとエリザベートが頻繁に口にする、アイリーン・ダルタニャンという人物とも関係しているかもしれないと。
彼女のメードであるクレア・ハーストとは、元同僚であり、現同僚でもある。
コンスタンスはクレアの部屋を訪ねた。
「なにかあったの?」
言葉こそ変化していたものの、コンスタンスはクレアに、マリアへのそれと同じ質問をした。
クレアは困った顔をして、部屋に招き入れたくせに、お茶のひとつも出さずベッドに座った。
「複雑な事情があるのよ」
「そうなの?」
「そう。あなたには言えないこと……ごめんなさい。あなたを巻き込みたくない」
「そう……」
それじゃあ、クレアも関係しているということだ。コンスタンスは従順なふりをして、そのように思う。
そして、ここから先はコンスタンスに思惑があったわけではないが、こんなことを言う。
「どうして言っちゃいけないの?」
「危ないから。それは――」
「そっちじゃなくて、クレアのこと。お嬢さまに」
コンスタンスが言ったのは、クレアが学院にメードとしているということである。運命のめぐりあわせか、または無意識にそうしているのか、エリザベートはまだクレアがいることを知らない。アイリーンのメードのことなど考えたこともないし、クレアがいる可能性など、一ミリも頭に過っていない。以前、食堂でマリアとクレアが話しているときに、クレアはコンスタンスに見つかったが、エリザベートにクレアがいることを言わないよう、軽く口止めされていた。
「どうして今、その話を持ち出すの?」
クレアが動揺する。マリアからもずっと催促されていることだ。早い方がいい。手遅れになる前に、と……。ドアの間に手紙も挟んであった。”時機が来ている”と。それだけの文章がクレアを震え上がらせる。
「ううん? ただ、ふと気になったから」
コンスタンスが言う。クレアがその真意を確かめるように、彼女の顔を見るけれど、そこからはいつもの邪気のない意図しか読み取ることはできなかった。
だがクレアには、その更に奥にもなにもないことを、信じることができなかった。
「本当にそれだけ?」
「うん。そう」
言ってからコンスタンスは、びくり、と体を震わせる。クレアから発せられた負の感情が自分に向けられていると気が付いたからだ。コンスタンスは「ごめんなさい。お邪魔しました」と早口で言って、早足で部屋を立ち去った。
尋常ならざるものを感じていた。クレアも、マリアも。でもそれ以上、自分にきかせてくれるようにも思えない。
普通なら――そう、正常な判断をできる人間であれば、ここで一旦は、諦めるだろう。あるいは不屈な人間であれば、二人をもっと詰問するのかもしれない。だがコンスタンス・ジュードはそのどちらでもなかった。マリア、クレア――この二人を除いて自分が気兼ねなく話すことができるかもしれない人物と言えば、エリザベートを他にいない。コンスタンスは、最後にエリザベートの下に出向いたのだ。
コンスタンスはただじっと黙って、エリザベートの近くにいた。彼女の部屋を訪れたものの、エリザベートに以前のような癇癪を起しそうなタイミングがあることを察して、質問する勇気がわかなかった。エリザベートは自室の机に頬杖をついて、今は物静かなメードをじろじろと眺める。
――コンスタンスがわけのわからない理由でこっちを待たせるなんてこと、今まで何度もあった。
十分待ってもなにも言わないコンスタンスにエリザベートはため息をしつつも、提案する。
「ねえ、コンスタンス? あんた蛍を取りに行きたくない?」
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