四章 それで最後は

第111話 尊重されざる 前 

 学院の端――校舎と学生寮からやや離れたところに位置する騎士舎の一室で、マリア・ペローは眼を覚ます。


 陽はまだ低く、よって気温も高くはない。もっとも夏も近づいてきたこの頃は、もう一時間もすればすぐ行動する気が失せるような熱気がやってくるのだが。


 マリアは簡素なベッドから起き上がり、昨日から替えていない服をクロゼットから取り出した新品に着替えた。


 彼女の主人であるエリザベート・マルカイツ――学院に通う生徒たちの中でもトップクラスの権力を持つ彼女が、学院のなかでも特別扱いされている一方で、マリアの扱いは、業務上、やらなくてもいいことがいくつかあることを除けば、他の騎士と変わらない。食事はみんなと同じだし、訓練施設が特別に用意されていたりもしない。部屋だって普通だ。折り畳み式のベッドと一対の机と椅子。壁に収納されたクロゼット。


 彼女のプライベートは、その部屋からはあまり感じられない。唯一、私物として持ち込んだのは木造りの収納箱のみだが、中にはなにも入っていない。武器は全て壁につけたフックに引っかけられているのだ。開ける理由がないせいか、箱の上には誰かからプレゼントでもされたのかペチュニアの小さな鉢植えが乗っている。


 これは、彼女のここ最近の状況の動きに比例するものではない。それとまったく関係なく、彼女は元々、特徴となるプライベートを持っていないのだ。だから専ら、部屋にいるのは眠るときだけ。それ以外は外をぶらぶらと歩いているか、彼女の主人や、この国の王子であるシャルル・フュルスト・ロマーニアスや、良くも悪くも目立っている男爵令嬢、アイリーン・ダルタニャンと共にいる。あるいは、彼らの従者たちと。


 それ以外は全て、職務としてである。というより、彼女は職務以外ではほとんど出歩かないのだ。外をぶらぶら歩いただとか、メードと話し込んでいたりだとか、そういったものは、数少ない例外を挙げてみただけに過ぎない。


 彼女にはルーチンがあった。


 朝、目を覚ましたら。


 顔を洗う。服を着替える。それから、武器を点検する。そして時間までベッドに座ってぼーっとする。


 そのルーチンをいきなり変えることはできない。


 たとえ彼女が、エリザベートと最早仲たがいに近いような状況を経験したとしてもだ。


 彼女自身も気づいているが、彼女は基本的に仕事人間である。


 前のカダルーバとの戦争のあと、彼女には騎士として論功行賞の他に、戦傷の見舞金もあった。元々金遣いの荒い方ではないし、下級とはいえ腐っても貴族である彼女には、働かなくてもしばらく食べて行けるだけの金があったにも関わらず、彼女はエリザベートに拾われるまでの数年間を、国境警備に費やしていた。


――なにもない時間を過ごす――というのが得意ではないのだ。


 それに、エリザベートとああいう会話をして、彼女がこちらを赦さなかったとしても、間違ってもこちらから切り捨てるような真似はできない。マリアはたとえエリザベートの思う騎士であることが疎かになろうとも、それを全て切り捨ててしまうのは違うと感じていた。この点は恐らく、彼女の美点だろう。


 彼女はいつも通り、エリザベートの下へ朝の迎えに上がった。エリザベートは、あれだけ暴れた後だからか、マリアを見てもすぐさま騒ぎ立てるような真似はしない。それどころか、ただその怒りが消沈しているというよりは、今は別のことを考えている、とでも言うような落ち着きようだった。


 とはいえ、マリアとのことを全て水に流したというわけではない。文字通り、考えることがあるから今は最重要の命題にはしない、というところだ。マリアは、彼女がこのような切り替えの速さを見せるのは珍しい、と思った。いつか抱えている問題のほとんどが解決したとき、彼女が考えていたこと、自分が考えていることを共有できればいい、と考え、追及するようなことはしない。


 なにはともあれマリアは、エリザベートが自分を拒否しないならそれに甘んじて、優先されることがない限りは彼女の傍にいようとしたし、自分のルーチンを崩さないで、出来る限りこの状況が自然であるように装ったのである。


「お嬢さま。おはようございます」と、そう言って。


 寮から校舎までの短い距離を、二人はなにも言わずに歩いた。校舎の分岐点に来た時、二人は向かい合った。この時だけは、いつも通りにする活動は上手くいかず、マリアはなんとか別れの言葉をひねり出したものの、エリザベートはそうできなかった。

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