第110話 終幕 エリザベート! エリザベート! エリザベート!
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エリザベートの荒れようと言えば、酷いものだった。彼女はマリアが部屋の外から声をかけたところでその烈火のごとき怒りの発散をやめていたが、その光景がどんなものであったかは、十分に感じさせた。
辺り一面に無惨にも引きちぎられた本の残骸が広がり、その間間に、ガラス細工の欠片が散らばっている。以前、シャルル王子にいただいたものだった。
他にもベッドの部品らしきものが床に転がっていたり、調度品が部屋の隅に転がっていたりと、およそ人が住んでいる部屋とは思えないような状況になっていた。
部屋の主であるエリザベートは、窓際の壁に背中をつけ、床に座り込んでいた。
彼女のトレード・マークでもある燃えるような赤毛は、今もみずみずしく、その怒りが表に出ていないからと言って、消沈したわけでもないことを表している。表情は窺い知れないが、どのような表情でも、彼女の内心を推し量るのに役に立たないだろう。
彼女が怒りを顔に表しているのなら、そのまま怒っているのだし、それ以外ならば、怒りを顔に出さないほどに怒っているということなのだ。
しかし、マリアは知っている。この主人が持っているのは、ただ発散される怒りではないということを。痛々しいやけどのあとを振り回して、他人にトラウマを抱かせるような種類のものであるということを。
膝のうえに乗せられた拳には、血が滲んでいた。マリアはその場にしゃがみ込み、彼女の腕を取った。
「傷薬は、どこにありますか? 跡になったらいけない」
エリザベートは、俯いたまま、マリアが触れるままにしていたが、彼女が部屋の中の傷薬を探すために立ち上がろうとすると、これに呼応してマリアの肩を掴み、前に押した。
「どうして?」
エリザベートは声だけで人を殺そうとしているかのように、小さく、そしてはっきりとそう言った。
「どうしてまだ、アイリーンなんかとつるんでるの! ねえ、どうしてよ! 私言ったじゃない! 言ったはずだよ! マリア!」
エリザベートは拳をマリアの方に叩きつける。
なんどもなんども叩きつけられる拳を、マリアが掴む。すると、エリザベートはマリアの顔に頭突きをする。マリアは呻いて、尻もちをついた。
エリザベートがマリアに馬乗りになる。マリアの髪が乱れ、前髪が顔を半分覆う。その間から覗く銀灰色の瞳が、エリザベートの黒い瞳とあう。
「私は、あなたのためにやっています」
マリアが言った。嘘偽りのない言葉だった。
「あなただけのために」
「そんなの知らない」
エリザベートは左目を抑える。痛みを感じていた。
「私はそんなことしてなんて言ってない。お前はして欲しくないことばかりやっている。お前がなにをどう言ったって、私は信じない!」
「信じてください」
マリアが言う。その声に心を乱される。ちかちかと頭の後ろでなにかが点滅しているような感じがする。
「む、む、む、む、むりだ……」
「無理でも、信じてください」
マリアが言う。点滅が頭の後ろから、中へ入って来る。
「うるさい! うるさい! うるさいんだよ! マリア、あなたは! 私の傍から離れちゃいけないの! 騎士なんだから! 私の味方なんだから! アイリーンの傍に何かいちゃいけないの!」
マリアはエリザベートの足を引っかけ、下から這い出て、立ち上がる。エリザベートは抵抗しようとしたが、力でも技術でもマリアには敵わず、本が何冊も乗った。ベッドの上に座らされる。
「今はまだ、わからないかもしれません。いいえ、もしかしたらずっとわからないかも……ですが、私はお嬢さまの味方でいます。そのためには今、あなたの隣にずっとはいられない……」
エリザベートは、それ以上マリアを殴ろうともしなかったが、顔は伏せたまま、ぶつぶつとマリアへの怨嗟を口にしていた。
しかしそれは彼女を拒否するものというよりは、彼女を縛り付けるものである。
エリザベートは熱に浮かされていた。その熱は、彼女から思考力を奪い、感情の生皮をむき出しにさせていた。
マリアは口をつぐみ、その場から立ち去った。元々、宣言のようなものだったのだ。エリザベートが自分を許すとは思えない。それはもしかしたら、今ある全ての状況が続いても残るかもしれない。わかってもらえないのは悲しいが、それでもクーデターを防ぐことは、必要だ。
マリアは寮から出て、あてどなく辺りを彷徨った。気が付くと彼女は、クレア・ハーストの部屋の前まで来ていた。マリアはノックして部屋に入ろうとして、やめた。かわりに床に落ちていた紙を見つけるとそこに字を走らせ、扉に挟んだ。
▽
マリアがいなくなった後の部屋でエリザベートは一人、俯いていた。彼女の頭の中に入ってきた点滅が、どんどんはっきりとしたものになり、一度、雷鳴のような音を立てると、彼女の視界をブラックアウトさせた。
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「やっぱりそうなった」
黄昏時。
そこはいつも、黄昏時である。
「なにをバカな」
光景も、自分がそこにいるという感覚もある。エリザベートはしかし、それ以外を感じていない。エリザベートは流体となり、そこに滞留している。
何者かがエリザベートであるはずのそれに滴定することによって、彼女はようやくそこにピントを合わせられる。
そして、悪夢を見た。
エリザベートは何度目かの悪夢を見る。
彼女は舞踏会で一人である。彼女の周りをアイリーン・ダルタニャンをはじめとした、自分の嫌いな人たちが踊っていて、その踊りの相手は見えないけれど、大事な人だということは解る。
どうして自分の近くにいてくれないの、と言ってみても、憐れまれるだけで、すぐにどこかへ去ってしまう。
クレアも、ジュスティーヌも、シャルル王子も、他の、ただ私を利用しようとしてただけだって知っていた同級生たちも。あの日、あの時、舞踏会で落ちて死んだあと、彼女たちとさえ私は仲良くしていなかったというのに。それでも寂しく思っていた。あんな連中でさえ近くにいないことが寂しいだなんて、そんなの、あんまりだ。
ああいう連中は見下されるに値する。やりたくないことを我慢してやるなんて、バカみたい。それも嫌いな相手の近くにいて理不尽なことをされて、そこまでやってその嫌いな人の権力をかさに着て、他の誰かを脅しつけることしかできないなんてね。人として貧困すぎるでしょう。
だからとても、むかっぱらがたった。あんな連中ですら、誰かが近くにいるのに、私の周りには誰もいない。
「ああ。お前は”裏切られるに値する”からな」
舞踏会。たくさんの人たち。黄昏の診察室。エグザミン。
エリザベートは左目と右目で違うものを見ている。
エグザミンは診察台の前に立つのと同時に、舞踏会の人々の間を縫って、彼女の前に姿を現す。油絵の具で描いたように、空間のなかで一人、異なる厚みを持っている。
頭はバラの花束。動いていないし、動いている。エグザミン。E-X-A-M-I-N-E。これは名詞じゃない。動詞だ。動詞は動きを表すけれど、動いている人を表さない。だから動いているし、動いていないのだ。
「あんた、なんなの……」
「私がなんであるかなど、どうだっていいことだ。私はお前の無駄にとんがった心を丸くするためにいるんだ……物事を全て、正しい形に収めるためにな」
「なにそれ。それは……」
「薬を飲め。いいから」
エグザミンが言う。いや、言わない。そしてエリザベートは薬を飲み下す。
エリザベートの意識が遠のいていく。
「落ち着くだろう? 蛍は私が調達してやる。お前はお前のやるべきことをしろ」
お前のやるべきことは?
「やるべきこと……それは……」
「手紙の魔術師を探すこと。お前を過去へ送った人間のもとへ、行くことだ。方法はわかるな? それでいい。こっちも仕事に取り掛かる」
エリザベートの意識が落ちる。ブラックアウトのブラックアウト。世界が反転し彼女が現実世界に戻ってきたとき、彼女は胸をどくどくと言わせていた。
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