第109話 優しく寝かせて‐8

 シャルル王子によるクーデター計画の全容を知るための作戦は、新たな展開を迎えていた。大きな事件が起こり、王都の謎に迫る。そして彼の命を受けて動くことになっている二人は――それに比肩しうる重要な課題に臨もうとしていた。


 あの後――シャルル王子たちとの会話の後――カケス寮の地下への侵入方法や決行日時を一両日中に伝えると言われ、二人は学院の廊下を肩を並べて歩いていた。


 マリアは刺々しくはなかったし、話をして欲しくないようでもなかった。しかし、空気が悪くなると大抵なにかを言い出す彼女にしては珍しく、ただ並んで立って歩いているだけのこの状況を、どこか不自然だと感じながらも、黙って歩いていることを受け入れていた。


 そのため話し始めるのは、アイリーンでなければいけなかった。


「さっき――話しそびれたことだけれど」


「水道のことか?」


「ううん、それより前のこと。その、マルカイツさんの」


 アイリーンは慎重に言葉を選んでいた。それでも浮腫に触れないようにするのは難しい。

 あえて触れるのなら、大義名分が必要だ。


 マリアから険しい空気を感じたアイリーンは落ち着いて、しかし出来るだけ急いで続きを言った。


「彼女は今、どんな様子?」


「いつも通りの彼女だよ」


 マリアは言った。自分でも言っていて違和感を覚えるほど中身のない言葉だった。


「冗談を言ってるの?」


「そんなんじゃない。そんなんじゃないけど……」


 マリアは身振りでなにかを伝えようとしたが、結局諦めた。それを見てアイリーンは、笑顔をつくってこう言った。


「昔ね、こんなことがあったよ。ある人が友達と仲たがいをするの。片方が、片方に度が過ぎてしまって。傍から見ればそれほどひどいことではないけど、その二人にとって許されざることだったの。だから二人は暫くの間、口もきかなかった。でもまたしばらくして、落ち着いて来ると、いつの間にかまた一緒にいた。私はどうしてそうなったのか知りたくて、その子たちに話を聞いたの。そしたらどうしても嫌で、その人のことを忘れたいとさえ思ったけれど、何故だかそうはならなかったって。まるで離れていても、体のどこかから出た糸が、その人に伝わっているみたいにして、時折震えるんだって。そうすると、忘れられなくなる」


 アイリーンの話をマリアはじっと聞いていた。彼女が話し終えると、まるで聞いたいなかった人間のようなしぐさで、「慰めてるのか?」と言った。


「かも」


「そうか」


 アイリーンは曖昧な笑みを返した。


 二人は学院内のT字路に到着した。学生であるアイリーンはこの後、まだ用があり、マリアにも別の用事があった。


「もうすぐ終わるよ。きっと」


「ああ」


 手を振るアイリーンを見送りながら、マリアは考えた。


 ――あまり好いとは言えない。


 彼女の質問に素直に答えるのであれば、それが正しかった。そうしなかったのは、そうすることでアイリーンに負担をかけ、結果的に自分自身が、彼女のほうにもたれかかってしまう可能性があると思ったからだ。


――今でも十分心労を負わせているようだが。開き直れるほど無神経ではない。


 立場が人をつくるとは、よくよく言われるものだが、今のマリアにも似たところがあった。マリアがエリザベートを全面的にフォローすることをやめたことで失ったものは大きい。彼女は今や、エリザベートの絶対的な擁護者ではないのである。


 マリアはアイリーンと別れた小路から校舎の外に出て、エリザベートの寮まで歩いた。


 実際に事件が起こったことによって、学院の塀の外に集まっていた人々は、今日はいないようだった。憲兵か、学院の警備員に解散させられたのだろう。去り際、未練がましい誰かが嫌がらせをしようとしたのか、塀の頂上に衣類が引っかかっており、騎士が何人か集まってそれを取ろうとしていた。マリアはそれらを無視して、両前の砂利を踏んで歩いた。


 今日はエリザベートにも呼ばれていた。昨日のこともあるし、別のこともあるだろう。それが喜ばしいことではないということは、ここへ来る前からわかっている。


 新築で、軋む音一つしない階段を駆け上がると、ある一室の前にコンスタンス・ジュードが立っていた。彼女は泣きはらした目をしていた。


 マリアは彼女に声をかけようとしたが、コンスタンスが自分のくちびるの前に人差し指を立てて、それを止めた。彼女のいつもの鈍重な動きと比べれば、あらゆる観点で機知にとんだ仕草であると言えよう。コンスタンスはマリアが近づくと、彼女にぐっと抱き着いた。


 マリアは彼女の体越しに背中を叩いて落ち着かせる。すると壁の向こうから、怒りに満ちた声が飛んできた。マリアに向けられたものではない。彼女が来ていることにはまだ気づいていない。マリアはコンスタンスを離し、扉の前に立った。


 短い溜息をする。どうしてここまで来てしまったのか。どこかで重大な過ちを犯したのか、それとも状況を考えれば、こうなる以外になかったのか。ひとつわかることは、自分が優柔不断だったことぐらいだが、それを差し引いてもこの状況は、自分ばかりが引き起こしたものではないだろう。同時にそれは、自分が責任の一端を担っていると認めることでもあるのだが。


「コンスタンス、君は学院の仕事に戻れ」


 コンスタンスは頷いた。


 彼女が階段を駆け降りる音を聞きながら、マリアは扉を開いた。


「遅くなりました。お嬢さま」と言葉を添えて。

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