第107話 優しく寝かせて‐6

 アイリーンはサビアン・カテドラルが残した言葉の意味を、しばらくの間、考えていた。


 ”ある”という考えで突き進めているクーデター計画の要と思われるサビアン・カテドラルを生きて捕まえられなかったのは痛い。劇場にいるはずのスパイも、シャルル王子に与えられた権限では追求しきれなかった。というのも、コバルト・サーモン・シアターに後から現れた憲兵隊が、現場の証拠を全て取っていってしまったからだ。


 アイリーンも憲兵隊に連れていかれた。もちろん犯人としてではなく、協力者としてだ。お付きのメードであるクレア・ハーストも一緒だった。憲兵隊の態度もこれといって冷たくはなかったものの深夜にシャルル王子の使いが迎えに来るまでは、帰ることができなかった。深夜よりも朝焼けのほうが近くなってきたころ、ようやくアイリーンは学院の自分の部屋に帰ることができ、王子の使者のねぎらいの言葉には返事もせず、そのままベッドに入って体が眠りに落ちるのを待った。


 その間にアイリーンは、サビアンが言っていたことを思い返していた。”ここに来た理由が分かった”。


――どういう意味だったのかしら?


 彼には、仕事があった。シャルル王子によればそれは情報の受け渡しと政治家を殺すことで――。でもああ言ったってことは、それは違ったのかもしれない?


「それとももしかして、ただ死ぬ間際に、レゾンデートルかなにかに気づいただけなのかもしれない」


 あの場面で、なにか変化のあったことと言えば……。


 そこまでだった。アイリーンの瞼がうつらうつらと瞬きを繰り返し、思考がその形をとる前にどこかへ塵となってしまうようになると、彼女は眠りに落ちてしまった。


                ▽


 翌日、眼を覚ますと学院はちょっとした騒ぎになっていた。


 コバルト・サーモン・シアターでひと悶着あったことが広がっており、しかも外国の諜報活動が原因の一つだという話にまでなっていた。


 事件があってから十数時間しか経っていない。しかも丸まる一晩を含んでだ。アイリーンは学院の情報網の広さを驚くとともに、これでもっと大きな話になってくれれば、マリアが犠牲を払う必要もなくなるかもしれない、と考えた。


 しかしシャルル王子はそうは考えていないらしい。重い体を鞭打って授業に参加した後は、彼とマリアと話す番だ。 


                 ▽


 アイリーンは、学院の廊下を歩いていた。もうすっかり常連となった自治会の部屋は、アイリーンの教室棟からは少し離れたところにあり、階段を上る必要もあった。上級生の教室がある廊下を抜け、真新しい階段を上る。


 遠くのほうに自治会の部屋があり、その前に昨晩とほとんど同じ格好をしたマリアが立っていた。


「マリア」


 アイリーンは声をかけるか躊躇したものの、この後どうせ顔を合わせることになると考え、彼女に話しかけた。


 マリアがアイリーンの方を向く。はじめて見たときは、この人はこういった顔もするのだな、と思った彼女の苦悶を思わせる表情も、今は見慣れていた。


「足は大丈夫なの?」


 体調を心配するふりをして、彼女に触れる。少しだけ表情が柔らかくなった。よかった。人に触れられて不快という人もいるけれど、彼女はそうではないらしい。


「少し痛むだけ。動くのに支障はない。そっちは? 君は大丈夫か? 憲兵隊に連れてかれていただろう」


「ああ、うん、大丈夫。少し疲れているだけ」


「これが終わったらすぐ寝るといい。君だって学生なのだし」


「そうしようかな」


「ああ」


 マリアはそう言うと、深く息を吸い、その場に胸を張って立った。感情を繕うだけの余裕が出たのか、なにか心で決めたことがあるのか、彼女の隣に立ち、アイリーンはその横顔を少しだけ眺めて、昨日のことをもう一度、思い出した。


 マリアは確か、これと言って調書も取られなかった。エリザベート・デ・マルカイツの”お付きの騎士”であるという事情が、そうさせたか。アイリーンと違って憲兵隊と少し話しただけで解放されていたのである。エリザベートとコンスタンスと伴って帰路に就く彼女たちをアイリーンは見ていた。


「今日する話についてなにか訊いたか?」


「いいえ。昨日の今日だし、劇場であったことだと思うけれど……」


「ああ、そうか」


――空っぽだ。


 アイリーンはそう思った。


 今自分は、かつてなく空っぽな話をしている。牽制も、読み合いも、もちろんポジティブな要素が入り込む隙間なんてない。話さなきゃいけないことがあるのに、怖がって触れていない。大きな腫物に気づかないふりをして、その周りを指でなぞっているようなものなのだ。


「劇、残念だったね」


 マリアがアイリーンの顔をまっすぐ見据える。アイリーンからは彼女の灰色がかった眼の奥は――アイリーンにはわからない。


「それは……」


 マリアが言う。これはただのバズワード。続いて出る言葉は――なかった。その前にシャルル王子が現れたからだ。


「二人とも、来てくれたか。昨日は大変だったろうに申し訳ない。入ってくれ」


 エドマンドが自治会の扉を開け、二人を招き入れる。アイリーンは会話が打ち切られたことに若干の後ろ髪を引かれながらも、彼女の背中を追って、扉をくぐった。




 


 

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