第105話 優しく寝かせて‐4

 マリアはエリザベートたちのいる二階席のブースへ戻った。遅くなった言い訳をするつもりだった。そういう言葉はするすると出てくる。新鮮なら大抵の言葉は受け入れられる。


 しかしマリアはブースの向こう側、一階、劇の檀上と同じ階の席と、出入り口との間にサビアン・カテドラルを見つけ、言葉を詰まらせてしまった。あからさまにそちらを見て固まることはしない。しかし、明らかに不自然な隙だった。


「どうしたの?」


 エリザベートが言う。


 喉が渇いて、声が出ない。サビアン・カテドラルはこちらを見ていた。そしてすぐ後ろにはアイリーンが兵士に説得されて、ロビーへ戻るところだった。サビアンは上着の裾をなびかせ、腰に提げている剣をわざと見せつけると、アイリーンの後ろへついていった。


「ねえ?」エリザベートが言う。いや、マリアの目の前でエリザベートは、大きなうろのようなものに変化していった。そのうろはマリアを飲み込んで、延々と彼女に話しかけてくるのだ。うろの外には血を流して倒れるアイリーンがいた。


 マリアは半分パニックになりながらも、考えていた。


――サビアンがこの場でアイリーンを殺すメリットはない。ロビーの外には人がたくさんいるし、このままサビアンが例の政治家と帰るまで他の兵士と共にいる筈。


――本当にそうか? あいつがどの程度本気でクーデターに参加しようとしているかは知らないが、そもそもあいつは服毒自殺して死んだはずの人間なんだ。ここで鉄砲玉みたいにアイリーンを殺しても、簡単に逃げ出せてしまうかもしれない。


――王都の刑務所は田舎のそれとは水準が違う。だが、向こうのバックにいる人間如何によっては……例えば、あの王子が考えているように、エリザベートの父かそれに匹敵する人間が背後にいるなら、可能かもしれない……そんなことに詳しくないからな。教会が主権を握っていたら、私も監獄にいたんだろうけども。


――それ以前の問題だ。あの野郎は自分の領民を使って人間狩りをやっていた狂人なんだぞ。あの手の人間はアイリーンみたいな強気な女を殺すのが好きだろう。(そしてそれは多分、私自身も入っている)。ここで助けに行っても、助けに行かなくても、私は絶対に後悔する。それなら――。


 マリアは怪訝な顔でこちらを注視するエリザベートと、今まさに去ろうとするサビアン・カテドラルの背中を交互に見る。


 そして彼女は、妥協点を探す。


 目を瞑る。ほんの一瞬だけ。


 エリザベートはマリアの行動を予期したかのように、唇を噛んだ。「マリア」と低い声を出す。


「おやめください」マリアはエリザベートの頬に触れ、歯に押しつぶされそうになっている唇を指を乗せ、解きほぐした。歯が唇から離れる。うっ血で出来た濃いピンクの色が引いていく。


「私にそこまでの価値はありませんから」


 マリアは振り返って走り出した。追い縋ろうとするエリザベートの声を振り払い、一筋の風のように。


 ロビーの方から悲鳴が上がるのが聞こえた。マリアは腰に引っかけていた雷槍を手に持ち、スロープを駆け下りて扉を体当たりで開けた。


 一目見ただけで、状況を理解できた。床に落ちる夥しい量の血。倒れている何人かの人間。一人はあの若い兵士で、一人はコバルト・サーモン・シアターの入り口で倒れていた。シアターの客である貴族たちは逃げることすらできずにその場で立ち尽くしている。傍観者で居れば傷つかないとでも考えているようだ。


 アイリーン・ダルタニャンは若い兵士の死体の近くで体の半分を血だまりにつけ、床に転がっているが、死んではいない。自分に背後を見せて立つサビアン・カテドラルを睨みつけている。


 サビアンはマリアを見つけると、にやりと笑った。手にはノコギリのような刃の付いた剣を持っている。ノコについた肉片を指で弾いた。


「遅かったじゃないか。女騎士。お前が来ないと仕方ないから、このお姫様は生かしておいてやったぜ」


「気を付けて! マリア! 一人じゃないわ!」


 アイリーンが叫ぶ。それと同時か、ほんの少し早いタイミングでマリアを背後から組み伏せようと、貴族たちの間に紛れていた二人の男が近づいて来る。


 マリアは、振り返った。行動としてはまず、それだけだった。相手を見もせずに攻撃を捌くでもなければ、カウンターをかけて雷槍――戦闘ピッケルで突いたわけでもない。ただ異常なほど低かった。二人の腰の位置より低いところまで驚異的なスピードでしゃがんで、振り返った。男二人はその一瞬、マリアを見失った。


 そして再度、自分より低い位置にいるマリアを発見したときには、片方はピッケルの先端についた小さな突起で顎を貫かれる。もう片方は倒れようとする相方をマリアに押し付けられまごついている間に、額にブレードで穴を開けられた。


 一瞬の出来事に周りの貴族は驚いていたが、二人目が倒れる音がすると――そしてその音が、あまりに無感情で、無慈悲なものであることを知ると、我先にとロビーから逃げ出す。


 彼らの流動的な動きの中心には、ぽっかりと穴が開いていた。その穴の端と端に、マリアとサビアンが立っていた。


 お互いに冗談を交わすこともなく、淡々と殺し合いが始まる。


 


 

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