第104話 優しく寝かせて‐3
そして上演が始まった。
細長い男が現れ、身振りで客に向けて挨拶をする。客が拍手を送ると、ステージが暗転し、ファーストシーンが演じられる。
ルガトーンは、エリザベートが語っていた通り三つの愛と幸福の物語だ。三人のヒロインはそれぞれ才能、安寧、富を表し、そのすべてを得ようとすれば破滅が待っている。あらすじだけ見れば三文芝居もいいところだが、これでルガトーンは新古典劇らしく通俗的な要素はない。今の時代、新進気鋭の作家なら侯爵家の令嬢はリビドーを刺激するようなシーンが用意されているだろうが、ルガトーンはお堅い、かしこまった演劇だ。
つい最近の定説として、人々は刺激に飢えている。物語はよりインスタントに。センセーショナリズムになっていく。
新古典主義はそういう最近の潮流が気に入らないお堅い人たちが集まってやっているような演劇で、今のところは文字通りかしこまっているだけの貴族以外にはウケていない。最近の劇と比べると展開が遅く、演出も地味だからだ。
今日は新作劇に入れなかった客が流れてきているのか、やけに人が多いものの、いつもは半分も埋まらない。マリアもクラシックに理解がないわけではないが、エリザベートに連れられていなければ見には来ないだろう。
だが今この演劇に集中できていないのは、そんな理由ではない。マリアはずっと頭の後ろが焦げているような感覚になっていた。
作戦が上手く行っているのか、余裕がないだけなのかここからでは判断ができない。演劇が中盤に差し掛かってもマリアを呼びに来る者はいなかった。
「マリア、どうかしたの? さっきからなにかおかしいわ?」
従者の態度を不審がったエリザベートが、小声で彼女に話しかける。マリアは小声で言葉を返す。
「いえ、なんでもありません。食事が悪かったのかもしれないです」
「ちょっと、こんなとこで吐かないでよ」
「ええ。少し出ます」
マリアはエリザベートの視線を背中に感じながら、二階席を後にした。口元を手で抑え、深く息を吸う。
――落ち着いた。
らしくない。こんなこと。マリア・ペローは自嘲して笑う。劇場の廊下の壁にもたれかかり、そのまま座り込む。掌で顔を撫でると、皮脂が浮いてきていた。実際に厠へ行こうとは思っていなかったが、これを取るために出てもいいかもしれない。
考えたくもないが、エリザベートからも作戦からも少し距離を置いたこの場所にいると、マリアはほんの少し癒されるような気がした。前に――といっても、ついこのあいだのことだが――あの建物の中でアイリーンが言っていたことを、ふと思い出した。
クレアとのことだ。こんなものは冗談にもならない、単なる現実逃避の類だが、アイリーンが言っていたようにクレアと真剣に付き合いでもしていたら、もう少し余裕があっただろうか。
マリアは考える。少しだけ、クレアと付き合っている姿でも想像して、あまりの馬鹿馬鹿しさに声を出して笑いそうになった。
「ないない」
――私は年下好きじゃないし、相手の弱みに付け込むような恋愛をする気もない。まして傷口をなめ合うような関係とわかっていて続けるつもりもない。
マリア・ペローはどうでもいいことを考えていた。彼女のいる廊下はあたかも周囲の環境から切り離されたかのように独立して、彼女の思考を除いたすべての時間が停止しているようだった。
マリアは叶うのなら、ずっとこの時間が続けばいいと思っていたし、そう思っている自分を無意識の海に解き放ち、我に返る予知さえ与えられなければいいとさえ考えていた。
しかし同時に、彼女の生存戦略は、甘えを許しはしない。ただ体に力は入らなかった。向こうからあの若い兵士がやってくるまではずっと、そうだった。
足音が聞こえ、完全なる彼女の世界に侵入者が現れる。真空の袋を針で突いたように、外界がなだれ込み、あっという間に彼女の世界は制圧されてしまう。
そこで斃れてしまうマリアではない。これは幸運でもあり、不幸なことでもあった。斃れてしまえさえすれば、時間とともに嵐が過ぎ去ることもあるからだ。今回だってきっとそうだった。すべて失う覚悟で投げ出してしまえば、苦しむ時間は少なくて済む。
兵士がこちらから視認できる距離に来るまでに、マリアはいつもの騎士の顔に戻っていた。
兵士はかなり慌てていた。大した距離を走っているはずもないのに息切れしていて、マリアの前に到着したときにはいき絶え絶えになり、しばらく言葉を発することができなかった。
ようやく話せる程度にまで回復したかと思えば、説明は要領を得ない。仕方なくマリアから質問をしていくことにする。
「あの人狩り領主は現れたのか?」
兵士が眼を白黒とさせる。簡単な質問の筈なのに。
「チッ」マリアは舌打ちをした。「いいか。こっちはお前のコンディションなんて待ってられないんだよ。私は行くべきなのか。ここにいるべきなのか」
「それは……」兵士が言葉を絞り出す。「それは、その……できればここにいてください」
「なに? それはなんでだ。現れなかったのか?」
「いいえ、現れました。現れましたが……サビアン・カテドラルではないと言っています」
「はあ?」
マリアが根気よく聞きだしたところによると、こういうことらしい。兵士たち、そしてアイリーン・ダルタニャンは、それぞれ人相書きや直接見た経験からサビアン・カテドラルの顔を知っていた。だから彼らしき人間がロビーに現れたとき、すぐそれとわかった。
「正面から入ってきたのか?」
「はい。それもある政治家のお付きとしてでした」
「政治家? まさかグザヴィエ・マルカイツじゃないだろうな」
「いえ”王の指”ではありません。ですがかなりの権力者です。確かその……海運関係だったかと。彼が正面から入ってきたのでこちらとしても見逃すわけにはいきません。すぐ確保に向かいましたが、政治家の方が彼の身元を保証されました。そうなると、迂闊に手を出していいかわからず……」
「王子がここにいないことが裏目に出たか。向こうは向こうで鍵の正体を探るのに忙しいんだろうが、うちの国に有力な仲介者がいることを考えれば、こっちを優先すべきだったな。いや、それはここで言っても仕方がない。それで、どうした。まさか放っておいたわけじゃないんだろう?」
「アイリーン様が彼らの監視を。いくら政治家のお墨付きがあるとはいえ、劇場に潜むスパイと情報のやり取りをすれば、そこを抑えられます。そのためにずっと張り付いているんです」
「アイリーンが? 志願したのか?」
「はい」
チッ、とまた舌打ちをした。下品なのはわかっている。エリザベートにも注意されたことがある。しかし気にする余裕はなかった。マリアは親指の爪を齧って何事か考え、廊下の壁を殴った。
「よくないな……よくない……あいつは男爵令嬢……権力の笠も最低限しかない。しかも相手が大物なら、男爵令嬢一人殺したぐらいなら言い訳はきくぞ。それこそサビアンの身元は一時的なものだろうから、殺してそのままサビアンを解き放つことだってできるんだ」
「どう、されますか……?」
「アイリーンを下げさせろ。どうせ無駄だ。これが公の作戦ならともかくほとんど王子が一人でやっているようなものだからな。むこうも遠慮はしない。最悪殺される」
「確保はできないんですか?」
「この場では無理だ。王子がいればまた違っただろうが、いないからな」
「一応、早馬で呼びに行かせてはいますが……」
「間に合うわけがない」
チッ、チッ。マリアは心の中でも舌を打つ。
――向こうは知ってるな。こっちの戦力が最低限だってことを。ほとんど王様には相手にもされていないってことを。これは挑発行為だぞ。なんて大胆な。
マリアは兵士にとにかくアイリーンを戻すよう伝えると、自分は二階席の方へ戻った。自分が出て行ってもなにか出来るわけではないし、厠へ行くにしては時間も経ち過ぎている。エリザベートが疑ってくる頃だろう。
「私は戻る。そっちはアイリーンを連れ戻すのと別に向こうの馬車を探しておけ。今はそれだけだ」
「わかりました」
兵士は上官に対するかのように敬礼をして、回れ右してロビーへ戻った。
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