第102話 第四幕 優しく寝かせて‐1
シャルル王子たちから作戦の概要は知らされていたが、マリアの希望通り彼女の仕事は基本的にバックアップということになった。基本的にはアイリーンと王子の配下にいる兵士が数人。サビアン・カテドラルやそれに準ずるクーデターの関係者が劇場でなにをしようとしているかを探り、場合によっては彼らを確保する。
向かうのを拒否すれば、嫌なことというものは向こうのほうからやってくるものだ。マリア・ペローはその日、その時が来るまであたかも自分が浮遊する綿毛にでもなったかのような非現実感のなかにいた。気の滅入ることなど考えたくはないし、いずれ来るのなら特別な儀式は必要ない。ただ待てばいいのだ。マリアは誰とも関わらず、普段通りに過ごした。
午後になってエリザベートが迎えに現れると、マリアはそれだけで現実に戻ってくることができていた。馬車の中でエリザベートは今日の観劇の話をしていた。
「ルガトーンは恋多き男の物語よ。主人公は芸術家のルガトーン・ド・ミュゼ。サロンの常連であるとともに肖像画家でもある彼はある日、辺境の古城に招かれ、そこの伯爵令嬢の絵を描くこととなる。怪しげなその令嬢にはじめルガトーンは不信感を抱くのだけど、芸術について語らううちに、彼女こそが自分の才能の理解者だと思い込むようになる。彼はすぐ伯爵令嬢を愛するようになった。でもそれは許されざるものだったの。なぜならルガトーンには心優しいミシェールという恋人がいた……加えて自分のパトロンであるリゴラス侯爵の娘と婚約している身でもあったの。センス、安らぎ、そして金……ルガトーンはこの三つの中から一人選ばなくてはならない。まっとうに生きたいんならね」
最後の部分はつけたしよ。
エリザベートはそう話の結びをした。マリアの隣ではコンスタンスが足を揺らすのを抑えながら、窓の外を見ていた。もうすっかり暗くなっている外には、おぼろげな街灯によって浮き出された丸い空間が並んでいる他は、なにもないようにさえ見えた。このところの治安悪化により外出自粛が続いており、用のないものは早くに寝ているからだろう。学院から貴族街を結ぶ道路には貴族や金のある市民ばかりのため、乞食すら道端にいない。
それも貴族街に到着するまでだった。それまでがたがたと音を立てて揺れていた馬車も舗装された道路に入った瞬間、滑らかに車輪が回りだし、代わって街の喧騒が聞こえてくるようになった。
貴族街には外出自粛もない。憲兵がいつもより多いが、お陰で観劇や買い物に訪れる貴族も多いように見えた。
馬車はコバルト・サーモン・シアターの入り口の前に停車し、中の三人を降ろすと、次の馬車に場所を譲った。御者は三人に会釈し、シアター裏の定位置へ移動していった。
マリアはそれを見送ると、シアターを見上げた。コバルト・サーモン・シアターに来たことはなかったが気分は少しも上がらない。有名作家の新作劇がやっているらしく、会場は人でごった返している。小耳にはさんだところでは、かなり面白いようだ。
マリアは遠くのほう、人混みの向こう側に見覚えのある顔を見つけた。その若い男は、マリアの視線に気づいて頭を下げた。やはりだ。シャルル王子が動かせる数少ない兵士の一人と言ったところだろう。――とすると、アイリーン・ダルタニャンもすぐ近くにいるのか。
マリアは息苦しさを感じて胸を抑える。それは首から下げたアミュレットが原因ではないだろう。
そのころエリザベートは、支配人と話してチケットを貰っていた。流行っているのは新作劇だが、エリザベートが誘った”ルガトーン”は新古典劇と言われる種類のもので、古い戯曲などを現代風にアレンジしたジャンルのものだ。普段エリザベートが出来を嘲う目的で見ている粗劇と比べればずっと熟成された、良くも悪くもよく劇を見ている人間のためのものである。
エリザベートが支配人のおべっかに付き合っている間、マリアは辺りを見渡して目的となるものを見つけようとしていた。今回、マリアに名前のある役割はないが、やはり気にはなるのだ。ここまで来てエリザベートといることを放棄するつもりは毛頭ないが、ここで相手を見つけられれば、気は大分楽になる。
それらしい人物はいなかった。
チケットを手に入れたエリザベートが二人の下へ戻って来る。
「なにを見てるの?」
エリザベートがマリアを見て言う。
「いえ、なんでも」マリアは笑顔で取り繕った。「それよりチケットはとれましたか?」
「まあね。ただどうせガラガラだろうから事前に言わなくてもいいと思ってたんだけど、どうも新作劇が混みすぎてこっちに流れてるみたい。問題はなかったけどね」
「それはよかった」
マリアの言葉にエリザベートは頷いた。
「あと十分前後で始まるそうよ。いい席を貰ったから、もう会場に行ってましょう」
三人は会場に行こうとする。しかし、マリアは背後の視線に気が付き、足を止める。
エリザベートの背中に向けて、声をかけた。
「先に行ってください。私は少し劇場を見てみたい。初めて来たものですから」
「そう? わかった」
エリザベートはコンスタンスを連れて、あっさりと姿を消した。
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