第101話 シューゲイザーズ(靴を見る人々)‐14

 言い方は粗雑だったが、エリザベートの声はどことなく喜色を含んでいるように思えて、マリアは戸惑った。ここ最近のエリザベートは、以前のシャルル王子に対するようなわざとらしい作った愛嬌が覗き、自分になにが求められているのかというのが不透明に感ぜられる。


「いえ、何の用っていうでもないですが」


 マリアが言った。そう言いながら、エリザベートが勧めた椅子に腰を下ろす。彼女は部屋の隅に置かれたティーポットで紅茶を淹れている。さっき飲んだばかりだが、拒否しない。淹れてくれるというなら、従っておこう。


「珍しいこともあるものね」


「そうですか?」


 マリアはエリザベートから紅茶を受け取る。やわらかな柑橘系の匂いが香った。温度も熱すぎず温すぎず、丁度よさそうだ。


「ありがとうございます」


「そういえば……最近はあまり騎士舎にいないの?」


「ええ。図書館なんかにいますね」


 マリアは紅茶を飲んだ。そして、落ち着かない気持ちになった。エリザベートが淹れた紅茶は、アイリーンのものよりもやや雑味があったが、茶葉がいい分、味はよかった。それならエリザベートを見て落ち着きを覚えてもよさそうなものだが、マリアが感じたのは別な胸騒ぎだった。


「最近、シャルル王子にお会いしましたか?」


「いいえ? それがどうしたの?」


 エリザベートがこともなげに答える。マリアは少しぎょっとする。そこが変に思えたのだろう。質問しておいてなんだが、エリザベートがシャルルと会うことができていないのは、把握していた。ああも忙しくしているのだからそんな暇がないのもわかっているが、なんの事情も知らないエリザベートであれば、そろそろ苛立ちが表に現れてもいいはずだとマリアは考えていた。


 しかし、彼女にその兆候はない。感情的にわかりやすい人物だが、自分の弱みを見せるのを毛嫌いしてもいる人だ。ともすれば隠しているだけなのかもしれないが、それは、隠していられるだけの余裕はあるという証左でもある。


 マリアは紅茶を飲んで心を抑えた。はじめの目的から逸脱しかけているのを感じていたからだ。


 幸いにもその目標――心の中でのアイリーンとエリザベートのバランスは保たれつつあった。マリアはまだエリザベートの騎士だし、エリザベートのためなら自己矛盾を無視できる。


「マリア? どうかした?」


 黙っていたマリアに不自然さを覚えたのか、エリザベートが言う。そして唐突に、左目を半分閉じて疼痛を訴えるような顔になった。


 ティーカップを脇に置いて、目を抑える。心配してかけよってきたマリアを制止し、大丈夫だから、という。


「多分ゴミが入っただけだと思う」


 眼を瞬かせるエリザベート。主人に制止され、それ以上は近づけないマリア。


 エリザベートは目を瞼の上から揉みつつ、言った。


「……ごめんなさい。今日はお開きにしましょう。もうすぐコンスタンスが戻ってくるかもしれない。茶葉を切らしているから、きっとあの子はうらやましがるわ」


「それは問題ありません。ただその……もしよろしければ、ここにシャルル王子をお呼びしましょうか」


「それは、大丈夫。大丈夫だから」


 エリザベートはむしろこの瞬間に、腹立たし気になっていた。マリアにはそれがこれ以上王子のことを訊くなといっているように思え、同時にそれが先ほどからの胸騒ぎに一定の納得を与えた。


 実際のところはともかくとして、マリアはエリザベートの代わりにティーカップなどの片づけを行った。


「明日、楽しみにしてるわ」


 マリアの背中に向けてエリザベートが言う。


「ええ。それはもう」


 マリアが返す。もしエリザベートの機嫌がよさそうなら、明日の観劇を中止にすべきかもしれないと進言するつもりでいたが、この分じゃそれは難しそうだ。とっくのとうにその気が削がれている。


「ねえ、マリア。あなたは楽しみにしてる?」


「してますよ?」


「楽しみにしてるって言って」


「楽しみにしてますよ」


「そう、よかった」


 エリザベートはにこりと笑って見せた。マリアの心がざわつく。それを隠すかのように、いつもなら見逃していたであろうティーカップの端についていた茶葉のかすを指で拭き取り、服に擦りつける仕草をした。


「それじゃあ、私はもう行きますね」


「ええ。じゃあ、また明日。あ、それから。もしよかったら明日の夜、付き合ってくれる? 蛍を取りに行くから」


「はい……はい?」


 マリアは扉を開けたまま振り返った。


「蛍ですか? それはまたどうして?」


「必要だから」


 マリアは怪訝な顔になった。しかし、それはマリアの脳裏にユーモアを思い起こさせた。冗談でも本気でも、悪くはない。


「よかったら使う前に聞かせてくださいね」


 マリアは扉を閉めた。


 黄昏になりつつある空を見上げながら、マリアは騎士舎へ足を向ける。丁度、その間に来たところでエリザベートのいる部屋の方角を振り返った。


(なにを選ぶせよ、時間は前に進み続ける。やるしかないと思うときが来るんだ。早い方がいいだろうな。早くこんな複雑な状況を終わらせて、自由な選択肢を持っていたい)


 騎士になるまではもうちょっとシンプルに生きてきたつもりだったが。そう考えてから、でも自分は騎士の中でも特に複雑な状況にいると自己反論する。


 マリアは気付いていたが、無視していた。自分がいくつもの疑念や不安を抱えたままでいることをだ。それを後悔する日が来なければいいと、片隅で願っていた。


 翌日はやって来る。それはどうあっても避け得ない事象だ。もし仮にマリアが死んでみようとしたとしても。


                 ▽


 エリザベートは部屋で一人、片付けられたティーカップの前に佇んでいた。左目を抑えていた手でカップの向きを直し、また抑えなおした。隙間から声がきこえていた。左手と、左目の間。つまり左目から声がしている。


 静電気に襲われたように、何度も表情を変えながらエリザベートはベッドに横たわった。


 そして夢の中へと入っていった。

 

 

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