第41話 分割思考-襲撃 後

 視界の外へ、ぼやけさせていた物事が突如、刃となって目と鼻の先まで迫ってきている。


 朝餉の席で母クリスタルからマーヴィン・トゥーランドットをジュスティーヌのお付きの騎士にすると聞いたとき、エリザベートはそんな心持だった。


 口に含んでいたエビのポタージュをもう少しで吹いてしまうところだった。


「どういうこと? お母さま?」


 そう詰問したくなる気持ちを堪えるのに必死だった。”この時間”において、エリザベートがマーヴィンを拒否する正当な理由はないのだ。自分の騎士を選ぶときはまだ許されるかもしれないが、妹の騎士にするのを拒否するのは、難しいだろう。


 不安になってついマリアの姿を探したが、騎士は食事の席にはつかない。今は一人でメードと談笑でもしている頃だろう。


「どういうこと? お母さま。私の騎士は、私が選ぶのではいけないの?」


 エリザベートに代わり、ジュスティーヌが母に質問した。彼女もまた、今まで聞かされていなかったらしい。驚きというよりは、やや不満を滲ませた顔で訊いている。


「お姉さまは、あんなに時間をかけて決めたのに」


「だからですよ。ジュスティーヌ」


 クリスタルが言った。


「エリザベート、あなたの姉は、なんとか間に合いましたが、あなたまでそんなテンポで騎士を決めるわけにはいかないでしょう。余裕はいくらでもあった方がいいわ」


「でもまだ一年あるんですよ?」


「ええ。そうね」クリスタルがグラスの水を一口飲んだ。「だからまあ……これが本決まり、というわけでも、ないの」


 その言葉で、ようやくエリザベートは立ち直った。ここまでは食事が喉を通らず、じっとうつむいてポタージュに浮いた香草を見ていたのだ。


「というと?」


 今度はジュスティーヌに代わり、エリザベートが質問した。二人ともエリザベートを見る。なにも関係ないのに口を挟んできたからだ。視線に含まれたものを感じたエリザベートは、慌てて取り繕う。


「いえ。今回、選んでみてわかったことだけど、やっぱり騎士を自分で選ぶと言うのも、得難い体験になると思うの。お母さま。ジュスティーヌ。だからジュスティーヌに選ぶ選択肢があるのなら、それはいいことだと、思って……」


 エリザベートは黙り込んだ。クリスタルが長女から視線を離し、言葉を続ける。


「マーヴィン・トゥーランドットは、実はエリザベートの騎士になる予定だった男よ。向こうは契約を待つのは数か月と言った。だから、その間だけでもジュスティーヌについて貰おうと思ったの。問題がないなら、そのまま騎士にすればいい」


「問題があるなら?」とジュスティーヌ。


「その時は……考えましょう」とクリスタル。


 ジュスティーヌは、はあっと息を吐き、諦めたような表情をした。姉に向けて恨めしい視線を送ることはしなかった。ジュスティーヌはそう簡単に他人に怒りや怨みを向けたりはしないのだ。気持ちを切り替えて、母親に向けてマーヴィン・トゥーランドットに関する質問をしていく。クリスタルはそれに一つずつ答える。


 全て知っている答えだった。あの男の出身地、人種、経歴。見た目に関する質問はなかったが、訊けば金髪の偉丈夫であると返ってきただろう。


 話を総合すれば、マーヴィン・トゥーランドットがここに来ることは避けられない。


――こういう変化が来るとは!


 だが考えてみれば、国で一番の実力を持つとされる男が長女の騎士にならないのなら、次女にあてがうというのは、不自然な流れではないかもしれない。正当に遡行前と変化が起きていると言われれば、否定することはできない。


 あの男は一種のトラウマだった。本人にそう言ってみても、どうしたって認める筈はないが、事実だ。


 正義漢というものがそもそも肌に合わない。それが無頼派となればなおさらだ。


 クリスタルはマーヴィンが来るのは遅くとも夏前だと言った。逆に言えば、そのあたりまでは余裕があるのかもしれない。学院に入れば寮生活がはじまるので、実家に帰る時間は必然に少なくなる。そこは幸運だった。四六始終信用ならない男とともに暮らすなんて気が変になりそうだ。この家に来ることを避けられなかったというだけでも、気が狂いそうなのに。


              ▽


 朝餉のあと、エリザベートはコンスタンスとマリアの下へ赴いた。メードに居場所を訊くと、中庭だと言った。中庭にはジュスティーヌのガーデンがある。マーヴィンのことを思い出したくないエリザベートとしては、実家となんらかかわりのないマリアと家のことを忘れられる場所で話をしたかった。コンスタンスは、別にいてもいい。あまり変わらない。


「湖に出向きましょう」とマリアを誘う。仮の目的として、来るシャルル王子とのデートに向けて、マナーを教えるという言葉も添えて。


 思いつく限りの注意はした。立ち位置や自己紹介のときの仕草、必要もないのにテーブルマナーまで。マリアがそれをどこまで真剣に聞いていたかはわからない。恐らく聞いちゃいなかっただろう。数分で話すことは無くなり、冬の寒さの残る湖の岸辺で、霧のなかを歩きながら、結局、マーヴィンのことを話してしまった。


「マーヴィン・トゥーランドットですか。それはまた大物ですね」


「会ったことがある?」


「ありませんねえ」とマリアが唸るようにして言う。「私がいた戦線とは違うところにいましたからね。でも後方にいると、前線で誰が活躍しただとか、そういうのは入ってくるものです。彼はそれ以前から、有名人でしたけどね。つまり、戦争以前ってことですが」


「へえ、そう。どう言われてたわけ?」


「戦士に対するあらん限りの栄誉と、ほんの少しの醜聞。そんなところでしょうか。ちょうど私と逆ですね」


 マリア・ペローはけらけらと笑った。しかし目を見ると、笑ったわりに今の言葉が面白いとはまったく思っていないようだ。


「言っておくけど、シャルルの前ではそれ禁止ね。冗談が通じないやつがいるから」


「ええ。弁えます」


「だといいけどね……」


 エリザベートが溜息をつく。もちろん、マリアのことではない。マーヴィンのことだ。これは解決不可能な問題だった。なにしろまだ”問題になっていない”のだから。マーヴィンが裏切るとしても、それは未来のこと。


 今のエリザベートは残像を怖がっているだけだ。それはクローゼットの奥の怪物と同じ。実体のないものなのである。


「今日はちょっと霧が濃いわね……舟は出せなさそう」


「それが賢明でしょうね」


「そうです。早く帰りましょう」


 最後の言葉を発したのはコンスタンスだった。ボックスを片手に、表情から霧中にいることに不安を憶えているようだった。濃いとは言っても一メートル先が見えないというほどのものではないが。


「帰りたいです……」


 エリザベートとマリアがなにも言わないので、さらに不安になったのかそう付け足す。


「わかった。わかったから。コンスタンス。帰りましょう。そのボックスは庭園ででも食べればいい」


「わかりました!」


 言うや否や、足もとの石に躓くコンスタンス。マリアがそれを助け起こす。


 コンスタンスが耳を真っ赤にして、エリザベートとマリアから離れたところまで、完全に置いていくほどの距離ではないにしろ少し不自然なぐらい距離をあける。


 エリザベートは釘をさす。


「頼むから。あの子を誑かさないで」


「それはもう」


 と、マリア。多分本当にそんなつもりはないんだろうが、本人は誤解されてもこれっぽっちも気にしていないので、余計に厄介だ。


――ああ頭痛がする。


 それで思い出す。コンスタンスの教育もそろそろ始めなければいけない。侯爵家のメードがいつまでもこれは困る。パースペクティブのところにはまだ行けていないし、シャルル王子とついに顔を合わせられるというのに、まだ全く心の準備が出来ていない。


――騎士が出来たところで、なにも解決しちゃいない。


 むしろ問題が増えているような気がするのは、気のせいか?


 気もそぞろ。せっかく愛しい相手と久しぶりに会えるというのに、手放しで喜ぶことが出来ていない。その分を損しているとわかっていても、会うときはやってくる。


 でもその前に、いちど、彼らについてきちんと記しておくべきかもしれない。

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