第25話 湖であったこと 前

 バゲットを入れたボックスを提げて、マルカイツ家の敷地内にある湖のほとりまで歩いた。しっかりと整備された道よりも、木々の間を抜けるのが、以前の姉妹の習慣であった。エリザベートはそれを忘れていなかった。ジュスティーヌとほとんど変わらない歩幅で、後ろにクレア・ハーストとコンスタンス・ジュードがついていた。


 湖のそばの、低草とじゃりの混じった、三日月のような形の岸辺に、クレアがシートを敷いた。重石の代わりにボックスを載せると、少し食事には早いから、湖に出てしまおうとジュスティーヌが誘った。


 クレア・ハーストが漕ぎ手を志願したものの、エリザベートはそれを断り、自分で漕ぐからそこで待っていろと命令した。


「クレア、コンスタンスといっしょにそこで待っていてね」


 ジュスティーヌがぶっきらぼうな姉にフォローを入れる。せめてこれぐらいはとクレアはジュスティーヌが舟に乗る手助けをし、桟橋と繋いでいたロープを外した。先に舟で待っていたエリザベートは、その一連の動作を温度のない目で見守っていた。


 自分がどうしてこの誘いに乗ったか。忙しさから逃げたいほかにも、理由があるような気がしていた。


「最近は忙しくて……これぐらいの外出もあまりできませんでしたね」


 舟を漕ぎだし、岸辺の二人の顔がはっきりとは見えなくなったころ、ジュスティーヌが言った。


 忙しい、と言っているのは、なにもエリザベートが忙しかったというだけの話ではない。エリザベートと一学年違うジュスティーヌもまた、家庭教師で忙しくしているうえ、姉のついでで今から騎士を探しているのだ。


 エリザベートの記憶では妹のお付きの騎士になる予定のヘンドリックス・ソ・モランは、この時期には見つかっておらず、南方の実家にいるはずだ。ある意味で本当に無駄に忙しくしていると言ってもいいかもしれない。それを知らないのは、不幸か、それとも幸運なのか? その疑問はエリザベートの脳裏に薄く、言葉にならないほどかすかに浮かび上がると、すぐ消えてしまった。


 湖面に疲れのでた自分の顔が反射していた。エリザベートとジュスティーヌが”今”の半分程度の年から、時たまこうして湖に船を出すのが、話をしたいときの姉妹のならわしだった。そのころは、マルセルという年寄りのバトラーが船を漕いでいた。しかし彼は耳が遠いので、なにを話していてもあまり聞いていなかった。そのくせ危険なものに近づくとすぐに気が付いて、その長い腕にエリザベートとジュスティーヌを抱え、屋敷に戻した。


 だから実際のところは、訊かれていたのかもしれない。それがわかっている今から振り返っても後悔や羞恥すら感じないぐらい、他愛のない話しかしなかった。


「なんか話でもある?」


 エリザベートは水面に眼を向けたままそう尋ねた。


「そう思いますか?」


「だって昔から――湖に行くときは、なにか話があるときだったから」


 ジュスティーヌがエリザベートと同じ方向へ目線をやり、またすぐ姉のほうへ戻した。


「なにが、というわけではないんです。ただその、お姉さまとあまり話していないと思ったもので。学院に入ったらもっと話す時間が少なくなってしまうでしょう? それで、こうやって誘ってみたんです。湖に誘えば、なにかあると考えてくれて、来てくれるんじゃないかと思って」


 エリザベートはジュスティーヌの眼をまっすぐ見た。邪気や悪意のようなものは見当たらず、姉に対する密やかな企みが上手くいったことを、彼女らしく慎ましやかに喜んでいるようだった。

 

 それでようやくエリザベートは、肩の力が抜けるのを感じた。


「……確かに。上手い手だわ」


 エリザベートはそして、以前のことを考えた。以前、遡行前の記憶。ジュスティーヌは自分から離れて、アイリーン・ダルタニャンと仲良くなる。今から考えれば、この純真な妹が自分から裏切ることなどできただろうか。


 ここでエリザベートは、遡行前にあったことを思い出した。


 エリザベートは学院の二年生。ジュスティーヌは入学して間もない。ジュスティーヌは学院のことをあまりよく知らなかった。学院に入ってからのエリザベートは、実家に帰ることも少なく、ジュスティーヌともあまり会話していなかったからだ。


 姉に関する噂を耳にしたジュスティーヌは、エリザベートと廊下で話をした。そして噂の一部が事実であることを知ったのだ。それは、エリザベートからすれば、曲解して伝わった物事である。説明してもジュスティーヌは納得せず、静かに、そしてこんこんとそんなことはやめてほしいと言った。


(で、けっきょくアイリーンと私をてんびんにかけて、やつを選んだんだ……)


 ジュスティーヌを信用しきってはいけない。けれど、今の段階で必要以上に遠ざけたり冷たくしたりすれば、それはそれで後々不味いことになるかもしれない。


 エリザベートは岸部のシートの上に座るクレアとコンスタンスに眼をやった。


 クレアは味方になることがあるだろうか? クレアのあれが本心だったとしても、そうでなかったとしても、それをどう扱ってよいかは、まだわからなかった。




 

 

 

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