第16話 高潔さの耐えられない軽さについて 3
パーティーは以前の記憶の通りに進行した。馬車を行かせたところで、バトラーに案内されて菓子や飲み物の置かれたテーブルが並ぶ庭園へ。記憶では白いフリルのついたドレスを着た令嬢が会場の半分を占めていたような気がしていたが、その通りだった。彼女らはサロン・ド・トロワの一員で、ようはアナ・デ・スタインフェルトが開いている会のメンバーだ。
サロン・ド・トロワの連中はみんな白いドレスを着ていて、みんなで集まって結婚に向けて互いを高め合うことを目的としている。そんなものエリザベートからすれば反吐が出て仕方ないが、彼女たちが自主的に運営している菓子店やワインセラーは聖ロマーニアスでも話題の逸品らしく、エリザベートもその点は認めるところである。
会場は白いクロスをかけられたテーブルがあちこちに点在し、その周りを令嬢たちが囲っていた。右側に建つ屋敷から突き出たように位置するステージ場にオルガンが置かれ、スタインフェルト邸付きの奏者が春の訪れを望む音楽を奏でていた。
サロンの主であるアナ・デ・スタインフェルトは庭園の奥に建てられたアーチ状の建物の中でサロンメンバーを含む数人と机を囲っていたが、庭園の入り口で立ち止まっていたエリザベートとクレアの姿を見ると、ゆっくりとではあるが、歩いてこちらまでやってきて、庭園の案内をした後、サロンの令嬢に呼ばれてどこかへ去った。「ご賞味ください」と言葉を残して。
遡行前のエリザベートはクレアを自分から離して顔見知りの令嬢と話を始めるのだが、今のエリザベートはそれを忘れ、ヒイラギの葉が刺繍されたクロスのかけられたテーブルをじっと見ていた。
正確には、その上の銀色の盆に載せられた二種類のジュースだ。一つは白ぶどうのジュース。酸味とやわらかな甘みが特徴。一つは濃いぶどうのジュース。白ぶどうよりも酸味はやわらかく、甘みをつけていない。
遡行前のエリザベートが飲んでいたのは濃いぶどうのジュースだった。エリザベートは散々迷った挙句、白ぶどうのジュースを手に取った。
それを持ちながら庭園を散歩していると、ぶどうジュースを片手に談笑している集団と出くわした。集団のなかでも髪の盛りが目立つ令嬢がエリザベートへ話しかけた。
「エリザベート様! こんなところでお会いできるなんて望外の喜びですわ! ささこちらへ。このタルトが絶品でしてよ」
「そうなんですか? ベルナデッタさん。でも今はこのジュースを飲んでいますから。あとでいただきます」
ベルナデッタ・オライリー伯爵令嬢。南のほうで海産物を取り扱っているオライリー伯爵の娘で、遡行前もよくつるんでいた令嬢だった。
ベルナデッタの隣に立っていた黄色のドレスを着た令嬢が言う。
「サロンの方たちも人が悪いわ。こんなによいものをいままで独占していたなんて……、ね、そうは思いません?」
「本当にそう」また別の令嬢が口を出す。「でも今は幸せな気持ちだから、なんでもいいわ」
ベルナデッタが他の令嬢から離れて一歩、こちらへ足を出す。
「エリザベート様……お体は大丈夫ですか? 使用人どもが噂しておりました……体調を崩されていたとか? 見舞いにも来ないなんて、シャルル王子も意地悪い方ですのね?」
「まさか! シャルルはお忙しい方ですから……わたくしのもとに参じられなかったことを、手紙のなかでもひどく悔やんでいましたわ」
「まあ、そうですの」ベルナデッタが暗い声で言う。「お体、本当に気を付けなさいましね? エリザベート様がいなくなってしまったら、わたくし悲しいです……」
ええ。そうね。
エリザベートは内心うんざりしながらも笑顔を返した。この辺りの令嬢たちが自分を恐れながらも、軽蔑していることは知っているのだ。それはそれとして、仲良くしようとしていることも。エリザベートがベルナデッタのような令嬢を相手にあまり怒ったりしないのは、彼女たちを憐れんでいるからだ。みんな傍若無人で、自分が一番でありたい。裏では自分より上にいる令嬢をけちょんけちょんに言う。でも対面しているときはそれを抑え込まなければならない。だからうんざりすることはあっても、怒りはしない。
「――あ」
ベルナデッタがエリザベートの背後を通った令嬢を目にして、声をあげる。
「知っていますか? エリザベート様。ドラン家の悲劇を」
エリザベートは眉を顰めた。その名前を知らないわけがなかった。ドラン家の悲劇。悲劇なんて言葉を使っているが、人が死んだりしたわけじゃない。これは遡行前にもあった台詞だ。
「わたくしの家はドラン家の領地と隣同士にありますの。向こうも海運業をやろうとしていたのですが、いけませんよねえ……泥棒なんてしようものなら、天罰が下るってものです。それはそれとして……今通ったご令嬢、ドラン家のルーナという娘です。知らないかもしれませんね。これが傑作ですのよ」
ベルナデッタの後ろから黄色いドレスの令嬢が現れ、話を継いだ。
「あの娘の顔には生来からやけどのあとのようなものがあるんです。化粧で隠しているようですが。よく見ればうっすらと」
三人目が現れ、また話をする。
「元々、彼女はゴードンという騎士爵の息子と結婚する予定だったのです。ゴードン騎士爵と言えば、王都でも随一の騎士で有名な方ですわ。王都邸も伯爵クラスと言ってもいいでしょう。男爵家のドランからすればこれほどの良縁がございません」
ベルナデッタが話を継ぐ。すべて聞き覚えのある話だ。エリザベートはだんだん、誰がなにを話しているのかがわからなくなってきた。脳が混乱して、三人が一人になったり、一人が三人になったりしている気さえしてくる。
だが、このあとなにが起こるかは鮮明に理解できた。適当な相槌を打っていると、背後から声を掛けられる。ルーナ・ドラン。今ここで話を訊くまで、その名前のことは憶えていなかった。
「ですが傷がバレ、あえなく婚約は破談となりました。まあ、化粧で傷を隠すなんて詐欺と変わりませんもの、当然ですわよね」
「話はそれで終わりません。実は家計が危うく、ゴードン騎士爵の財産をあてにしていたドラン家の主長は、娘の別の身売り先を見つけたんです」
「それがマーリン・プラコソーです。いちおう貴族ですが、騎士爵よりも歴史のない商家から貴族になった者です。名誉貴族というものです。このマーリン・プラコソー。ひどく醜く、そのうえでっぷりと太っている男なのですわ。あったことのあるご令嬢に話を訊きましたが、まるで口をきく大きなボールのようだという話です。芸術の素養もなく、学もない。金だけあるような人物です」
「ああ! かわいそうなルーナ・ドラン! いやらしい醜悪な怪物に金で買われ、その傷ついた顔と純潔の身体を捧げなければならないなんて!」
エリザベートは頭が痛くなってきて、体を猫背にして額に手を当てた。その時だった。エリザベートが来ると感じたタイミングで、彼女の背後からこの下種な会話を鋭利な声が切り裂いた。
「勝手なことを言わないでください!」
「あら、聞こえてました? でも噂話ですから……おひれはつくものです。違うというなら、話を聞かせてもらえませんか?」
ベルナデッタが心底馬鹿にした笑いを見せる。
エリザベートが振り返ると、意志の強い瞳の、黒く長い髪をした令嬢が立っていた。顔には確かにうっすらと赤く、ほんの少し浮き出た線が見える。今は化粧で隠しているのだろう。ルーナ・ドランがエリザベートを不敬にも睨みつける。
この眼だ。この眼でエリザベートは怒りを覚えたのだ。ルーナ・ドランだけではない。クレアや自分をあの断罪の場で糾弾してきた人たち、もちろん最悪なのはアイリーン・ダルタニャン。あの女。自分の意志を持って反抗してくる連中がエリザベートは嫌いだ。でも、それを赦さないといけない? そうでなければまた繰り返すことになるのか。あの金貨に埋もれた男のように、永遠の責め苦を味わうことになるのか。
(それは嫌! いやだ! いやだ!)
エリザベートは歯ぎしりをした。手がかたかたと震え、ルーナ・ドランの眼と言葉だけが脳の中に入っていった。
悔い改めなくては、そうでなくては……。思考が回転する。瞬時に浮かんでは消える思考は、考えとしてエリザベートの中で言語化されるにはあまりにも早く、結論が出てこない。知恵熱で倒れそうになるほどの回転がなされる。
融解したのは、突然のことだった。思考の糸が途切れた、のではない。唐突にエリザベートは答えを得たのだ。回転する思考の中心に、天使が降りてきたかのようだった。
唐突にすべて、バカバカしくなったのだ。なぜ自分がこんなことを真面目に考えなくてはならないのか。なぜ自分がこんなことを強いられているのか。どうして目の前の男爵令嬢を前に、自分がなにか考えたりしないといけない? だいたい、男爵令嬢のくせに侯爵の娘である自分に礼儀もなにもあったものじゃないじゃないか。
第一、贖罪を促すとは何様だ!? なにを反省したりしなければならない! もしここに自分を遡行させた存在がいるとすれば、声高らかに言ってやりたい。死ね!!!! と!
(あ、無理だ……)
自分のなかの冷静さが頭に血が上ってくるのを感じた。けれども不幸なことに、冷静さは体の支配権を持っていないのだ。
エリザベートはルーナ・ドランに向けて持っていたジュースをぶっかけた。この時、この瞬間だけ、エリザベートは少しだけ迷いを見せる。傾き、前に押し出されたグラスからなかの液体が飛ばされる瞬間、冷静さはエリザベートの手元に宿り、ほんの少しだけグラスを傾けた。そうすることによって、なにが変わるわけでもないのに。
「な、なにをするのですか!」
「黙れ!」
抗議しようとするルーナを怒鳴りつける。エリザベートは自分がなにをやっているのか、よくわかっていなかった。
「黙れ黙れ黙れ! うるさい! あんたごときが私にその眼を向けるな!」
エリザベートは言い終えると、呆気にとられたその場から離れた。
会場から離れるにつれ、エリザベートの身体から熱がひく。すると、またぞろその熱が忘れさせていた恐怖が身に襲い掛かってくる。肩で息をする。門柱に手をつき、息を整える。
そして、後ろにクレア・ハーストが立っていることに気が付いた。
「……なんか言いたいことでもあるわけ」
自然と、前と同じセリフがでてくる。
「……いいえ。御座いません。もうお帰りのようでしたので……」
馬車が見えてくる。エリザベートはクレアを振り返った。
「いいえ。お前には言いたいことがあるはずよ。それを言いなさい。今ここで」
はっきりと視線を合わす。クレアの身体がびくりと跳ね、緊張で瞳が震えた。クレアはなにかを言いかけた。ハッ、と息づかいまでした。
「エリザベート様……あなたは……なにを、見ていますか?」
クレアがぽつりと零す。
エリザベートは戸惑う。同じ行動をとっていたはずなのに、どうしてこんな展開になっているのだろう。
ここでクレアのとる行動は”なにも言わずエリザベートの顔を見上げる”ことだったはずだ。そしてエリザベートを人として見下し、また咎めるはずなのに。
なんなんだその眼は。
「エリザベート様……本当に、本当になんでも聞いていいとおっしゃるのでしたら、もし、許されるのであれば……」
クレアが続ける。
「どうして、わたしをクビにしたのですか?」
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