第15話 高潔さの耐えられない軽さについて 2
エリザベートとしては、母親に逆らうことはできないし、クレア・ハーストを拒否する合理的な理由も用意できない時点で、負けは確定していた。しかし、クレアを見るだけであの話を思い出すのだ……永遠の責め苦。これが本当にそうなのかエリザベートの中に確信があるわけではない。実際、あの子の話したところでは短い期間を繰り返しているようだが、エリザベートはずっと長いのだ。
だがパースペクティブも言っていた通り、あの物語は類型に過ぎない。民話の中には、確かに人生の過ちから三年後、復讐されるまでの間をずっと繰り返す男の物語もあるし、それが贖罪によって報われることで終わりを迎えるのは、このような説話の常套句だ。
これをいったいどのように受け止めればいいだろう? 状況が複雑化しすぎている。エリザベートはそう感じていた。自分が本当に判断しなければならないのは、恐らく二択か、多くて三択だろうに。
コンスタンスは自分が外された理由を知らないのか、前日にエリザベートへ向けて「お休みをいただきましたので、明日は街でケーキを食べてこようと思います」と言うだけだった。エリザベートもわざわざお前が不甲斐ないから私はクレア・ハーストなんかとアナ・デ・ランスリン・アルバート・スタインフェルトのパーティに行かないといけない、とは言わなかった。ハエでも追い払うように手を振っただけだった。
そして、その日がやってくる。エリザベートはいつもより早い時間に起こされ、重要な用事があるときはいつもそうしているように、数人のメードにドレスへ気がえさせられた。エリザベートの衣裳部屋からではなく、クリスタルの持つ娘たちのドレスのなかから選ばれたそれは、細かい意匠のレースをあしらった碧色のドレスだった。濃い色味に、燃えるようなエリザベートの赤毛は負けていない。むしろはっきりと、たとえ全身が暗闇のなかであっても目に焼き付くほど美しい。
「お奇麗です、お嬢さま」
出来上がったエリザベート・デ・ルイス・コーネリウス・マルカイツ侯爵令嬢を姿見で見て、満足な声を出すメード。
それから馬車が迎えに来るのを食事もとらずに待つ。パーティでも飲み物以外は口にしないよう厳命されている。クリスタルは食事風景を共有するというのが狂気の沙汰としか思えてならないのだ。たとえマナーがちゃんとしていても。
そして、時間がやってくる。部屋の外にいたクレア・ハーストが他のメードから馬車の到着を教えられ、罪人の儀式を真似ていたエリザベートの元へ。
普段使いの馬車よりも広く、高級な客車に載せられる。大した距離があるわけではない。王都に住まう金持ちの貴族は大抵、同じ地区に住んでいるためだ。せいぜい6㎞ぐらいか。余裕を持った行軍のため、時間だけはかかる。景色の移り変わりが、そう派手に行われるわけではない。
木々から木々へ、屋敷から屋敷へ、花から花へ。馬車内に会話はなかった。それが普通だ。エリザベートとクレアでは身分が違いすぎる。エリザベートはフレンドリィなタイプでもない。だから不自然な状態では決してないはずなのに、エリザベートはこの時間を苦痛に感じていた。やり残したことがあるような、そんな気分だった。
意味もなく手紙を開く。
「拝啓、エリザベート・デ・マルカイツ様へ。……うんぬんかんぬん。つきましては……わたくしとわたくしのサロンのメンバーで開催いたします催しに、ご招待いたしますことを、この手紙でお知らせしようと思います……日取りは……」
「どうかなさいましたか?」
「今さらだけど、なぜ招待されたんだかわからない」
気を紛らわせるための行動だったが、真っ当な疑問だった。
「確かに、接点は少ないかもしれませんが……エリザベート様はこの国にとっても、未来に重要な方です。今からでも関わろうと考えたのかもしれません」
「不敬よ。それは。スタインフェルトにとっては」
「申し訳ございません」
「いいえ。別にここで気にするようなことではないけどね……」
以前のアナ・デ・スタインフェルトはどんな人間だったか。思い返してはじめに浮かぶ記憶は、シャルル王子も関係している。とても苦い記憶だった。
▽
”今”のような青い空と、白い雲のかけらがマーブルのような柄を描く日の、夕暮れだった。
学院の廊下を歩いていたところ、左側の扉からアナ・デ・スタインフェルトが出てくるのが見えた。いつもならさして注目することはないが、その日アナが出てきたのはエリザベートが目的としている場所だった。
「なんか用でもあったの?」
通り過ぎようとしたアナの腕を掴み、エリザベートは詰問した。アナはやや、痛みに眉を顰めながらも自分の態度を崩さなかった。
「先ずは、離して、下さる?」
エリザベートが手を緩めると、アナは逃げるようにして腕を引いた。掴まれた場所をさすって確認しているようだ。
「癇癪を治すなら、手を出す癖よりも内面を治すのが最善でしてよ。エリザベート様」
「喧嘩売ってんの?」
「まさか」アナはおどけたように言った。「そんなことより、ここでその口調はよくないのでは? 愛しのシャルル王子がそこにいるのに」
エリザベートはアナの制服の襟を持ち、自分よりも背の高い彼女へ接吻でもするような距離まで近づいた。
「黙れ。お前が私にあの人の話をするな。わかったらとっとと消えて二度と現れるな」
「はいはい。了承しました。エリザベート様」
アナはエリザベートの横をすり抜けていった。エリザベートもまた、アナから眼を離そうとしたとき、彼女が振り返って、こう言った。
「果たしてそれが誰のことを指すかは、お楽しみといったところですけどね」
「なに? それはどういう……」
「エリザベート」
アナの発言の真意を確かめるよりも前に、シャルル・フュルスト・マルティシニアン・ロマーニアンが自分の婚約者に話しかけた。
「エリザベート、話がある」
「ああ! シャルル様。なんでしょう。申し訳ありません。お見苦しいところを……私はいつもはこうではないのです。いつもはもっと、慎みを持っております。今のはあの女が悪いのです。あの女が無礼にも……」
捲し立てる。
「わかっている。君は、そういう人だ。それより廊下で話すのもなんだろうから、こっちに来てくれないか。お茶を淹れよう」
「喜んで!」
美辞麗句を並び立てるエリザベート。普段の、他の人物を相手にするときとはまるで違う態度だが、無理をしているのでも飾っているのでもなく、自然とこうなっている。純粋にシャルルに対する想いがそうさせている。
目にハートが浮かんでいそうなほど情熱的に視線を送る婚約者を見下ろしながら、シャルル王子がお茶を淹れる。
「明後日の舞踏会のことだ」
シャルル王子がエリザベートの前にカップを出す。
「楽しみですわね……。わたくしはお母さまの学生時代に来ていたドレスを模したものを作ってもらいましたの。楽しみにして下さいませ」
シャルル王子は、どうしてだかこのとき辛そうな顔をした。
「学院の催しだが、隣国からも客が来るようだ。当日はそちらの方々に挨拶をしなくてはならない。君と過ごす時間は減ってしまうかもしれないが……」
「あら! もしそうなら、わたくしもいっしょに挨拶へ廻りますわ。だって未来の夫婦なんですもの! 今から知っていただかないと……」
「そうだな。そうだ」とシャルル。「エドワーズやミルンは相手を探すのに随分苦労していたようだ……。幸い、リーアン子爵のところのシャーリーがどちらとも踊ってくれるらしい。彼女には迷惑をかけた……」
「まあ、そんなことが……」
「ああ。君はエドワーズはともかく、他の名前はあまり知らないと思うが……」
「まさか! ミルン・ソ・レオナルド・ギッデンス子爵令息と、シャーリー・ソ・リーアン様でしょう? もちろん存じ上げておりますわ。二人とも学院の音楽科で優秀な成績をおさめていらっしゃるとか」
「知っていたか。てっきり君は僕の交遊関係にはあまり興味がないのかと……」
「殿下に悪い虫がつかないよう、よく見張っていますわ」
シャルルが力なく笑う。そして、急に真面目な顔つきになる。
「エリザベート、君は……」
「なんですか?」
「いや、なんでもない。もう少し話そうか」
きちんと、一言一句を憶えているわけではない。エリザベートはシャルル王子と話した内容をもっとしっかりと思い出そうとした。それが不吉な予兆であったことは確かだった。ただ、もしかするとそれ以外でもあったのだろうか?
過ぎ去った時について考えても仕方がない。なにしろそれは、”過ぎ去った時”ですらないのだから。
でもあのとき、シャルル王子はなにを言おうとしていたのだろうか。もしかすると、エリザベートを断罪することを、シャルル王子は最後まで躊躇っていたのかもしれない。きっとそうだ。シャルル王子にあそこまでやる気はなかった。アイリーン・ダルタニャンに泣きつかれ、周囲の人間が後押しをして、ようやくあの舞台が整えられたのかもしれない。
父には敵も多かった……父の娘である自分を罠にはめ、その名を穢して喜ぶ連中はいくらでもいる。シャルル王子は非常に明晰だが、あの時はついそういった者たちに引っかかってしまったのかも……。
馬車がつくまでの間、考えていたことや思い出していたことは、強いブレーキの音と、クレアの冷静な声によってかき消えてしまった。
「到着したようです。お嬢さま。すでに来られている方もいるようです」
「ええ。わかってる。じゃ、もたもたしてないでさっさと降りましょう」
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