第14話 高潔さの耐えられない軽さについて 1

 我らが聖ロマーニアスには、このような儀式がある。椅子に座ったところから掌を顔のほうへ、手の甲を外へ向けて、両の腕を天に掲げる。左足から立ち上がり、腕を頭の上まで、肘が伸び切らないところまであげ、座り込んで手の甲を床につける。これを数回行う。


 我らが国の罪人や俗に縛られた罪深い人々が聖霊にむけて行う儀式だ。聖霊はどこにでもいる。時にあのパースペクティブが言っていた”流体”とも同一視されるそれに向け、自らの是非を問う。その一連の動作によって受けた痛みは、聖霊の言葉であり痛みが強ければ強いほどそのものは清廉なのだという。


 通常、教会の床に向けて為されるため必然に手の甲は何度も大理石に打ち付けられることになるわけで。かつてそうであったかはともかく、今となってはただの自罰的な行いに過ぎない。エリザベートがそうした理由は、しかし自罰ではなく神秘に対するものだった。教会の人間は未だに、手の甲に走る痛みを神代の強力な聖霊の残りががなせる技だと主張している。エリザベートはそうではない。


 エリザベートがそうする理由は、恐らく興味からだ。エリザベートがこの時間遡行から今日に至るまで、結論を出し渋り、質の悪い冗談としてドリップしてきた過大な問題に対する、神秘的な答えを求めたのである。


 信仰心があるのであればあるいは高潔さを表すひとつの説話にでもなろうが。エリザベートは結局あいまいにしたまま、そのシーケンスを終えるだけだ。


「時間です。お嬢さま」


 自室の扉の向こうから訊き馴染みのある声がした。

 

 エリザベートは赤くなった手の甲をさすり、椅子のうえで身を曲げた。


「入って」


 エリザベートは不安げにため息をついた。これからなにが起こるのか、自分はある意味で知っているのだということを感じながら。


 入室したメードは、コンスタンスではなかった。コンスタンスより背が高く、栗色の毛をしていた。


「ご用意は済まされましたか?」


 どうして、クレア・ハーストがまたエリザベートに付いているのか。


 ――数日前のことだ。


 夕餉の場で、エリザベートはパンを半分だけ割って、その間に紫色のオニオンと油がたっぷり染み込んだトラウトサーモンを挟んで食べようとしていた。母クリスタルがナイフでステーキ肉を切る手をとめ、エリザベートに話しかけた。


「もうすぐ、中等部も終わりでしょうが。スタインフェルト伯爵の娘から、我が家に招待状が届きました。あなたにだそうよ、エリザベート」


 来たか、とエリザベートは思った。ここ一か月はずっといつ招待状が来るかと身構えていたところだったのだ。


「いつの間にあの子と仲良くなったの? 知らなかったわ」


 クリスタルがニコニコしながら言う。


 これには理由がある。我が国の国王――フェリックス王の助言役である”王の指”――エリザベートの父グザヴィエも、スタインフェルト伯爵も同じ”王の指”のメンバーだが、二人はつかず離れず――の関係にある。ある法案を通したり、事業を始めさせたり、十人の王の指の中には教会と密にしているものもいれば、商会と密にしているものもいる。その中で、グザヴィエ・マルカイツは商会派の最右翼として見られており、スタインフェルト伯爵――ヘンリー・スタインフェルトはどの派閥にも与していない。そのうえ彼は国で有数の金山を持つ大富豪だ。なのでいつもどうすれば彼を味方につけられるか――王の指たちは苦心している。


 娘同士が仲良くしているとすれば、懐柔も少しは楽にいくだろうと。クリスタルはだから機嫌がよいのである。


――とは言っても、たくさんいる中の一人であるし、向こうとは一度も話したことはない。


 エリザベートは以前もそう思った。しかし、両親の役に立てると思うと嬉しくて黙ったままでいたのである。今回黙っていた理由は、そうではない。そんなことを言って気分を害されても困ると思ったからだ。


「私は大丈夫です」


 エリザベートは言った。ここ最近は発狂したりすることはそう起こらなくなっていたが、まだ完全に安心されているわけではないと知っていた。


「それはもちろんよ」とクリスタル。「それより、この催しへ参加するにあたって、わたしから一つ提案があるんだけど」


「はい?」


 これは前にはなかった展開だ。


 一体何を言うつもりなのか。


「その……ね? コンスタンスのことなんだけれど……」


「……そういえば、コンスタンスの姿が見えませんね。これは……」


「コンスタンスはリネン室です。勝手ながら雑務に当たらせています」


 母親の代わりに、その後ろに立っていた壮年のメードが答える。サリア・クリステヴァ。この家に長年使えるメードで、今はメード長の役割を担っている。


「本当に勝手だね。あいつは私のメードなんだけど? なんであんたが命令してるの」


 苛ついたエリザベートを、クリスタルが宥める。


「まあまあ。コンスタンスに仕事を与えるよう言ったのはわたしだから。あまりメード長を責めないであげてね? それで、コンスタンスのことなのだけど……」


「なにかやらかしましたか?」


「いいえ、そういうわけではないの……とはいえあの子は……少し、抜けてるところがあるでしょう。仕事も、マナーも、まだ未熟。そうじゃない?」


「そうかもしれませんが」


「いいえ、そうなのよ」クリスタルがたしなめるように言う。「だからね? 今度の催しに参加する当日は、コンスタンスではなく、クレアを連れて行きなさい?」


「は?」


 思わずそんな声がでる。


 取り繕って咳をし、上がりかけた尻を戻す。


「どうして……どういうことですか? お母さま。確かにコンスタンスは完ぺきではありませんが、クレアを連れていく理由にはならないはずです」


 よく見ると食堂にはクレアの姿もなかった。この話はどうやら当事者全員の知らないところで進行していたらしい。


「ジュスティーヌにはもう了承を取ったわ。ねえ、ジュスティーヌ」


 ジュスティーヌがうなずく。


「お姉さま、クレアはいい子よ。なにがあったかはまだわからないけれど、もう一度機会をあげて欲しいの」


「機会の問題なんかじゃあないわ」


「じゃあなんの問題?」


 クリスタルが娘に問う。


 エリザベートは言葉に詰まる。


 感情的になりがちな彼女だが、感情だけで主張を繰り広げるほど愚かではない。


「クレア以外でもいいはずでしょ? どうしてクレアなの?」


「それはあなたにコンスタンスがついたのと同じ理由よ。おつきのメードは年の近いものがつくものなのよ。それに、コンスタンスのように貴族家系か、クレアのように優秀か、どちらかがなければマルカイツ家のメードとしては失格だわ。クレアは優秀よ、エリザベート。文句は言わせない。わかりましたか?」


 クリスタルが娘を追い詰める。彼女が敬語を使うときは、しのごの言わせない、絶対にこちらは折れないという意味である。


 これは、あまりよくない。


 まったくよくない。


 エリザベートはそう考える。状況自体も、自分のなかに在る、弱い自分に対しても、そう思う。


 あの日、過去であり未来であるあの時の状況に無理やり捻じ曲げられた。コンスタンスとクレア、その違いには大きな意味があるのか?



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