第9話 落ち着いて現実逃避をしよう 後

 コバルト・サーモン・シアターのエントランスはすべて計算されている。目に優しい、しかし暗さのない照明。濃淡のはっきりとしたブロンズ、ブラウン、こげ茶色の柄が混ざり合った温かみのある絨毯やエスニックな調度品は、いわば冬の装い。季節ごと、また目玉の劇によってぐっと顔を変える。


 今の目玉の演劇は、フランシス・デ・オードレジーヌ脚本による英雄譚”トルストルキアー”だった。神代を舞台に、親友に騙され船奴隷にまで身を落とされた男が復讐を誓って各所を旅しながら赦しを学ぶという内容である。


 エントランスホールで談笑する貴族たちの会話は、ほとんどオードレジーヌの話題ばかりだった。彼の作品がやっているときはいつもそうで、多くは”オードレジーヌの作品は素晴らしい。それに比べて最近の作品は……”という論調ばかり。新作がやっていないときも古典作品のリバイバルと称してしょっちゅうこすられている。エリザベートも見たことはあるが、確かに豪奢な作りで音も荘厳だが、毒っ気がないので退屈という感想しか抱けなかった。しかし、目上の人間と話すときは褒めないといけないので、オードレジーヌ作品のすばらしさについて家庭教師から論理的に学ばされることになる。


 これというのも、フランシス・デ・オードレジーヌは純粋な聖ロマーニアス人であるというのが大きい。彼は古くからの伯爵家の生まれで、家柄で言えばエリザベートのいるマルカイツ家とそう変わらない。根っからのロマーニアンだ。


 純血主義的な貴族たちにとっては、オードレジーヌは自国のまごうことなき誇り。国の宝なのだ。


 ただ、歴史的に見るともう少し複雑さがある。


 というのも、コバルト・サーモン・センターでやっているような”演劇”は、元々聖ロマーニアスにあったものではないのだ。劇自体はあったが、それは教会の出し物や一部貴族の誕生会で開かれていたもので、多くは宗教的で退屈で、貴族間ですら開かれていなかった。周辺諸国との交友の中で、今のような娯楽的な演劇が広まったと言ってもよい。オードレジーヌは他国の翻訳演劇が大衆のみならず貴族社会でも流行りを見せるのを見て、従来の宗教的な演劇に娯楽的な要素をいれることで、格調の高い娯楽劇を作り出したのである。


 最近は、厚顔無恥な貴族が演劇のはじまりは我が国だと主張することもあるようだが、とんでもない。大嘘である。


 とはいえ、エリザベートの目的はフランシス・デ・オールドジーヌではない。


 エリザベートは、エントランスに入ってから辺りを見渡した。防寒着を脱いで腕に引っかけていた。従業員らしい制服の男が、茶色のスーツを着た男と言い争っているのが見えた。


 茶色のスーツの男は、ふと視線を外して、エリザベートに気が付くと怒りをためたままの従業員を放っておいてエリザベートの前までやってきた。


「遅かったわね」


 エリザベートは防寒着をスーツの男に手渡した。


「申し訳ありません。マルカイツ様。気付くのが遅れてしまい……」


「従業員が前を通ったわよ。三度もね」


「本当に申し訳ありません……」

 

 四十を超え、責任も多い大人の男が十代の小娘に頭を下げている……エリザベートの父、グザヴィエ・デ・マルカイツはこのシアターの有力な出資者の一人なのだ。だから他の客のように事前にチケットを買う必要はないし、こうやってシアターの責任者に直接案内させることもできる。


「本日はフランシス・デ・オードレジーヌの新作演劇を見にいらっしゃったので? もしそうでしたら、もうすぐ上演いたします。二階の箱席をご用意いたしましょうか?」


「いえ、裏でやっているほうを見に来たのよ」


「粗劇をですか?」


 男が言った。粗劇というのは、大抵客の見込める演劇の裏でやっている、やや小規模で、新人や一部は学生も動員して上演する実験的な演劇を指すものである。文芸評論家や、一部のもの好きしか見に来ない類のものだ。


 実験的、と言えば聞こえはいいが、本当に芸術家肌の人間が書いた大衆受けしないような作品が上演されることはまずない。二番煎じな脚本、棒読みを通り越してコメディと化したおおげさな演技、もたついて外しがちな演出、普通に楽しみに来てみるようなものではない。


「失礼ですが、あのシアターには二階席は御座いません。そうなると他のお客様と見ることになるのですが……」


「問題ないわ。いいでしょ、コンスタンス」


「はい。わたしは、とんでもない。ほんとうにだいじょうぶで」


 まったく大丈夫ではない受け答えのコンスタンスを無視して、エリザベートは会場に案内させた。


 エリザベートの演劇の楽しみというのは、少々特殊なのだ。それは彼女が先進的な思想を持っているだとか、若い演劇作家や俳優へ熱心に支援をしているということではない。ただただ、ただただただ単に、粗悪な演劇をこき下ろすのが好きなだけなのである。


 彼女はシャルル王子やアイリーン・ダルタニャンのように文芸に造詣のない人間だが、上級貴族として一通りの教育を受けている。そして、彼女は決して頭が悪いわけではない。芸術論も一通り抑えているのだ。


 コバルト・サーモン・シアターでやるのは初めてだが、これまでも度々シアターに足を運んで演劇を見るのを楽しみにしていた。


 この日も絶好調だ。物語は、ある国(名前は出していないが、明らかにこの国である)の貴族の青年が、婚約者が旅行先で攫われたと知り、単身乗り込んでいくというあらすじ。ありがちだ。しかし、ありがちなあらすじであるにもかかわらず、そこから脱構築を図るでもなく、職人的に魅せていくのでもなく、中途半端で音ばかり大きい演出を繰り返すだけの、単調な演劇だった。


 演技もいただけない。先ずしょっぱなから俳優が初めの台詞を噛む。しかも三度も噛んだ挙句、下を向いたまま演技をはじめる。ヒロインはずっとねこなで声で、喋るたび背筋がぞわぞわした。

 

 もっとも傑作だったのは、青年を導く魔法使いの役を、エリザベートの知り合いの貴族がやっていたことだった。名前は憶えていないが、やや自信過剰な女で、芸術に興味があるとシャルル王子に話しかけているのを見たことがあった。彼女は完全なだった。動きがきびきびとしていないのに声ばかりが大きく、足の出る衣装のせいで短足が目立っていた。おだてるにしても、嘘をついていてはずっと恥をさらすことになるというものだ。


 しかしコンスタンスは普通に楽しんでいたのか、上演が終わると上機嫌で強く拍手までしていた。そのため、エリザベートはコンスタンスがこの演劇の一部なんじゃないかと冗談めかして考えたりしていた。


 上演が終わった後、さっそくコンスタンスとエリザベートの様子を見に来た責任者を相手にこの劇のどこが酷かったかを嬉々として語った。コンスタンスはともかく、責任者はエリザベートがなにか言うたび彼女をおだてて気持ち良くさせた。


「いい気晴らしになったわ。そろそろ帰りましょうか」


 シアターの出口からエントランスへ戻ろうとしたとき、何者かがエリザベートへ声をかけた。


「エリザベート・デ・マルカイツ様ではなくて?」


 振り返ると、妖精のような恰好をした令嬢が立っていた。


「やっぱり、エリザベートだわ。客席にあなたの姿があったように見えたから、わたし、上演が終わってからすぐかけつけてきたの」


「あら、そう」


 エリザベートは令嬢に挨拶した。


「どうだったかしら? はじめて自分で脚本を書いて、自分で企画をしてみたの。そしたらお父様がこのシアターにかけあってくれて、今日、上演できたのよ。あのオードレジーヌ様の裏だから人がいないんじゃないかって少し暗くなっていたのだけど、あなたがいてくれてよかったわ!」


 こんな自慢話などどうでもいい。


 エリザベートは、含み笑いをして、わざと思わせぶりな態度をとった。


「うまくいかないこともあったけど、ここまでこれて本当に嬉しい! 酷かったでしょう、わたしの演技。リハーサルのときは上手くできたはずなのに、本番はやっぱり違うものね……。プロの演者のかたたちには感服するわ! 今回のことで反省点もたくさん見つかった。しばらくはまたアンダーグラウンドのほうで自分を磨いていきたい……いずれまた上演の機会をいただくことがあれば、その時はまた見に来て頂戴ね!」


 エリザベートはいやなきもちになった。それ以上、そこでその令嬢と話している気にはなれず、演劇頑張ってと言い残してコンスタンスとともにその場を去った。


 気まずいなか、追い打ちをかけるように、帰りの馬車であまりの空気の悪さに耐え切れなくなったコンスタンスがこんなことを言い出す。「そういえば、魔法使いの話を見て思い出したのですが、うちの占星術師のかたに話をしたりとか、しましたっけ」


「……訊いてない。……そういえば」


 エリザベートは心をざわつかせながら、目の前のやるべきことを潰していこうと考える。

 じゃなきゃ惨めったらしいたらありゃしない。



 


 

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