第7話 なんど怒りを抱いても

 エリザベートの手で投じられたランタンは回転しながら、窓を突き破り、破片にぶつかってその回転軌道を変じた。はじめ彼女の手から離れた瞬間の速度と描いていた弧と比べればその後の失速は著しく、椿の枝に降り注いだガラス片より少し先の小路へ転がって、倒れた。

 

 驚くべきことに、ランタンはまだ壊れていなかった。塗装が剥がれ、下の金属が顔を見せ、フレームとガラスを隔てる部分がわずかにひしゃげてはいたけれど、まだ使用に違和感を伴わない程度には使うことができた。


 幸いにも、下に人はいなかった。庭師はまだ仕事に来ておらず、午後に庭園の散歩を日課にしているジュスティーヌは、ちょうどクレア・ハーストと書庫で話し込んでいる頃だった。


 小路と植え込みと、わずかながら壁際にランタンとガラス片が降ってくる。枝葉はずたずたに、頑丈な石の小路も傷に荒れ、落ちた張本人たちもまた傷ついたところを、次に晒されるのは、怒りに満ちた奇声である。これは、行き場のない感情のために癇癪を起した屋敷主の娘エリザベートによる破壊行動の余波であった。


 エリザベートはポールハンガーを振り回し、壁に叩きつけた。天蓋のついたベッドの柱をめちゃくちゃに壊し、床へ思い切り振り下ろす。なにかの破片で脚を傷つけながら、ポールハンガーを取り落とした後は自ら衣裳部屋に飛び込み、手当たり次第服を引っ張って引きちぎろうとした。しかし薄手のサマードレスならともかく、縫製のしっかりとした冬の装いを手でちぎるのは難しい。いったん部屋に戻ってガラスの破片を手に取った。


 とはいえ、貴族の令嬢であるエリザベートの体力がそう長くもつはずもなく、静かになったところを恐る恐るコンスタンスが様子を覗きに来た際には、素足を投げ出して衣裳部屋の床に座り込んでいた。モスグリーンのドレスを手にぎゅっと握りしめ、足から出た血が小さな水たまりをつくり、ドレスを掴んでいる手にも血が滲んでいる。コンスタンスがいざ部屋に入ったところで、どう声をかけるか、そもそも声をかけるべきなのか、そんなことを考えてもたもたしていると、部屋の外がにわかに騒がしくなった。エリザベートの騒がしさが喧騒に近いものだとすると、この騒がしさは不穏だった。少なくともコンスタンスにはそう感じられた。


 部屋にクリスタルと数人の使用人が入ってくる。クリスタルはコンスタンスの姿を見つけると声には出さず「外へ出て行くように」と命じた。


 いかなる心遣いかもわからず、コンスタンスはそこそこの声量で「はい」と返した。廊下に出ると同僚で自分の前任でもあるクレア・ハーストが、この家のもう一人の娘であるジュスティーヌを支えるようにして立っていた。


 目が合ったものの、やはりここでも声は出なかった。扉が閉じられる音で、コンスタンスは後ろ髪の引かれる思いをした。

 

 エリザベートはその一部始終を感じ取っていた。


 クリスタルが床の破片を避けながら衣裳部屋へ顔を覗かせると、エリザベートは静かに「ごめんなさい。お母さま」と言った。


「また癇癪を起したのね。最近までずっと大丈夫だったのに、あの熱のお陰で」


「問題ありません」


 エリザベートは言った。本気でそう思っていた。


「今は落ち着いています。今後はこうならないよう気を付けます」


 クリスタルは娘の話をそこそこに聞きながら、使用人に命じて足の治療をさせた。手も見せるようエリザベートに促したが、エリザベートは手は傷ついていないと返した。


「そうだといいけれど」


 クリスタルが言った。


「シャルル王子には絶対にその姿を見せるわけにはいかない。わかってるでしょう?  

あなたは王子の婚約者。思い通りにいかないときもあるでしょう。それに直面しても、強く自分を持たなければなりませんよ。北の親戚のお世話になりたくはないでしょう」


 エリザベートは体をびくり、と震わせた。使用人の肩を借り、傷のついた足を庇いながら立ち上がる。


「傷は残らないと思います」


 医者らしい使用人がクリスタルへ簡潔に報告する。


「ごめんなさい。お母さま。大丈夫だから。問題ないから。少し休むわ」


「そうでしょう」とクリスタル。「あなたは本当は賢いはずよ。つい最近までは行動をコントロールできていたはずでしょう?」


「はい」


「部屋を片付けるから、あなたは広間のほうへ」


「コンスタンスは?」


 エリザベートが肩を貸している若い男の使用人に質問する。


「彼女は外です」


「部屋の外に出たら、あの子と代わって。疲れたから休む」


 エリザベートは廊下に出て、男の使用人からコンスタンスへ肩を借りなおした。コンスタンスはエリザベートよりも小柄なので大変そうだ。

 

 妹のジュスティーヌが姉を心配そうに見つめていた。おつきのメードに支えられ、姉の傍に寄った。


「お姉さま」


 声をかけられたエリザベートは表情を硬くした。


「大丈夫ですか? この間からなにかありましたか?」


「なにもないわ。大丈夫よジュスティーヌ。ごめんね、怖がらせたでしょう。少し”ぶりかえした”だけだから。落ち着けるようにするわ。前みたいにする。コンスタンス、やっぱり中庭のほうへ行きましょう」


 コンスタンスがえっちらおっちら方向を変えて歩き出す。奇妙な二人三脚のような姿の二人の後ろに医者が付いている。


 エリザベートはコンスタンスに話しかける。


「これが終わったら」たまたまだが、眼があった。「もう一度本を調べなおすわ。また図書館に行って来て本を借りて。できるでしょ」


 コンスタンスはエリザベートを見たまま、なにも言わなかった。肯定していることはわかったので、エリザベートもそれ以上になにも言わなかった。

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