第6話 ほんの少し前にやっておくべきこと 後
着くべき人々は既に席へ着いていた。食堂は縦に長く、たっぷり二十四人分の席があった。入口のほうに大きめの余暇がとられており、中心を誰かが徘徊することを妨害するように、部屋の半分近くを占めるテーブルが鎮座していた。窓のない部屋だが、代わりに壁にエティオン山の絵画や、数百年前の戦場を舞台とした海の絵がかけられている。テーブルに燭台の炎が揺らめき、パンを乗せる皿がそれぞれ座る席の前に置かれていた。あちこちに、屋敷主とその家族の要望を聞き届けるメードとバトラーが待機していた。入口から一番遠いテーブルの近くには、クレア・ハーストが立っていた。
国王付きの仕事をしている父親は何の用があるのか姿はなく、夕餉はエリザベートの母、クリスタルと妹のジュスティーヌ、それからエリザベートの三人のみではじめられた。
食事は先ず、ボルチーニ茸のリゾットから始まり、鶏のステーキ、鮭のクリーム煮、バゲット、プロシュート、デザートはリンゴのソルベ。侯爵家の食卓にしてはかなり質素だが、マルカイツ家は伝統的に食事を簡潔に行う。特に美容に気を使っているクリスタルは料理の内容に敏感で、催し物に出かけるさいも、会場で出される料理を先にチェックして、食べられないものがあったら文句をつけている。
「最近はどうしているの。エリザベート。熱も下がって、どうも魔法に興味を持っているようだけれど」
エリザベートがリゾットを食べ終わり、バゲットをもそもそと咀嚼しているときに、クリスタルが言った。
エリザベートはコンスタンスを振り返った。まったく意味のある行動ではなかったが、彼女は自分が告げ口したと思われていると考えたのか、焦って目を逸らした。
「コンスタンスは、よくやれているかしら。不慣れなのはわかってるけれど、クレアを除けばあなたと年の近いメードは他にはいないし、少しは目を瞑って欲しいのだけど。そうだわ、ジュスティーヌ。クレアはどう? うまくやれてる?」
唐突に話を振られたジュスティーヌは面食らってフォークを口から吐き出し、はい、と短く答えた。
言及されているクレアは微動だにしなかった。
「別に問題はありません」
エリザベートは答えた。
「そう。それはよかったわ。ほら、少し前に、熱もあって、それであんなことになっていたでしょう? 夢魔にとらわれることもあるのだから(精神病の意味だ)気を付けなければね。シャルル王子とのこともあるのだから」
クリスタルは言葉を切った。テーブルの上の皿をいくらかの間ながめ、結局どれにも手を付けず再び娘に向き直る。
「私も、ジュスティーヌも、あなたの味方よ」
エリザベートはこの言葉にはあまり賛成しなかった。というより、ほとんど睨むような顔で母親の顔を見ていたぐらいである。エリザベートは、前の以前であり、未来の過去――もはや言及するごとに複雑さを増す、時間の遡行が起る前の時間にあったことを思い返した。
アイリーン・ダルタニャンとシャルル王子の噂が大きくなるごとに、エリザベートを急き立て、責め立てるクリスタルの顔、声、体の動き、その感情。そして妹のジュスティーヌに至っては――あの場にいて、エリザベートを助けることはしなかった。それどころか、ジュスティーヌとアイリーンは無二の友人と言ってもいい仲だった。むしろ積極的に味方になっていたぐらいだ。そのせいか、遡行後のエリザベートは、妹と話をしていなかった。それこそ、一度もだ。そしてクリスタルは、そのことには気づいていない。気付いているのはジュスティーヌだけだろう。
「ええ。わかっています」とエリザベート。「わかっていますとも」
「そう」とクリスタル。「わかっているのならいいわ。それなら、あなたのやっていることが無駄なのもわかっているでしょう。魔法について調べるのはやめにして。あなたのやるべきことは、シャルル王子との仲をもっと深めることでしょう」
「わかっていますよ」
エリザベートはにわかに機嫌が悪くなっていく。すでにやめようとしていることをやめろと言われ、やろうとしていることをやれと言われる。それもあるが、なにより同じ考えで同じ発想をしているかはともかくとして、同じ結論に至っていることに腹が立っているのだ。事情もなにもわかっているはずのない母親と同じ。エリザベートの持っている深い悩みや思索が、なにか毀損されたような気分になっていた。
「わかったなら、話は終わりです。食事を続けましょう」
クリスタルがにこりと笑う。
「楽しくね」
「できるかボケ」
……とは言わない。ふと、見られているような気がして辺りを見渡すと、クレア・ハーストと目が合う。見ていたのかと思ったのもつかの間、さらに動かしていると、ジュスティーヌとも。さもありなんとまだ動かすと、コンスタンスともかちあった。これは単に偶然であろう。
「コンスタンス」
エリザベートは一番無害そうな娘に声をかけた。
「なんでしょうか」
コンスタンスが体ごと首を傾げ、椅子に座った主人と視線をあわせる。
「先に帰って、床の衣類をすべて衣裳部屋に戻しておいて。……そう。あとでいいと言ったけれど、今やってきて。一人で」
衣類の転がっている部屋に戻れば、さもしさに心をやられそうだった。
食後しばらく、エリザベートは屋敷の庭で月明かりを頼りに時間を潰した。ぶきっちょのコンスタンスが衣服をすべて衣裳部屋に戻す間だ。読んでいたのは、いつかシャルル王子が好みだと言っていた誰かの本だった。
エリザベートはいくつかのフレーズを頭にいれ、それを頭の中で発音した。恐らく人生の短さについて語るその誰かの詩は、エリザベートの中では乱雑に並べられた一文字の集合体だった。それらが文字に込められんとした正しい表象を発揮するのは、エリザベートがこれを読む瞬間ではなく、ふとこれを思い出したときに違いはなかった。集中の効かないまま、エリザベートは本を読み続けた。
恐怖心は確かにある。
開き直ろうとしても、どうしても自分のすぐ裏のところに、それが染み込んだ空間が置いてある。
でも努力をして、シャルル王子の心を手に入れたい。本心から。愛を囁いてもらいたい。無償の愛に晒されていたい。彼が婚約者になってから、ずっと望み続けていることだ。
今度の対面では、見くびられたりしないよう本を読んでおく。その意味についても考えておく。嫌な空気を察したりしないように。
コンスタンスが呼びに来るまで、エリザベートはじっと庭で本を読み続けていた。以前の時間での失敗を糧に、今回はシャルル王子と結ばれるために。
しかし、そう意気込んでいたのもすぐ、シャルル王子から書簡が届く。
二日前。再びコンスタンスを衣服を吟味しているとき。屋敷の昔からいるメードがノックもほどほどにエリザベートの部屋に入り、シャルル王子からでございます、と言って彼女に手紙を手渡す。エリザベートはメード二人を出て行かせて、手紙を開く。
拝啓 エリザベート・デ・マルカイツ殿
本当に申し訳ないことに、公務が予定より忙しく、不測の事態もあって、今週に会うのは難しくなりそうだ。この埋め合わせはきっとする。だから待っていて欲しい。……会うことができないとしても、わたしたちの間が変わることはないと、わたしは考える。本当に済まない。エリザベート。
シャルル・フュルスト・ロマーニアン
「なにそれ」
エリザベートは自分でも気づかないうちに、ランプへ手を伸ばしていた。そして今度は床ではなく、窓に向かってそれが投げられたことで、またしても要らない心配をかける羽目になった。
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