第7話 英雄と天使〈東雲柊〉



 自分でも意外な程に思考がスッキリと整理されている。もやが晴れて、生まれ変わったような気分だ。

 視界がクリアになり、周囲の状況がよく見渡せる。さっきまでどれだけ周りが見えていなかったんだ。

 俺を警戒している様子のマジック・ゴブリン。血海に横たわる湊くんを目を見開き凝視する幼なじみ。


 身の内を焦がすような灼熱の怒りがある。

 今すぐに踵を返して一目散に逃げ出したい恐怖がある。

 何百もの命が失われ、無下にされた悲哀がある。


 それなのに何処か達観してこの現状を確認できているのは。


「自分自身が定まったから、かな……」


 進むべき、進みたい道が決まった。もう迷って、悩んで、結局何もかもが悪い方向に進むのはごめんだ。それがはっきり身に染みてわかった。もう同じ轍は踏まない。誰にも、何も奪わせない。

 俺は英雄になる。自己顕示欲に塗れて、同情に突き動かされ、偽善だと強く自覚しながらも、俺はこれからも誰かを救うべく行動する。誰かのためじゃない、俺のためにだ。


「高杉、くん……うそ」


 幼なじみの七瀬小和が口元を両手で押さえ付けて、嗚咽と驚きを噛み殺している。ほんの少し前まで言葉を交わしていた人物が胴体を貫かれて亡くなったのだ。仕方の無い反応だろう。


「小和。怒りも悲しみも今は飲み込め。あの化け物は俺が倒す。そこで見ていろ」


「……うん。……うん」


 小和は2度、大きく首肯した。混乱しているだろう。逃げ出したいだろう。しかしそんな感情を捨て置き、俺に全てを委ねてくれているのだ。

 好きな子の期待には応えるべきだ。


「それにしても……」


 未だにこちらを警戒するマジック・ゴブリンを油断なく観察しながら、先程の不可解な現象を思い起こす。


 技能の発現、ね。


「……」


 ある種の確信を抱きつつ、自分の体を注視する。起こり得ないと俺の中の常識が否定するが、間違いなくそうなのだと俺の本能が言う。

 そうして生じた現実は、やはり俺の予想と違うものではなく。

 

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東雲柊しののめしゅう』(状態:魔力変質)


・魔魂量「15」

・技能「真の英雄」


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 脳内にあるはずのない記憶が羅列される。魔力変質も、魔魂量も、技能も何もかもが意味不明で、理解しようとすることすらはばかられる。

 しかし、そんな胸中ではあっても看過しえない相違がそこにはあった。


「……」


 まず、魔魂量とやらが増加している。確かさっきまで自分は「4」であったはず。それが4倍近い値である「15」まで。それが何を意味するのか俺にはさっぱりだが。


 次に目に止まるのがやはり、この箇所。


「……真の英雄か」


 並びだけを見ると笑ってしまいそうになるくらいちんけな言葉だ。小学生の遊戯までだろう、こんな言葉を発するのは。そう、小馬鹿にして、鼻で笑うはずだ。

 それなのにこの無視できない存在感は何なのだろうか。英雄なんていう幻想をさっき抱いてしまったからか。だから、タイミング良く現れたこの技能とやらが気になって仕方がないのか。


 いや違うな。

 分かる。分かってしまう。


 俺はもう戻れない。人間には戻れない。


「技能」が何で、俺の身に何が起きているのかも理解出来ていないが、もう後戻りができない状況に足を踏み入れているのだとはっきり自覚できる。

 俺は真の英雄なんて、そんな大層な人間じゃない。何処までも意地汚く、利己的で、自己中心的な独りよがりの押し付けがましい人助けを行うだけの、ただの凡夫だ。


 だから、せいぜい名前負けしないように精進するだけだ。


「かかってこい、マジック・ゴブリン」


 意思が固まって、好きな子のためにカッコつけて闘う男は強いぞ、化け物。


 俺は技能「真の英雄」を発動させる。


 使い方が事細やかに理解できる。いや、できている。生まれた瞬間に呼吸を始めるように。ある日幼子が二足歩行を突然修得するように。同様に技能を使うことができる。

 細胞の一つ一つが産声をあげ、相互に奮い立たせる。増大したエネルギーは、素早く迅速に俺の体を作り変える。静かな驚愕を携えて拳を握ると、全てが思い通りにいくと錯覚しそうな程の莫大な力を確かに実感した。


「……うっ」


 その時、透明な何者かに胸倉を強く引かれるような感覚で、胴体が無理やりに前方へと前進した。つられて、全身が独りでに動き出す。味わったことの無い未知の感覚。

 しかし俺は塵芥ほども焦ることはない。この力の正体は。


「……引力か」


 引力とは、質量を持つ2つのものが互いに引き合う力を指す。日常生活で言うと、空中で物体を放した時地面に落ちていく現象がわ

かりやすいだろう。あと単純に引き合う力を言うなら、磁石なんかがとても理解しやすいかもしれない。

 いずれにせよ、生物が丸腰で強力な引力を発生させるなど凡そ不可能に近い。


「……」


 それなのにあいつ、マジック・ゴブリンはそれを可能にしていると、そういう事だろう。あの手のひらをこちらに向ける動作を引き金に、引力は奴を指向している。どういう法則が働いてこんな芸当が出来ているのか分からないが、まさに魔法だな。


 マジック・ゴブリンの能力を考察すると同時に、何故これだけの数の人々が纏めて殺されていたのか、その疑問が解消された。あの能力を使い、逃げ惑う人々を一箇所に留めたのだろう。そして後は逃げられない弱者を蹂躙して終いというわけだ。


 マジック・ゴブリンは今も尚引き寄せられる俺をニヤニヤと眺めている。先程の湊くんのように、俺が至近距離に入れば貫手ぬきてで胴を貫いてそれでこの戦闘は終了だと鷹を括っているのだ。人間などという脆い生物はひとなですれば命を散らすのだと奢っているのだ。


「舐めるな」


 俺はその一言を呟くと共に、両足を地面に強く突き立てる。コンクリートの破砕音を響かせながら、足は深くめり込む。そのまま数メートルほどコンクリートの舗装を捲りながら進んだが、結果的に引力に抗い切る事ができ、前進が止まった。

 あーこれ人間やめてるわ。

 

「……ッ!?」


 そんな俺の化け物じみた真似にマジック・ゴブリンは驚きを顕にし、そのまま手のひらを何度もこちらに向き直し続ける。奴が手のひらを向ける度、俺の全身を引力が襲うが今更この程度の力どうということはない。


「なあマジック・ゴブリン。一見その敵を引き寄せる能力は強そうだが、致命的な弱点もあるんじゃないか?」


 足の指で地を掴みながら、問い掛ける。


「……?」


 俺の言葉自体理解出来ていないのか、それとも俺の問いの答えを出しかねているのか。真相は察せないが、どうやら奴は困惑しているようだ。どの程度の知能があるんだろうな、こいつらは。さっきのホブ・ゴブリンは一応受け答えはできていたように思うが。


「まあいいよ。じゃあ答え合わせだ」


 瞬間、俺は踏ん張ることをやめ、過度の前傾姿勢をとる。一拍遅れて強い力に引き寄せられる感覚がやってくるが、俺はそれに抵抗することなく身を任せる。そして左足に一瞬力を溜め、前方に勢いよく体を射出した。


 自身の体が消えたと錯覚するほどの速度。風になるとはこのことを言うのかもしれない。刹那に彼我の距離がゼロになる。

 奴が自らの元に俺を近づけようとするならば、その力を突貫の推進力に利用してしまえばいい。あいつの引力なんて、俺にしてみれば少し強いだけの追い風だ。


 あまりの速さにマジック・ゴブリンは驚愕という反応すら出来ずに、目の前に現れた俺を見やる。かく言う俺も、自分の圧倒的なパフォーマンスの制御は叶わず、拳を振り上げる事すら出来ずに敵の目を1点に見つめる。


 クロノスタシスという現象を知っているだろうか。眼球が高速運動した直後目に写した映像が、実際の時間より長く感じる現象のことだ。時計に目を移した時、秒針が止まっている時間が1秒よりも明らかに長く感じるのが、まさにクロノスタシスである。

 今のこの状況はそのクロノスタシスに似通っていた。この一瞬という時間が、何倍、何十倍にも引き伸ばされて知覚している。マジック・ゴブリンと俺は、互いに何のアクションも起こせないままこの一瞬を最大限経験している。

 ……いやクロノスタシスというよりかは、危険状態に見える景色がスローモーションになるというタキサイキア現象の方が近いか?まあどちらでもいい。


 表情筋を動かす暇すらないが、脳だけは超高速で稼働し続ける。俺の脳は今、マジック・ゴブリンに殺された人々についての弔意で溢れていた。血に沈んでいた人々の顔は確認していない。していないが、若しかしたら俺や小和の知り合いがいたかもしれない。それに、目の前で助けられなかった湊くん。犠牲者らの無念の遺志をくんでマジック・ゴブリンを倒すのではないが、俺の偽善で少しでも彼らの眠りが安らかになるなら儲けものだ。


 マジック・ゴブリンは今何を思っているのだろうか。この停滞した時の中では、その表情から何も伺うことが出来ない。これだけの屍を作り上げた悔恨の情を抱いている?今際いまわきわに走馬灯でも見ている?それとも現状を打破するために様々な策を講じようとしているのかもしれない。

 まあそれは考えても仕方ないこと。こいつは倒す。次の瞬間には倒している。

 義憤も、悲嘆も、嫌悪も、今の俺を突き動かす全ての感情も今はなりを潜めている。この何もかもが、時間から切り取られたようにただ在るだけだ。

 今俺を満たしているのは、決定的に現実の全部が失われ変化した事実に対する覚悟だけだ。


 さよならだ、マジック・ゴブリン。

 お前は俺の弱さを浮き彫りにした最後の敵で、俺の覚悟をぶつける最初の敵だった。


 その思考と共に、マジック・ゴブリンの胴体を俺の全身が突き破った。

 あまりの早業に胴が消失したのかと錯覚する。空中に投げ出された胸部から上の肉塊は、無表情の頭部を晒しながら地面に落下した。それは奇しくも湊くんが血に伏した時のような、濡れた雑巾を取り落とした時のようなべちゃっとした音だった。


 マジック・ゴブリンは絶命した。

 

「うげっ」

 

 格好よく花々しく着地という訳にはいかず、マジック・ゴブリンから10mほど後方に頭から不時着する。普通なら顔の皮がズリ剥け、大出血を引き起こすところなのだが今の俺にとってはさしたるダメージにはならないようだ。


「……おわった」


 四つん這いの姿勢で、コンクリートタイルの隙間に生えている苔を眺めながら呟きを落とす。ポタポタと額からマジック・ゴブリンの血液が滴り落ちている。まさか体当たりで勝負を決めるとは思わなかったが、ほんの少し前まで一般人であったことを考えればさもありなん。不格好な決着は致し方ない。


 ……いや寧ろ出来すぎだ。


 何百人もの人間を殺害した怪物を、キラさんの手も借りずに俺一人で退治したのだ。本来なら有り得るはずがない。それを可能にしたのはやはり。


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東雲柊しののめしゅう』(状態:魔力変質)


・魔魂量「16」

・技能「真の英雄」


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 真の英雄。この技能とやらがキーワードになるはずだ。それにこの魔魂量……。


「……ん?」


 魔魂量って「16」だったか?確か「15」と記載されていたはずだけど。見間違い?記憶違いか?いや、増えたのか?何故増えたんだ。時間経過か?


 いや、これは今考えることじゃないな。一旦保留だ。優先すべき事由が山程残っている。


 これからどうしようか。警察になんて事情説明すればいいんだ。大量殺人を犯した生物を俺が倒しました。魔法を使って来ましたが、真の英雄で対抗しましたってドヤ顔で供述すればいいのか?逆に逮捕されそうだけど大丈夫なのか?

 そもそも俺は普通ではなくなったわけだけど、見た目も変わってるのか?鏡がないから分からないんだけど、変になってたら嫌だなあ。

 

「……はあ」


 達成感と億劫さで感情が不安定ではあるが、万感を込めた溜息をつきながらゆっくりと立ち上がる。

 とにかく。今はとにかくだ。


 好きな人にかっこつけときますか。


「小和!倒したぞー!!」


 雄叫びを張り上げながら、幼なじみの小和の元へと駆ける。

 俺が覚悟を固められたのも、なけなしの勇気を絞り出せたのも、全部全部君が後ろで俺を見ていたからだ。ありがとう。

 言葉には決して出さない。小和にそんな荷を背負わせるようなことは言ってはいけない。すべて、俺が、俺の中で一方的に完結した事だ。それに彼女を巻き込むべきじゃない。


 マジック・ゴブリンの死体を超え、小和の付近まで辿り着いた。

 さぞかし喜んでくれることだろう。さっきまで恐怖のどん底にいただろうから。もう大丈夫。そう笑顔で言ってやるんだ。でも決して君の為に頑張ったわけじゃないぜ。俺がしたいから、そうしたんだ。


 そんな下らない楽観を抱きつつ、喜色に染まっているであろう小和の顔を見た。


「……ぁ。うそ……」


 しかしそんな予想には反して、小和が浮かべていたのは絶望に染まった生気が抜け落ちたような表情だった。


「こ、より?」


 限界まで見開かれた彼女の目は、明らかに俺の背後へとその視線を伸ばしている。つまり原因は俺ではないということだ。


「まさか、まだマジック・ゴブリンが!?」


 その可能性に思い至り、すぐさまマジック・ゴブリンの死体を確認する。しかし、そこにはなおも変わらず奴の肉塊が転がっていた。まだ息をしていたのかという懸念は杞憂だったようだ。その事実に安堵するが、ここで新たな謎がでてくる。


 じゃあ小和は一体何を見て……。


「こ、と。……こと」


 小和はよろめきながらも立ち上がり、ゾンビのような足取りでゆっくりと動き出した。肩を少し押してやれば、力なく倒れるだろうと思われる程の弱々しい歩みだ。


 こと?ことって言ったか?


「……ことことこと!!!!」


 小和はこの言葉を何度も繰り返しながら歩を進め続け、最後には絶叫と共に一目散に走り出した。


「お、おい落ち着けって。琴がどうした?」


「琴!!」


 進行方向に立ち塞がり、彼女を鎮めようと試みた俺だったが、勢いよく押しのけられてしまう。普段の小和と、今の鬼気迫る様子の姿がマッチしない。その印象の差異に僅かに気後れしてしまった。


「何が……」


 狂乱と言えるほど落ち着きを失った小和に焦燥を覚えると同時に、それ程までに懸命になってしまう原因が気になり、彼女が向かう先へ意識を向ける。


 するとそこには、見知った顔があった。大学に入学してからというもの、毎日顔を見合わせた仲だ。


「……琴」


 七海琴ななみこと

 彼女は、俺と小和の友人だ。小和と同じ医学部であり、親友と呼べるような間柄だった。七瀬小和ななせこより七海琴ななみこと。苗字が似てる、なんていう些細な理由から仲良くなったのだと聞いている。

 少し明るめに染め上げられた茶色の髪を胸元まで伸ばし、四六時中人懐っこい笑みを方々に振り撒いていた。口癖は「もう、しょうがないなあ」。お人好しで、誰の頼みも断れずに結局自分が損をしてしまうような、そんな心優しい少女だ。何度世話になったか分からない。


 その彼女と共に、今朝も俺と小和は講義を受けに大学ホールへと赴いた。そんな折に、ホブ・ゴブリンが現れ、琴は俺達よりも先に脱出したはずだ。スマホが使えないから無事は確かめられないまでも、何処か安全圏に避難してくれていれば良いとそう願っていた。


「……お」


 そんな琴にたった今再会できた。


「……おえぇえ」


 俺は迫り上がる吐き気に耐え切れず、びちゃびちゃと盛大に嘔吐する。胃酸の刺激臭が鼻を通り抜けた。今朝は寝坊してしまい朝ご飯が食べられなかったため、口から吐き出すのは胃液だけだ。それでも、何かを必死に対外へ排出しようと俺の胃は波打つ。何も無いのに、何かを。


 七海琴は、肉と血の湖に沈んでいた。


 マジック・ゴブリンの毒牙に掛けられた何百人もの犠牲者。その亡骸で構成された、キャンパス中央通路に広がる死の湖。俺たちの友人は、その湖の一端を担っていた。


 目に光がない。顔が白い。口からダラりと舌が垂れている。物にしか見えない。人じゃない。生きてない。物にしか見えない。物。物。もの。もの。もの。


「ぶぉええ」


 嘔吐が止まらない。止められない。


 この何百もの死体を目の当たりにした時も、死体を蹴り、踏み潰した時も、湊くんの死を目前に捉えた時も、吐き気は湧かなかったし、こうまで壊れなかった。

 自らのドブのような価値観に、反吐が出る。俺という人間は結局どこまでいっても、自分にあまり関係の無い人間の死に対して心から本気で向き合えないのだ。性格が腐り切っている。見込みがない。救えない。

 琴という、2年来の友人。見てきた、会ってきた。生きていて、動いていて、人間だった。その彼女が血溜まりに伏しているのを見ただけで、俺はこんなにも耐えられない。よく知った人が物に変わるのが、耐え切れない。

 

「琴!琴!大丈夫!?」


 小和の叫び声が鼓膜に響いた。

 彼女は自分の足が他者の血塗れになる事も厭わず親友の傍に屈み込む。肩を揺らしながら必死に声を掛け続けているようだ。


しゅう!!!い、急いで救急車を!それから警察にも電話!」


 小和が、背後で立ち竦む俺に激を飛ばす。その一言を聞き、俺は甚大な吐き気を飲み込み、無理矢理押さえつけた。


「……ぃや。スマホは使えないって」


「ッ!!じゃあ何処かで電話借りてきて!あとついでにAEDも持ってきて!」


 この逼迫した状況で落ち着き払っている俺が心底気に食わないのか、怒気を多分に含ませ、指示してくる。琴を救おうと、足掻いているのだ。


「……小和」


「琴!琴!まずい……先ずは胸骨圧迫」


 しかし俺はそんな指示には従わずにのそのそと小和の元へ向かう。ゲロが口端から流れているが関係ない。


「いや、先に気道確保……!!止血もしないとダメ」


「……小和、やめろ」


 膨大な脂汗を額に滲ませ、救命措置を行っている。医学部なだけあって、こういう状況を想定した勉強でもこなしていたのだろうか?いやこんな惨状が予想できるわけがないか。


「出血箇所はどこ……!?直接圧迫で止血出来て……!!!お願い!!」


「小和」


 俺は小和の肩に手を置く。それだけで彼女が尋常ではない量の汗をかいていることが分かってしまった。服がベッタリと肌に貼り付いている。


「離してッ!!柊、ネクタイとかハンカチ持ってない!?止血帯の代わりに何とか……」


 血走った目で手が強く弾かれてしまう。どうやら救命は難航しているようだ。まあそれも当たり前の話。救命という前提がそもそも間違っているのだ。


「小和!!」


「ちょっと……!やめて、離して!早くしないと琴が!!」


 そんな小和の両肩を両手で強く握り締め、強引にこちら側を向かせる。激しい抵抗を受けるが、男と女、ましてや今の俺と彼女との力の差は歴然。微動だにできず、小和は殺意とまで感じられる目付きで俺を睨みつけることしかできない。

 だから、俺ははっきりと告げる。

 

「もうやめろ!!」


「……ッ」


 下半身……いや腹部から下を全て失い、上半身だけとなった琴を一瞥する。彼女は、もう救命などという段階にはとうにない。


「間に合わない!間に合うはずもない!琴はもう……死んでるんだ」


「……」


 込み上げる嘔気を根性で全て飲み込む。眼前に好きな人がいなければ、逃げ出して、投げ出して、号泣して、嘔吐している。好きな人をこのままにしてはいけないと分かっているからこその成せた業だ。

 親友だった小和ほどじゃないかもしれないけど、俺だって、辛いんだ。


「……」


 俺が両手から力を抜くと、支えを失った小和は糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。放心状態とはこれを言うのだろう。正に心を放しているようだ。ほんの1時間前までは談笑していた生命が、鼓動を消し、世界から存在を失った。それが彼女の中でどれ程の意味を持つのかなんて、考えることすら憚る。

 親友を失った現実と、その現実を受け止めなければならない現実は、優しい彼女にとって余りにも重すぎる。勿論俺にとっても。


 とまらない、とまらない。吐気がとまらない。


 何を、すればいいんだろうか。泣き叫べばいいのか。怒り狂えばいいのか。幼なじみを励ませばいいのか。全部投げ出して諦めればいいのか。


 琴以外のみんなは無事なんだろうか。この地獄絵図に他の友人も描き連ねられているかもしれない。そう思索しただけで、冷や汗が噴き出し、鼓動が1度大きく鳴ってしまう。


 悪い夢なのかもしれない。ホブ・ゴブリンもマジック・ゴブリンも実在しなくて、湊くんも琴も現実世界で元気に過ごしているのかもしれない。


 そう考えたい。そう考えるべきだ。そうじゃないとおかしい。おかしいところだらけだ。有り得ない。あってはならない。そうだ、間違いない。全てが間違いだ。悪夢だ。まやかしだ。だめだ、だめだ、だめだ。だめ、なんだ。


 眼球が小刻みに震え、気が遠くなるのを強く自認しつつ、現実逃避に勤しむ。

 そんな俺の意識を引き裂いたのは、小和の一言だった。


「……勉強、頑張ったのに」


 ……。


「……うん?」


 今似つかわしくない発言に思わず眉をひそめてしまう。

 自身の精神が危険域に達しようとしていた事は自覚している。ある種、小和が意識に干渉してくれたおかげで助けられたと言える。少しだけ、平静に持ち直せた。


「お勉強、頑張ったのに」


 今度は一言一句はっきりと聞き取れた。そして困惑した。何故今勉強?もしかしてどこかおかしくなってしまったのだろうか。自分の事は棚に上げ、小和の精神状態が心配になり、不安と憂慮で顔を覗き込んでみる。すると、彼女は独りでに呟き始めた。


「……もう何もかも、嫌だったから。何千時間もお勉強して、医学部に入ったのに」


「……一体なんの」


「わだしは!!」


 一体何の話をしているのだろうという疑問を口に出せないまま、突如声を張り上げた小和の剣幕に尻込みしてしまう。今まで何年も共に過ごしてきて、こんな彼女を俺は見た事がない。


「だれも!ずぐえない……」


「……!おい」


 嗚咽を噛み殺しながら俺を見上げる姿に目を覆いたくなっていると、地面をつく彼女の手が視界に入り、思わずその腕を掴み上げてしまった。


 彼女の爪は大部分が剥がれ、爪半月付近の甘皮の肉の繊維でかろうじてブラブラ垂れ下がっている状態だった。僅かに手首を振るうだけで、肉の繊維は千切れ、爪は落下してしまうだろう。五指とも似たような状況だ。爪の内部にある皮下組織は新鮮な赤い果物のようで、果汁のような鮮血が流れ落ちている。鉄の臭いが鼻を突く。

 目を背けたくなる痛ましい有様だ。


 先程の俺との掛け合いの中、コンクリートで舗装された地面を力いっぱい引っ掻いていたのかもしれない。握り締めようとしていたのかもしれない。

 どちらにせよ、小和が自傷気味に生じさせた痛みであることは明白だった。


「何で……」


 何故こんな真似を。白い陶器のように綺麗だった肌に望まない血の装飾が施されている。指先から肘に掛けて流れ落ちる血は、血脈が浮き彫りになっているかのようだ。


「離して」


「いや、それは」


「離せ!!」


「……小和」


 金切り声をあげ、小和が腕を振り払う。その拍子にちぎれ飛んだピンク色のネイルが塗られた爪が、血溜まりに落水した。


「……」


 なんと声をかけて良いのか。幾度となく言葉を紡ぎだそうとするも、その度に詰まってしまう。最適解は一体どこにある。今聞こえるのは小和の荒い息遣いだけだ。 

 早くその指の応急処置をすべきだ。学生センターで電話を借りて、救急車とあと警察を呼ぼう。大丈夫、爪はまた生えてくる。水泡のように浮かんでは消える、見当違いの言葉たち。

 軽々しく接するべきではない。今の小和からは、過剰な繊細さを感じる。手順をひとつ踏み間違えてしまうと、取り返しがつかない事態に陥る気がする。そんな確信じみた予感が俺の行動を抑制していた。


「……ね、しゅう。助けてくれて、ありがとう」


 俺が二の足を踏み続けていると、小和はこの距離であっても聞こえるか聞こえないかという程度の声量でそう零した。

 彼女の、この態度が乱高下する不安定さはかなり危険だ。慎重に、受け答えを。慎重に。


「……俺がそうしたかったから、そうしたんだ。礼は言わなくていい」


「柊も高杉くんも、どうしてあんな風に立ち向かえるの?」


「それは」


「どうして、2人は強いの?」


 俺の答えには大した反応は見せず、着々と疑問を投げ掛け続けられる。大量の屍の中心で、俺と小和は問答を続ける。これ以上なく異常で、異端で、可笑しい。1秒でも早く警察と救急車を呼んで、生存者がいないか確認すべきだ。それが正しくて、多分キラさんがいう正義だ。

 だと言うのに、俺たちはその行動をなぞれない。とっくに俺も小和も、狂っているのかもしれない。


 或いは、警察と救急車を呼ぶ、その行為が誤っているのだと心のどこかで断定しているからか。


「……強くはない。ただ必死だっただけだ」


「……」


 その回答を最後に、小和はゆっくりと項垂れた。これで疑問は氷解し、終わりなのだとそう述べているように。


「そうしたかったから?ただ必死だったから?だから、2人はあんなにすごかったの?」


「……そうだ」


 そう答え、頭を上げた小和の目を見た瞬間、その答えが決定的に間違っていたことを悟った。これはしてはいけない返しだ。今この場で最も損なったものだ。

 そんな俺の内心の焦慮に気付かないまま、小和は言葉を絞り出す。


「私は、怖かったよ。死ぬかと思って、これまでの頑張りが無駄になるかと思って、誰かなんとかしてって思って、うずくまってたよ」


「それは仕方ないんだ!」


「そうしたいって思えなかった。少しも必死になれなかった」


「だからそれは……!」


「ね、柊」


 このまま事が進むのは、マズイ。そう直観的に判断し、懸命に軌道修正を試みるも焼け石に水。俺が何を伝えようと、何を訴えかけようと、彼女の中ではもう決まっているのだ。


「高杉くん……キラさんと、それと柊の2人が化け物に対峙して、戦ってくれてた時、私が何を思ってたか分かる?」


「……」


「『ああ、よかった』って、そう思って、安堵してたんだよ。ラッキーだって。私が戦うことにはならないみたいだって」


「……」


 涙が決壊したように溢れだしながら、小和はかつての胸中を吐露する。それは独りよがりで、周囲の人間を慮る彼女のイメージとは確かに少しズレたものだと、そう思う。


「2人が命を危険に晒じながら頑張ってたのに、私は心配よりも安心が勝っでだんだよ。そのぐせに……高杉くんと琴には涙を流じてさ」


 しかしそれは決して、誰にも責められないはずだ。誰だって矢面には立ちたくない。それはみんな持ってる、持っていい感情だ。


「ざっきから柊には八つ当たりじで……」


 それを自虐できるということは、少なくとも俺のように最低な人間では絶対ないと思う。それでも七瀬小和ななせこよりという人間は、拒絶する。彼女の為人ひととなりはそういうようにできている。


「ごんな、弱虫のわだじがいきのこって、優じかっだ2人がしんじゃうなんて……2人に合わせる顔がないよ……」


 俺が今ここで軽い慰めの言を与えたとしても、それはゴミ程の価値も持たない。寧ろより悪化してしまうだろう。

 拭っても拭っても止まらない涙を尚も拭い続ける姿は、親に叱られた子供のように思えた。ほんの僅かでも彼女から意識を逸らせば、次の瞬間にはその存在は泡沫のように消えてしまっているのではないかと考えてしまうほどの脆弱な雰囲気。


「柊、わだし……本当に最低で、惨めだ」


「……ッ」


 歯痒さのあまり、奥歯が軋むくらいに悔しさを噛み潰す。四肢も胴体も、全身が無力感に支配される。

 自分のわがままを突き通す覚悟を決めて、「真の英雄」で肉体的な強靭さを手に入れたとしても、俺はこんなにも非力だ。足りない、足りない、全部全部足りない。


 小和のために、何が出来るだろう。


 2人に顔向けできるようにこれからの人生を充実したものにしよう。

 今回の経験を糧に、より一層勉学に力を入れて、良い医者になろう。

 大丈夫俺がついてるよ。力を合わせてこの試練を乗り越えよう。

 琴も湊くんも、そんな小和の姿を望んでいるわけじゃないよ。さあ顔を上げよう。

 死者を弔えるのは俺たち生者だけなんだ。だからこそ明るくこれからも生きなきゃ。

 人はいずれ死ぬ。それは避けられないんだ。俺たちは2人を想いながら人生を送ろう。それが唯一の出来ることなんだ。


 薄い。思索にふければふけるほど、その案に不快にさせられる。こんな使い古された定型文で、どこの誰がもう一度立ち上がれる?俺が口からでまかせで偽りの助言をしたところで、何も変わらない。

 そもそも今小和に必要なのは、外からの言葉なんかじゃない。自分で、内から、芯から打破すべきで、それでしか彼女は自分を鎮められない。


 そう、今不可欠なのは、確固たる実体験。自分は安全地帯でのうのうと過ごしていたにも関わらず、2人の友人を救えなかった。その過ちを拭い取れるような、強烈な経験。例えば、誰かの命を自身の手で救うような。

 小和にチャンスをください。膝をつき自己嫌悪を背負っている彼女が、もう一度立ち、慈しみを振り撒けるように。俺も小和も決してできた人間ではないのかもしれない。それでもお願いします。

 俺だけでは、彼女を救えない。


 どうか。不完全な俺達を。


 どうか。



「……げほ」



 その時、背後から小さな小さな蚊の鳴くような咽び声が微かに、確かに聞こえた。

 それは隣りで打ちのめされている小和のものでも、ましてや俺本人のものでもない。


 俺たちではない第三者の存在。かといってそれはマジック・ゴブリンではない。明らかに人間が喉から発した、むせたような、咳き込んだような、そんな音だった。

 然して、その音は俺たちにとって希望と同義だ。生存者など間違いなくいないと直観的に判断していたというのに何故、という疑問が顔を出すものの、それは無視すべき感情。


 素早く振り返り、音源を確認する。眼球が動き回り視界の端々を探る。視線に意識を同調させ、ピントを合わせるそのコンマ1秒にも満たない作業すらも今はもどかしい。


「……ごぼ」


 位置は、マジック・ゴブリンの死体、そのすぐ傍だった。

 大量の血液に浸り、赤黒く着色されながらも命の鼓動が紛れもなく感じられる。生きようともがき苦しみ、もがいている。


「……バカな」


 しかし、それは有り得ないはずだった。


 死んだはずだった。即死だった。


 胴体に風穴を開けられていたのだ。位置的に肝臓と胃の致命的な損傷は避けられない。もしかしたら腎臓も。

 出血量は1リットルや2リットルではきかないはず。奇跡とか、運とか、そういった類いの力でどうこうなる状態じゃなかった。

 死んでたんだ。確実に。絶対に。


 だから俺は彼を救えなかったと諦めて、死ぬ間際の顔が脳裏に深く焼き刻まれて、もう同じ軌跡は辿らないと誓って。それで。

 

 でもそれは間違っていたのか?


 もしそうなら、まだ間に合うのか?できることがあるのか?こんな俺にも?

 だったら、俺はこのちっぽけな命を賭けてでも君を救う。救わなければならない。全てなげうって、必ず。


「湊く……」


「高杉くんッ!!!」


 彼の名前を叫び助けてみせると駆け寄ろうとした時、俺の決意は、別の固い決意に上塗られた。それは俺の決心が脆いというよりも、寧ろ件の別の決心があまりにも強すぎるように思えた。ほんの一瞬だけ、柔肌がぴりぴりとひりつく程の空気の鋭さを感じた。


「わだしが!」


「小和!?」


 強い決意の持ち主である、落ち込んでいたはずの小和は悲鳴のような声をあげながら、血と肉を掻き分けて進み行く。つまずき、手をつきながらも前へ。血と臓物が絡み付いた自分のその姿を意に介さない。


「……湊くん!」


 少しだけ呆気に取られてしまったものの、すぐさま行動を再始する。

 彼、高杉湊くんとは非常に浅い付き合いであると言わざるを得ない。今日初めてお互いを認知しあった間柄。そうであっても、彼すなわちキラさんには畏敬に相当する気概が、彼本人にはマジック・ゴブリンから救い出せなかった負い目が、それぞれある。


 濃厚で、生涯忘れがたい関係だ。


 だから、助ける。俺の理由なんてその程度だ。その程度・・・・に一心不乱になるのが俺のやりたいことで、やるべきことなんだ。


「高杉くん……湊くん、私が助ける」


「……」


 俺が湊くんの傍に着いた時、小和は既に治療を開始していた。しかし、彼の容態は芳しくないと言える。それもそのはず、普通ならとうに死んでいるはずの重傷だ。普通なら。

 思い起こされるのは、キラさんの超越した力。彼女のあの奮闘を思えば、同一人物である湊くんのこの異常な生命力の説明の一端にはなるだろう。


 ……だけど。


「湊くん……ごめんなさい。私最低でごめんなさい。助ける、絶対に助ける」


 止血を試みる小和を尻目に、こう正直に思ってしまう。


 厳しいだろう、と。


「あなたは死なせない……!神様でも仏様でも悪魔でもいい、助けてください」


 傷があまりにも深すぎる。臓器へのダメージも計り知れない。これは生命力云々という問題ではない気がする。生命を維持するための、血液、臓器、それらが大きく失われているのだ。命がそこに有り続けるための、前提を欠く。前提が不完全なら、結果は自ずと導き出される。


「……諦めるもんか。生きるべきだよ……!湊くんは生きなくちゃだめ」


 ……だが、俺は誓った。無力で何もかも足りず、腐った人格で形成された俺でも、誓うことはできる。その誓いを成就させるかどうかは、俺次第だ。


 だから、足掻く。尽きるまで。


「小和、俺に何か出来ることは……」


「死なせない死なせない死なせない。私が。私しかいないんだ。こんな私でもできること。自分以外の全部を掬い取ること……!できる、できる!」


「……」


 集中しすぎているせいか、俺の言葉には微塵も反応を見せない。見ている俺が固唾を飲んでしまう程、鋭利で真っ直ぐな想い。そうだ、彼女は生来こうだった。俺が描いていた通りの姿だ。


「ぜんぶ、ぜんぶ、今ここに……。湊くん、キラちゃん……!助ける!助ける!助ける!」


「……」


 俺がやるべき事は、ここにはないようだ。


 となれば、救急車か。スマホが使えないのがこうまで後を引くとは。そこの学生センターで固定電話を借りよう。湊くんは、到着には間に合わないかもしれない。それでも、呼ばないという選択肢は取れるはずもない。


 そうと決まれば、迅速に。今は1秒ですら勿体ない。


「小和、俺は救急車を呼ぶ。電話を借りてく……」


 今の状態の小和に話し掛けても仕方がないとは思うものの、念の為動向を伝えておこうと向き直る。

 しかし伝えたい内容を最後まで言い切ることは叶わなかった。それはある光景を目前に捉えてしまったから。数秒前まではなかった変化。想定できるはずもない変化。目を疑ってしまうような衝撃。


「湊くん……キラちゃん……!」


「……小和?」


 小和は湊くんに涙声で呼び掛けを行っている。どこがひとつでも歯車が噛み合わなければ望む結末には至れない、切羽詰まった状況において、俺が湊くんとは別のものに意識を割かれているのには事情がある。


 どういう道理か、彼女の体は淡く発光していた。限りなく薄い雲に巻かれたように、細かい線がボヤけて見える。

 これが気のせいや目の錯覚だと思えないのは、その白光が耽美で、魅惑的で、幻視だとは到底考えられなかったからだ。


 そんな光を纏う彼女は、気付いているのかいないのか、気に留める素振りは見せない。

 ただ急迫している今はそんなことは些事だと切り捨てているのかもしれない。


 それでも俺はこの事態を見て見ぬふりはできない。

 なぜなら俺はこれを知っているから。既知通りの様子ではないし、性質も、状況も何もかも異なる。ところが俺はこの小和の特異な状態が何か知っている。分かっているのだ。それはこの知識でしか説明できないという消極的な理由ではなく、絶対にこれだという積極的な確信である。


 間違いなく「真の英雄」と同系統の何か。キラさんからも今の小和と似た、押し潰されそうな圧力を感じた。俺がそのプレッシャーを発していたかどうかは定かではないが。


 唇を引き結び、眉尻をあげる。


「小和、その光は」


 俺が口を開いた途端、突如一際大きく小和の光が輝く。目がくらみそうな程で、今視線を切ってしまえば彼女を見失ってしまうだろう。太陽に準ずる星と見紛う莫大な光だ。


 そして。


「……おいおい」


 目を細めている俺の狭窄な視野いっぱいに映し出されたのは、巨大な三対六枚の翼だった。一対は頭部を守るように天に掲げられ、一対は胴体を隠すように包み込み、一対は飛翔するように大きく広げられている。その六枚の翼は、まるで白い炎のように揺らぎ、圧倒的な存在感を放っていた。


 その翼を背から顕現させているのは、俺がよく知る幼なじみである小和だった。


 風雅で、甘美で、この1枚だけ世界から切り取られたように、絵画のような非現実は圧巻だ。それなのに何故か筆舌に尽くし難い郷愁きょうしゅうを感じる。デジャブなどというものではない。俺という存在がこの大きな翼に対して物懐かしさを抱いている。このグチャグチャな所感は、言語に絶する。


「湊くん……湊くん……」


 しかし当の小和は変わらぬ様子で救命に従事している。彼女自信が、自分の変化に気付かないわけがない。いくら集中していようとも、自らに大きな六枚の翼が生えた事実は消えない。

 彼女は、気付いていながら無視しているのだ。突然体が発光し、空飛ぶ翼を得たとしても、今自分がやるべき事は変わらない、と。


 その正気の沙汰ではない狂ったまでの覚悟に身震いせずにはいられない。俺の偽りの覚悟とはものが違うと、そういうのか。


 焦燥感と、非現実感と、懐古の念と、敗北感と、自責感で頭がおかしくなりそうだ。自分の存在がいかに無意味なのか、それを突きつけられているようで。

 ……だが俺は変わらないし、変われない。偽りで脆い、結構だ。俺がやりたいことを、例えそれが本物ではなかったとしても、やり切る。それがさっき果たした欲望の覚悟だろうが。


 強く握りこんだ拳で膝を叱咤する。いくぞ、弱腰野郎。自分の優柔不断に呆れ返りながらも、ようやくまた地が固まった。雨降って地固まるとは言うが、できるだけ雨は降って欲しくないものだ。


 さあ、紆余曲折あり目移りしてしまったが、湊くんを助けるために始動だ。

 そう俺が決意を新たにした時だった。


「……うぁ」


 爆発的な光が辺り一体を飲み込んだ。


 小和や翼の発光とは桁違いの尋常ではない光量。世界から色という概念が消失したのではないか、或いは世界そのものが崩れ去ってしまったのではないかと疑わずにはいられない。

 何か爆弾に巻き込まれてしまい、今、正に死の淵に立たされているのかもしれない。

 眼球に重大な傷を負い、失明に陥ってしまったのかもしれない。


 自分が立っているのか、倒れているのか。生きているのか、死んでいるのか。存在しているのか、いないのか。

 その判断すらも不可能で、答え合わせもまた叶わない。


 今俺のこの世界は、何も無かった。


 しかし不思議と嫌な気持ちにはならない。それどころか心地好い大きな存在に護られているような、絶大な安心を感じていた。


 





 


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七瀬小和ななせこより』(状態:魔力変質)


・魔魂量「14」

・技能「熾天使してんし・癒」


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