第8話 白い世界




「……」


 眠りから目が覚める時の感覚は、あまり得意ではない。微睡まどろむのが苦手なのだ。粘っこい眠気が、鉛のように重い瞼から中々剥がれ落ちない。


「……」


 何故か、今日は特に眠気が強い。双眸は開かれることを拒絶する。脳は神経の電気信号が伝達されていないのではないかと思うほどに機能しない。兎に角、眠い、眠い。


 ぼくはだれ、なんて惚けたことを言うつもりはないけど。……えっと、たか、高杉湊だ、うん。

 

 どうにも意識がはっきりしない。いつもの睡魔とは訳が違う、気がする。沼に引きずり込もうとする握力が段違いだ。気を抜けば間髪入れずに2度寝してしまうだろう。


 しかし2度寝だけはするわけにはいかない。なぜなら、朝起きたら必ず「スカイドラゴンテイル」のログインボーナスを受け取り、デイリークエストをこなさなければならないからだ。そして我が愛する主人公、キラ・フォートレスの愛くるしい姿と声を堪能しなければいけない。これは決定事項で、何人たりとも犯せない神聖な儀式なのだ。


「……う」


 だから起きよう。


 この気が狂いそうな眠気も、回らない脳みそも、俺にとっては取るに足らないこと。そう、この節々が軋む体も、起き上がろうとしてもまるで力が入らない腕も俺にとっては……え?


「……え、なに?」


 全然体に力入らないし、何なら全身の関節が凝り固まったように動かしづらくてスゴく怖いんだけど。なんというか、リハビリの時の感覚に少し似ている。昔、足首を捻挫した際に負傷部を数週間固定したことがある。期間を満了し、固定していた包帯やサポーターを外した時にちょうど今のような凝りを感じた。


「ぐ、ぬぬぬ」


 気力で起き上がろうとするも、穴のあいた風船から空気が抜けるように力が漏れ出ていく。どうやら根性どうこうでどうにかなるような問題ではないようだ。大変遺憾ではあるが、一旦スカイドラゴンテイルをプレイするのは諦めよう。一旦ね。


「それにしても……」


 ここはどこだろうか。


 体の異常への衝撃によって眠気は大半が吹き飛んでしまった。意識が明確になったのは良いものの、新たな疑問が生まれたのだ。

 ベッドに寝ていたのは分かる。それはいつも通りだ。ただ、辛うじて動く首を回し部屋を見渡してみても見覚えがない。俺の部屋ではないのだ。


 知らない天井だ、なんて言ってみる。


 俺がいる部屋は、内観が白色で統一されているように思う。棚も机も床も天井も。こういう場所は、病院または学校の保健室であるイメージが強い。

 それはいいんだけど、問題はじゃあなぜ俺がその医務室のような場所に寝ていたのかという点にある。

 

 寝る前の記憶が上手く思い起こせない。酔い潰れた後ってもしかしたらこんな感じなのだろうか。そんな大人にはなりたくないものだ。

 うーん、何か大きな事があったような。


『コンコンコン』


 思い出せそうで思い出せない歯痒い思いで唸っていると、部屋のドアがノックされた。


「はい」


 たとえ混乱していたとしても、ノックに対して返事が口をついてでてしまうのはなんとも悲しい性だ。生真面目で好ましいものと捉えられれば良いものだが。


「湊くん!目を覚ましたのか」


 軽快なドアの開放音と共に1人の青年が不躾に入室してくる。冷気が肌に感じられた。凛々しい顔立ちに温和な雰囲気が妙にマッチしている。その聴く者を安心させるような声色も含めて、美青年だと誰もがそう評するだろう。彼は俺の名前を呼びながら実に喜色に溢れた様相で近づいてきた。


 心臓が1度大きく鳴る。


「よかった……」


 彼の後ろで胸を撫で下ろす仕草をする女性は、肩に少しかかる程度の真っ黒な髪を揺らす。人形のように非の打ち所のないその顔は、嘸かし恋愛においては苦労してこなかったのだろうと嫌味を抱いてしまうくらいに整っている。


 じとりと、知らずに握っていた手の平から冷や汗が滲み出る。


「……あ」


 誰だったかな、などとほんの一瞬呑気に考えた時だった。



==============================


東雲柊しののめしゅう』(状態:魔力変質)


・魔魂量「22」

・技能「真の英雄」


==============================



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七瀬小和ななせこより』(状態:魔力変質)


・魔魂量「20」

・技能「熾天使・癒」


==============================



 その時、記憶が決壊した。


 堰を切ったように記憶の濁流が脳の奥底から溢れ出す。俺の許容を無視し、事前準備を与えず、満たし、満たし、ただの現象として、今、思い出し続けている。


 彼の勇姿、彼女の微笑み。


 視界が断続的に耀かがよう。


 ホブ・ゴブリン、マジック・ゴブリン。


 脳みそが雑に絞られているような想念がある。


 キラ・フォートレス。


 永遠に感じる時間の中で、俺の脳は過去の映像を大雑把に記憶に、意識に転写する。覚えている。全部、全部覚えている。

 そして映像の次は、感覚だ。何を思って、何を感じていたのか。記憶の想起がその段階に達した時、俺は盛大に嘔吐した。


「ぶぉえ」


 上半身だけを起こしていたため、自らの下半身、とりわけ大腿部に生温かいゲロを大量にかける。ただ、ゲロというよりかは体液と言った方がそのものに沿った表現かもしれない。固体はなく、液体のみで構成されているからだ。


「お、おい」


「湊くん!」


 そんな俺に目を丸くした様子の東雲君と七瀬さんが駆け寄ってくる。今年20の歳で、美男美女にあまり見せたくない惨状ではあるが……。


「大丈夫、大丈夫だよ」


 しかし布団にかけられたゲロなどお構い無しなのか、七瀬さんは慰め言葉を口にしながら俺の背中を擦ってくれる。なぜそうまで他人に優しく接するのだろう。

 しかし不思議と、数回擦ってもらっただけで急速に吐き気は引き出した。彼女のテクニックには目を見張るものがある。いや、それとも魅力ゆえか。


「……ぁ、ありがとう、ございます。すみません、嫌なことを思い出してしまいまして」


「……ううん」


 礼を述べると、七瀬さんは伏せ目がちにそう返す。その態度にどういった意味合いが込められているのか、俺には分からない。こんな弱い俺には。


 今だって、ホブ・ゴブリンに内臓を潰された文字通り死ぬ程の激痛と、マジック・ゴブリンに内臓を貫かれた時の喪失感を思い出しただけで、嘔吐してしまったのだ。

 なんと情けない。不安げに俺を見つめる2人に対して、だけど痛みは男の勲章だよと、そう笑顔で言ってやればそれだけで事態は全く違っていただろうに。

 

「……話は、湊くんの体調が戻った時にまた改めるか」


 まだ七瀬さんに介抱されている俺を見ながら、東雲君がそう提案してくれる。

 話、話か。そういえば俺は体験した過去を思い出したのはいいが、今現在の状況が毛ほども分かっていないな。あの後どうなったのか、ここがどこなのか。


「いや、俺は大丈夫です。どうかお話を聞かせてください」


「でも」


「お願いします」


 彼は俺を案じてくれるが、尚もこちらは食い下がる。どうしても今話が聞きたいのだ。

 消えないからだ。興味が、疑念が、不安が、恐怖が、孤独が。

 何より、無秩序に暴れ回る心を燃やし尽くすような熱烈な感情が。そう、これは憤怒だ。正体不明の怪物を身のうちに飼っているように思える。【正義】【悪】というキーワードがずっと、ずっとうごめいている。今誰かと話していないと、気が滅入りそうなのだ。


「……わかった」


 東雲君は数秒ほど逡巡した後、迷いながらも承諾してくれた。事の成り行きを静観していた七瀬さんも気遣わしげではあるが反対の意は示さない。


「ありがとうございます」


 俺の返答に、東雲君がすこし顔を顰める。妙な反応を疑問に思っていると、その答えはすぐに提示された。


「湊くん、敬語はなしにしよう。俺たちは同い年だからそれは不要だ。俺の事はしゅうと呼んでくれ」


 と、いうことらしい。

 まあ確かに敬語を嫌う人は一定数いるように思う。俺は特に気にしないが、相手がそういうなら従おう。


「うん、わかったよ、柊くん」


「私にも敬語はなしで!小和こよりって呼んでね」


「わかった小和ちゃん」


「うへへ」


 七瀬さん……小和ちゃんの提案に従って、そう呼び名を改変する。すると彼女は俺の呼名こめいに、ニマニマとした笑みで応じた。何がそんなに嬉しいのだろう。まあ俺が思い至らない何かが琴線に触れたのかもしれない。美少女を笑顔にするのは男の矜恃というもの。それに追求するのは無骨というものだからな、うん。


 そこまで考えた時に、はたと気付かされた。


 俺はこれほどスムーズに他者と交流できただろうか?ほとんど初対面の間柄、美男美女、呼び捨てまで?馬鹿な、有り得ない。

 そうだ、大学ホールで小和ちゃんに初めて話し掛けられた時も、及第点にすら達しない受け答えしかできなかっただろ。自分を卑下し、へりくだり、余人を持ち上げることでしかコミュニケーションを図れなかった俺がいきなり呼び捨て?


 おかしい、はずだ。


 しかし特に悪い兆しというわけではない。それどころか好ましい変化だ。問題はその原因が不明な点だな。

 即席で思い付くのは、最有力候補が、死の間際という壮絶な経験をして性格が変わってしまった説だ。というかなんで俺生きてんの?それも含めて柊に話を聞こう。

 それで次点がキラの影響だ。確かに俺はあの瞬間だけキラ・フォートレスと化していた。その時の感情に引き摺られている説。今も燻っているこの怒りも若しかしたらそれに起因しているかもしれない。

 

「湊くん?」


 押し黙り思考に耽ける俺を怪訝に思ったのか、小和ちゃんが顔を覗き込む。10センチほどの至近距離で顔を見つめるのは初めてだが本当に綺麗な顔付きをしている。長くしなやかな睫毛に縁取られた双眸は見る者を魅了するだろう。


「ううん、なんでもないよ」


「そう?」


「よし、じゃあ話の前に場所を移そう。その布団のままじゃ、ね」


 柊くんがぶち撒かれたゲロをちらりと横目で見る。確かにこの有様では話しどころではない。柊くんと小和ちゃんは口にこそ出さないものの、臭いの方もそれはそれは酷い。端的に言って、無茶苦茶申し訳ないし、穴があったら……いや穴がなくとも掘って隠れたいくらい恥ずかしい。


「……ごめん」


「大丈夫だよ〜」


 小和ちゃんは朗らかに相好を崩す。きっと心が清らかでなんの混じりっけも持ち合わせていないのだろうと、漠然とそう感じられた。



* * *



 時期は10月の前半。神無月とも呼ばれるこの10番目の月は、年間を通して最も過ごしやすいのではないだろうか。夏、冬は暑いし寒いしで議論の埒外だとして、春は花粉症である俺にとって非常に辛い季節だ。となればやはり秋。それも残暑ある9月でも、小寒の11月でもなく、10月と結論づけられる。日中は暖かく、明け方や夜は涼しく、人間にとって適した気候である。最も日本列島はとても長いため、俺が住むここ関東に限った話にはなるが。


 だからこそ、俺は今困惑を隠せない。


「え、コート着るの?」


 原因不明の変調で上手く体が動かせない俺は、柊くんの手を借り、ベッド脇にあった車椅子に座らせてもらっていた。聞いたところ、この体の不調理由には心当たりがあるそうなので、それもこの後まとめて聞く予定である。それはいい。


 問題はこの部屋からいざ出ると意気込んだ折に、柊くんが厚手のコートを手渡してきたことにある。ベージュ色のウール素材のもので、身につければさぞ暖かいだろうが……。


「さすがに暑くない?この部屋だって特段寒くは……」


「この部屋はある方法で気温を上げてるだけなんだ。外はすごく寒いから、着た方がいいよ」


「そ、そう?」


 ある方法って……素直に暖房と言えばいいのに何か引っかかる言い方だ。

柊くんがそういうならと、コートを受け取ろうとした時今は腕が持ち上がらない事に気がついた。苦心していると、小和ちゃんが澄まし顔でコートを取り上げ、甲斐甲斐しく俺に着させてくれた。


「あ、ありがとう」


「ううん」


 成人間際で、パジャマのボタンがかけられない子供が親に着せてもらうような気恥しさと、小和ちゃんの妙な馴れ馴れしさに判然としない感覚を味わいながらも、これで準備万端というわけだ。


「行こうか」


 柊くんと小和ちゃんもコートを羽織ったようで、その合図で扉が開かれる。すると、冷やされた風が入り込み俺の柔肌を撫でた。掠れた空気が鼻腔をつんざき、ツンとした刺激がほとばしる。


「さむっ!」


 外気は、10月のものとは程遠い寒威だった。12月や1月と同等の……いや、真冬でもこんなに寒くはないはず。異常気象か?


「コート着てよかっただろ?」


「……そうだね」


「よし、では出発だ」


 そう言い、柊くんは部屋から一歩踏み出す。彼に追従しなければ。車椅子は自分で動かすことができたはずだ。確かこの車輪を自分で回して……。


「さ、私達も行こう。湊くん」


「あっ」


 自走を試みようとした時、不意に意志とは無関係に車椅子が独りでに動き出した。いや、独りでではない。小和ちゃんがグリップを握り、俺が座る車椅子を押し始めたのだ。


「いや、俺が自分で」


「車椅子の自走は結構腕力が必要だよ?今の湊くんが動かせるかな?」


「……だとしても、もう迷惑は」


「私が押します」


「えっと」


「押します」


「……」


「押します」


 え、何この子すごく怖い。

 俺は件のゲロ後の介抱で彼女に対して引け目を感じていたため、これ以上負担をかけさせたくはなかったんだけど。小和ちゃんは、なにか物凄い圧力で反対意見を押し付けてくる。笑顔の物言わせぬ迫力に思わず言葉を失ってしまった。

 こんな性格の女の子だっただろうか。俺がキラの時の記憶を漁ってみても、陽気で接しやすくはあるが何処か一歩引いた感じでお淑やかな箱入り少女という印象が拭えない。ここまで自己主張が激しくなかったはず。……俺が意識を失っている間、彼女にも看過できない何かがあったのだろうか。あまり深掘りするべき話題じゃあないな。


「……じゃあお願い」


「任された」


 小和ちゃんは、ふんすと鼻息を吹き出し、意気揚々と車椅子を押し始めた。初めて乗るが、これはかなり楽だ。自走に拘ってはいたが、実の所かなりキツかったからな。素直に感謝するべきだ。


「じゃあ移動しながら話を始めようか」


 部屋を出ると、見知った通路が左右に伸びていた。右側に進路を決めると、俺の2mほど先を歩く柊くんが前を向いたまま口を開く。


「まず、今いる場所だけどここは俺たちの大学、白義はくぎ大学の保健センターだ。警察や病院は頼れなくてね。湊くんが意識を失ってから5日経ってる」


 5日も眠っていたのか。通りであのしつこい眠気なわけだ。体が動かせないのは、意識が覚醒しても肉体は5日間で固まってるからとか?うーん、だとしても違和感がある。結論は早計か。


「俺死んだと思ったんだけど、どうやって助かったの?病院は頼れないってさっき言ってたけど」


「それは……あー」


 俺の質問に柊くんは言い淀む。答えにくい問いをしてしまったかもしれない。病院を頼れない理由も聞きたいんだけど……。


「私が治したんだよ」


 すると、後頭部のすぐ上の辺りから澄んだ声が響き鼓膜を揺らした。首だけで振り返ってみると、その声の持ち主、小和ちゃんは真っ直ぐに俺の眼を見つめていた。


「小和ちゃんが?」


「……うん」


 それにしては、やけに気落ちした表情をしているものだと、そう思う。経緯は分からないが、仮にそれが真実なら彼女は俺にとって恩人ということになる。達成感や充足感で満ちていてもいいものの……。その表情は寧ろ罪悪感を彷彿とさせる。


「えっと、1人で?どうやって?」


 まあ表情云々の話は一旦捨て置くとして、これが不思議だ。俺は土手っ腹に大穴が空いていたはず。あれは誰がどう見ても手遅れ以外のなにものでもなかった。


「……熾天使の力で、だよ」


「し、てんし」


 してんし?


 予想外の返答に何も理解しないまま彼女の言葉をオウム返しにする。これは反芻している間に脳内で情報を整理しようという一種の時間稼ぎだ。


 熾天使?って、最高階級の天使の、あの?セラフィムとも呼ばれる、あの?その力で、俺を助けた?小和ちゃんが?そもそも小和ちゃんが助けたって聞いてたんだけど、熾天使?小和ちゃんが熾天使ってこと?確かに天使並に可愛くはあるかもしれない。ふむ。なるほどなるほど。


 つまり……。


「どういうこと?」


 これが時間稼ぎまでして出した俺の結論だった。意味が分からない。何を言っているのか理解できない。もしかして宗教的な話をしているのだろうか。小和ちゃんが熾天使にお祈りを捧げて、奇跡的に俺が息を吹き返したから、それで熾天使が力を授けてくれた等とのたまっているのかもしれない。そういう偶然の一致のことか?


「えっと……だから」


「湊くんの『キャラクターメイキング』、それと同じ力ってことだよ」


 どう説明したものかと慌てる小和ちゃんの言葉を切り、柊くんが代わりに答える。


『キャラクターメイキング』

 これは、気付けば俺に付随していた言葉だ。付随していた、というのも変な表現だが、例の知らないはずの知識を起こせる『鑑定』もどきで自分を見た時、いつの間にかその文言が存在したのだ。どういう原理で、何がきっかけでそうなったのか。

 とにもかくにも、俺はこのキャラクターメイキングとやらのせいで……おかげで『キラ・フォートレス』に変身したわけだけど……。

 

 そこまで思い至った時、 まだあれを試していない事に気が付いた。

 俺はすぐさま前後の2人に『鑑定』もどきを使用する。



==============================


東雲柊しののめしゅう』(状態:魔力変質)


・魔魂量「22」

・技能「真の英雄」


==============================




==============================


七瀬小和ななせこより』(状態:魔力変質)


・魔魂量「20」

・技能「熾天使・癒」


==============================


 

「『熾天使・癒』!?それに、『真の英雄』……?」


「"見た"んだね。……あんまり大きな声で音読しないでくれ。恥ずかしいから」


 音が反響する廊下で、白い息を吐きながら俺は声を張り上げる。柊くんが何やら文句を呟くが、今はそれも耳には入らない。


 これは、一体何だ?

 何が起きてる?


 この2人が技能なるものを習得している。俺だけの異変じゃなかった。よく考えれば当たり前だった。ホブ・ゴブリンにマジック・ゴブリン、キラ・フォートレス。俺だけのわけが無い。生まれてこの方これといって特別な要素を持ち合わせていなかった俺が、世界で唯一技能が発現するはずがなかった。みんな同様なのだ。

 世界が、おかしくなっている。

 

 滲む汗が冷たい空気に冷やされる。俺たちは保健センターの出口に差し掛かった。


「何が、どうなってるの?」


 少し見上げて、柊くんに答えを促す。彼らは、話すとそう言った。ならば知っているはずなのだ。俺が求める疑問符の応答を。聞かなくてはならない。


「……」


 俺の問いには答えずに、柊くんは無言で両開きの扉を開け放つ。瞬間、建物内とは別格の身を刺すような鋭い寒気が全身を襲った。眼球の粘膜を守るため、反射的に目を瞑る。言われるがままにコートを着ていて良かった。凍傷や凍死が想像に浮かぶような、危険な気温である事が直感でわかる。


「湊くん、ここは……この世界は、もう別物なんだ」


 俺は薄目を開けながら柊くんの言葉に傾聴する。外へと歩いて行く彼に置いて行かれないようにと、小和ちゃんは車椅子を進める。

話の先を聞きたいような、聞きたくないような、そんな葛藤を飲み込みながら。


「モンスターも出る。スキルも使える」


 冷気に気持ちが順応してきたため、恐る恐る瞼をあげる。人生で体験したことのない低気温に少しばかり臆しているのだ。そして開ける視界。そこに広がっていたのは。


「これは……」


 白銀の世界だった。


 図書館も、各学部棟も、食堂も、木も、草も、空も、地も、ただただ白かった。穢れを知らない真っ白な新雪が景色に厚化粧を施している。ちらちらと花吹雪のようにゆっくりとした速度で雪たちが散っている。

 白銀とはよく形容したもので、空から僅かに漏れ出ている鳥の子色の光が反射し、白い銀のように煌めていた。


 この世界から、白以外の全ての色が取り払われたのではないかと、そう疑った。


 これは明らかに10月の関東ではない。東北や北海道……または北国のそれに近い。異常気象だ。例年では関東の初雪は自体ひと月以上先のはず。それがここまで降り積もるなんて、有り得ない。


 そう考えて、柊くんへ視線を向けると、彼は俺を静かに見据えていた。


「湊くん、ここは、異世界だ」


 それは俺の知りたかった答えだった。


 だけど、よぎっていたのに、どうにか否定しようと頭を捻っていた、正にその答えでもある。空調が完備された部屋で、キラ・フォートレスを自在に操り、安全圏からモンスターを狩る時間は終わりを告げた。


 頭でもとち狂ったの?俺をバカにしてからかっているのか?


 そう返すのは容易い。実際にまだその線も捨てきれない。または、異世界ではなく、現実世界がただ異状に侵食された成れの果てが今の世界ではないのかと、そのパターンも考えられる。この2年通っている大学が確かにここに存在しているのに、異世界なんておかしい話だ。道理が合わない。


 それなのに、柊くんは『異世界』とそう断言したのだ。それならば、確信に足る何かがあるはず。恐らく、話はまだ終わっていないのだ。


 俺のその予想を肯定するように、寒威を含んだ風が一度吹く。舞いあげられた雪の粉々は、その矮小な身を空に掻き消す。どうにもその様相がちっぽけに思えてならなかった。


「……話聞かせてもらうよ」


「もちろん」


 柊くんの鼻先が冷えて、少し赤くなっている。なぜかそんな微細な変化に着目してしまっている自分の平静さに驚きつつ、話はまだ続く。

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