第3話 【正義】



 え?

 なに?


 ホブ……なんだこれ。


 俺が既存の知識に照らし、1つの答えを呟こうとした刹那、横からそれを切り裂くように別の未知の知識が表れる。

 それはゲームの画面のように文字が空中に写し出されるといった非現実的なものではなく、俺が元よりこの知識を持っていたかのように自然と脳内で思い浮かんだものだった。


「逃げろ逃げろ!」

「うわ、あいつこっち向かってきてるぞ」

「本当に臭いしキモいしなにあいつ!?」

「あんなの見たことな……え?ホブゴブリン? 魔魂? え?」

「どけどけどけ!」


 ゴブリン……いや、ホブ・ゴブリンの登場により場は騒然を極める。避難の先導を始める者や自分がどう行動すべきか判断出来ず狼狽える者、我先にと逃げ惑う者。ホール中が蜂の巣をつついた騒ぎになる。二つしかない出入口に人が一気に押し掛け人々は人間性の深層を露呈する。


「早く行けよデブ!」

「痛い!押さないでよ!」

「みんな、順番に……痛っ!? 誰だ今俺の足踏んだやつは!」

「はやくはやくはやく!! きてる! あいつが来てるからぁ!!」


 こういった緊急時こそ、人は真価を発揮するという。どれだけ信頼を置いていた恋人でも、いざ有事に陥った際に自分を見捨てた場合、その恋人を尚愛し続けられる人はそういないだろう。

 だがそれは、生物学的には自らの命を守るためという名目上正しい行動だ。ようは、生存本能に抗ってまで、愛する人を想えるかどうかという問題である。


 そういった観点から言って、この現状は何もおかしな点はない。他人も他人である隣人をいちいち思いやる方が馬鹿らしいのだ。蹴落として踏み潰して、自分がいち早く安全圏に到達することが最も大事なのである。


「お、おい俺達も早く逃げよう」

「だな。小和こよりちゃん行くよ!!」

「あ、うん!」

「本当に何なんだろうあいつ……。ん? ホブ……? なにこれ」

「こらこと! 何やってるの一緒にいくよ!」

「あ、ご、ごめんて小和! 引っ張らないで!」


 着々とこの場を後にする学生が増えていく。ホブ・ゴブリンに戦慄し硬直していた者は友人に叱咤され動きを再開させる。先の異音で気を失っていた者も友人に叩き起されたり、騒ぎで目を覚ましたりする。

 皆、あの怪物が人間でない、何か別の恐ろしい生物だと理解しているのだ。だから出来るだけあいつと距離を取りたいがために、怒号を上げながら逃げ惑う。


 しかしそんな周りのパニックなど差し置き、俺は疑問符に埋もれていた。逃げる足を動かすこと無く、この状況から脱出する術を探すことも無く。


「……」


 ホブ・ゴブリン?

 俺はあの怪物を知っていたのか?


 いやホブ・ゴブリン自体は勿論知っている。作品によってまちまちではあるが、大体はゴブリンの上位種や進化種に位置付けられているキャラクターだ。

 俺がプレイするスカイドラゴンテイルにも敵役に配置され、キラ・フォートレスとして何度も討伐した経験がある。


 それはいい。

 だが、あの姿に見覚えはない。それに魔魂量に、階位?俺が今までプレイしたどのゲームにもそんな設定はなかったはずだ。魔魂量5というのも、恐らくは戦闘力的な数字であり、階位も魔物ランクやモンスターランク的なものだとは予想できる。


 しかしそれだけだ。


 先程のように自然と頭に思い浮かぶわけがあるはずない。俺はあの怪物を知らないのだから。しかし、何故か


 意味が分からない。空間の裂け目といい、不可解な事変が起きすぎている。

 こめかみを指で抑え、顔をしかめる。


「……でも、最大の謎は」


 何故、ゴブリンが現実世界に存在している?


 ゴブリンは、ヨーロッパの伝承に登場する伝説上の生物だったはずだ。それを起源として、数々の物語に登場し、その名を世界中に広めている。俺もゲーム上で何度も目にした生物だ。当たり前のように、存在を知っている。

 あくまで、空想の世界で、の話だ。


 ゴブリンなど、俺達人間が住まう3次元の世界……いや、もしかしたら宇宙のどこかにはいるかもしれないから、地球としておくか。ゴブリンは、俺達が住む地球には、存在し得ない。


 もちろん地球にも未開拓な地は残されているだろうし、断言は時期尚早だ。一説によると、地球上に生息する生物種の内9割近くは未だに発見されていないという。人類が認知しているのは、全体の1割ほどだということになる。その未発見の種の中にゴブリンが含まれていたという、とんでも説を頭から否定するのは頭が固いかもしれない。


 しかし、だからといってあんな巨体の未発見の種が、大学キャンパスの中心に突如として現れるなど有り得ない。それを無理矢理理由付けするとしたら、あの裂け目は次元異常か何かで生じ、ワープホールのような役目を果たして、この世のどこかからホブ・ゴブリンを送り込んだという形になる。

 そんな事象が発生する確率など天文学的数字ですらなく、限りなく0に近い。


 分からない、分からないことだらけだ。悪い夢で済めば万事OKで終わる話だが、流石にそれは考えられない。明晰夢めいせきむと呼ばれる類の夢の場合、夢を見ていると自覚しつつ状況を自由にコントロール出来るというが、このリアルな五感が脳内の幻覚であるわけがない。

 

「くそ……」


 いくら思案を巡らせても、納得のいく答えは出ない。非現実的が過ぎる現状は、俺の乏しい知見では説明がつかない。強く歯噛みし、自らの無知を恥じる。


 その時だった。


「うっ……! おぇえええ!」


 一際濃く、件の悪臭が鼻をつく。排泄物に吐瀉物を混ぜ込んだ劇物を鼻の穴に直接捩じ込まれたようで、吐かずにはいられない。劇物と称したように、この臭いは最早毒物にも匹敵する。胃の中身をこれでもかと体外へ排出する。悪臭と、自らの胃液の酸っぱい臭いがマッチし、吐き気は更に加速する。

 思考に耽りすぎたようだ。点滅する視界の中、自分の愚行を幾ばくか反省する。


「お、おい!!! あんた早く逃げろ! 何やってんだ!」


 そんな俺が一通り吐き終えた瞬間だった。ある男の焦った声が聞こえた。息も絶え絶えで、胃を捻り上げられたような不快感を携えながらも、ふと顔を上げる。



「……あ」



 俺は、今程自分の馬鹿さに呆れ果てた瞬間はなかった。


 人々が逃げに徹する中、今考える必要のない仮説に思考を奪われ、逃げる機会を失った。逃げるチャンスはいくらでもあったのに、俺は一般人とは違うんだぞと言わんばかりに1人だけ奇をてらった行動を取った。

 何処までも間抜けで救いようがない、愚者そのもの。


 小難しい事を考えながらも、どこか今の状況を楽観視していた。こんな現実があるはずない、きっと大丈夫だ、と。ゲームをプレイしていたあまりに、ホブ・ゴブリンというキャラの登場に高揚していたのだ。口では怖いだのなんだの言っていた癖に、その本能を蔑ろにし、愚かな好奇心に身を任せてしまった。


 そのツケが、今回ってきた。


「……あ。……あ」


 すぐ目の前に立つは、2メートルを越す緑の巨漢。その威圧感は、先程の比ではなく明確な恐怖をもって俺の体を竦ませる。

 人は本物の恐慌状態に陥った時、逃げ出す選択肢も、悲鳴を上げる選択肢もとれない。喉に異物が詰まったように呼吸が困難になり、声も出せずに滑稽な音で空気だけが口から漏れる。


 巨漢……ホブ・ゴブリンは、俺を見て新しい玩具を見つけた子供のように口角を上げる。それは純粋な子供心にも思えるし、邪悪な嗜虐心の表れにも思えた。


 馬鹿な俺は、ホブ・ゴブリンのここまでの接近を許してしまった。彼我の距離は1メートル程だろう。これが、大衆に溢れた痴人の末路だ。


 NBA選手のような巨大な手が伸ばされ、俺の顔に影を差す。無骨で硬い皮膚に覆われたそれは、人間の頭など豆腐のように握り潰してしまうだろう。


 終わった。無理ゲーだろこれ。


 石像のように足を硬直させ、無限にも感じられる時の中、生を諦める。頭の悪い人間にはお似合いの死に際だと、胸の内で自嘲する。


 おい、こういう時って走馬灯とか見るんじゃないのか?俺の人生の名シーン達のフィルムを再生、とか。


 一説によると、走馬灯は、危機的状況を回避するための方法を、全ての記憶を動員し探す生理的な現象らしい。そんなイタチの最後っ屁紛いの抵抗もないということは、やっぱりもう何しても無駄って感じかな。


 諦観に満たされた目をホブ・ゴブリンに向ける。

 奴は、笑顔だった。楽しくて仕方がないと言いたげな様相。口端からは牙が光る。


 弱者を蹂躙するのが楽しみなんだろうな。俺のような脆弱な人間を欲望の限りを尽くしてグチャグチャにするのは、さぞ気分がいいものなんだろう。


 奴の手が、俺の頭をむんずと掴む。

 頭蓋骨が軋む異様な音が、脳に響く。万力にじわじわ挟み潰されるような逼迫した状態。あと、ものの数秒で、脳漿のうしょうをぶちまけながら俺の頭は爆ぜ、一つの屍が出来上がるだろう。


 あー。


 事ここに至って、目からとめどなく涙が溢れてきた。現状では無意義な温かみが頬を伝う。死が訪れるのが悲しいわけでも、悔しいわけでもない。ましてや、怖いわけでもない。


 ただただ、寂しかった。

 もう笑えず、泣けず、怒れず、人としての矜恃を失う事実が寂しい。

 もうすぐ命が尽き、人生という物語が途絶える未来が寂しい。

 誰の記憶も残さず、誰の記憶にも残されず、存在を消すのが寂しい。


 そして、俺の分身の『キラ・フォートレス』ならこんな痴態は晒さない。ゲームはどこまで行ってもゲームであり、膨大な時間と労力と資源を注ぎ込んだとしても、俺がどれだけ強くキラを自分の分身だと騙ろうと、キラはただのキャラクターで、現実の俺は幻想に陶酔するだけの気味が悪く、頭がおかしいオタク。

 何よりも、その非情な真実が、寂しい。

 


「……じにだく、ない」



 死ぬ覚悟など出来ていなかった。齢20年、飲酒が解禁されだけで舞い上がっている幼い精神で、そんな大それた意思を固めるなど不可能だ。


 号泣にさえ至らんとする涙。

 心の底から、死にたくないと願った。このせり上がる激情には、なんと名付ければ良いだろう。涙で滲む視界が今はどうしようもなく憎い。

 もう少しこの世界を見ていたかった。生まれ変われるなら、来世は正義感に溢れるヒーローになりたいな。


 そんなみっともない俺など眼中にないようで、頭部に加わる圧力が増す。いたぶるのは止めにして、とどめを刺す方針にシフトしたのだ。耐え難い激痛に襲われ、脳がひしゃげる予見がした。



 あ、しんだ。



 俺は次の瞬間、死に絶える。

 そう確信した刹那。

 



「うおおおおお!!」



「……ッ!」



 吹き飛ぶ光景。


 失われる平衡感覚。


 訪れる浮遊感。


 不意に体が後方に勢い良く引かれた。


 スローモーションのような感覚の中、ホブ・ゴブリンの唖然とした顔が目に入った。空中に手を投げ出した、何とも間抜けな姿だ。あれを見られただけで、少しは溜飲が下がるというもの。


「ぐえ!」


 一拍置いて、硬いリノリウムの床に背中を打ち付ける。空気が肺から一気に吐き出されたような衝撃でほんの一瞬呼吸が止まる。


「死にたいのかあんた! はぁはぁ……」


 若干の怒気と焦りが混じった声が浴びせられる。ビクリと体をこわばらせ、恐る恐るそちらを見ると、息を荒らげた茶髪の青年が俺を睨み付けていた。


「行こう! 逃げるぞ、早く立って!」


 青年は俺を叱咤しつつ、手を差し伸べる。

 

「……」


 そうか、俺は彼に救われたのか。多分服を引っ張って、ホブ・ゴブリンから引き剥がしてくれたのだろう。


 呆気なく命が散る間際だったというのに、途端に心にゆとりができる。嘘のように、孤独と恐怖の檻から逃げ出せた。死に瀕した経験がないため、窮地から救い出された経験も同時にないが、こうまで安心するものなのか。


「あ、ありがとう、ございます」


 何と勇猛果敢な人物だろうか。差し伸ばされた手は小刻みに震えており、彼が感じている恐怖は痛い程に伝わってくる。それなのに、彼は己を律して駆け付けてくれたのだ。


 なぜそうまでして赤の他人である俺に尽力できるのだろう。


 流れていた涙を拭いつつ、彼の手を取る。力強く、暖かなこの感触を俺は生涯忘れないだろう。月並みな言葉でいうと、勇気と希望を授けてくれる手だ。


「お礼は後で! いくぞ!」


 倒れ込んでいた俺を素早く立たせた青年は走り出す。彼の背中は大きく、逞しい。それはまるで、俺が『キラ・フォートレス』に見た、正義そのもの。【正義】を具現化した、【悪】を断罪するヒーロー。

 俺は、ずっとあの青年のように生きたかった。


 彼は、彼の名前は何と言うのだろう。


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東雲柊しののめしゅう』(状態:魔力変質)


・魔魂量「4」

・技能「未開放」


==============================


「……ッ!」


 また、知らない知識。面識は無いにも関わらず、至極当然のように海馬から彼の名前を引き出せる。それは氏名情報だけではなく、魔魂量や技能といった正体不明の単語も同時に想起される。

 ホブ・ゴブリンの件と言い、この不可思議現象は一体何なのか。

 熟考して、検証して、早く安心したい。


 だから、俺は今は生きる。今走り出す。

 何が起きているのかはさっぱり判らない。空間の裂け目も、『ホブ・ゴブリン』の存在も。

 何もかも、理解できる範囲を逸脱した超常現象たち。見たことも聞いたことも無いこれらは、明日のトップニュース間違いなしだ。当事者としてマスコミの取材の矢面に立たされる事を覚悟しなければいけないかもしれない。


 そんな低俗な思考に一瞬意識を奪われるも、すぐに切り捨て、足を前へ前へと出し続ける。命をすんでのところで拾った安堵感や疲労感で僅かに気が緩んでいるかもしれない。それはあまりにも軽率が過ぎる。

 俺はまだ助かっていない。後ろに迫っているはずのホブ・ゴブリンから逃げおおせるまでは。


 非日常に塗り潰された日常を再びこの手に掴み取るため。こんな無価値な俺を命懸けで救ってくれた青年……東雲君に報いるため。

 何よりも、これからは愛するキラ・フォートレスのような気丈な生き様で人生を生き抜くために。


「うああぁああ!」


 喉が張り裂けんばかりに雄叫びをあげる。肺が潰れてもいい。足が折れてもいい。己を奮起させ、兎に角足を、手を前へ。

 英雄の背中を眼前に、全速力以上の速度をもって追う。

 体が宙に浮いているように軽い。体などここ何年か動かしていなかったはずだが、恐らくアドレナリンが分泌され、本来持つ力以上のパフォーマンスを発揮しているのだろう。


 俺の身体、心が生きたいと叫んでいる証拠だ。


 生きたい。


 生きたい。


 俺はまだ、生きていられるんだ。

 今度こそ全力で魂を燃やすような生き方を。臨死体験を経たからこそ、見えてくる景色が、思想がある。そんな俺にしか出来ない事が世の中には絶対あるはずだ。


 だから、今は逃げる。

 俺、高杉たかすぎみなとの人生はこれから始まるんだ。萎え切った日々を是正し、張り詰めた生活に。これまでの自分を一新するんだ。きっと素晴らしい人生の第二章になる。


 そんな人生設計を繰り広げるも、限界以上の運動を行っているせいかかなり息苦しい。しかし筋肉を動かすには酸素が必要であるため、それは当たり前の現象。


 尚も足は空を切り、止まることは無い。


 東雲くんのすぐ後を追っていたはずだが、彼の背中は既に前方彼方に見える。俺も全身全霊で力を振り絞ってはいる。

 しかし、ここに来て身体スペックの差が露呈してきたということか。


 まるで俺だけが止まっているかのように、今この瞬間も彼との距離がぐんぐん開き続ける。


 悔しい。

 俺だって、こんなにも頑張っているというのに。


 重力を無視し、空を駆けるような体感。

 それでも周りの景色は変わらない。


 息苦しい。息がしづらい。酸素が欲しい。筋肉を最大限に稼働させるために必要な酸素が。

 


 息苦しい。

 苦しい。



 苦しい。



 苦しい。

 くるしい。



 くるしい。くるしい。いたい。くるしい。いたい。いたい。いたい。いたい。いたい。いたい。いたい。イタイ。イタイ。イタイ。


 イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。



「イタ………あぇ?」



 何でこんなに痛い?


 何でこんなに苦しい?


 何で肺が圧迫されているように息ができない?


 何で、東雲くんはそんなに絶望的な表情で俺を見る?


 何で俺の足は両足とも空を切っている?


 何で涙が止まらない?




 何で俺の胴体は今、ボブ・ゴブリンに掴まれている?



「……ッ!!!」



 いつから?俺はいつから捕獲されていた?


 前だけを見ていた。俺を救ってくれた英雄の背中をただ一心に見つめ、彼に報いるために、生まれ変わるために、目一杯足を動かした。


 ボブ・ゴブリンは振り切っていた、はずだ。俺が東雲くんに助け出された時、奴は呆気に取られたアホ面を晒し、硬直していた。一目散に駆け出した俺に、こんなにも速く追い付ける道理なんてない。


 俺が捕まるわけないんだ。


「……ぁああ!!」


 身を捩り、両足を暴れさせ、渾身の力を込めボブ・ゴブリンの両手を引き剥がそうと試みる。青筋を立て、脳の血管が破裂する錯覚を覚えて尚、限界以上の万力を発揮しようと俺の体は奔走する。


「てめぇ……離せよぉ!!!」


 ビクともしない。まるで機械だ。生物とは思えない。1センチたりともこのクソ野郎の手をずらす事さえ叶わない。


 無理だ。不可能だ。


 10秒足らずの試みではあったが、俺はそう結論づけた。


「……ッ!……ッ!死ね!死ね!くせぇんだよお前!クソが!!」


 ボブ・ゴブリンの象のような分厚い皮膚に覆われた手の甲に向けて肘打ちを繰り返す。無意味なそれを行う意義は露ほどもない。もう手立てがなかった。


 正義だのなんだのと口にしておいて、口から出てくるのは薄汚い罵詈雑言。正義のヒーローを目指し、キラ・フォートレスに憧れ、東雲君という英雄の背中を追ったつもりだった。


 しかし、今俺の胸中を支配するのはボブ・ゴブリンへの底知れない憎悪である。ニタニタと気色の悪い笑顔を貼り付けながら、人を小馬鹿にしているこいつへの悪意が溢れてくる。


「あぎゃ……」


 ボブ・ゴブリンの鋭利な爪先が胴体に食い込んでくると同時に強大な力で圧迫される。肋骨が軋み、内臓が押し潰され、視界が真っ赤に染まる。


 指圧が増すにつれて、それに呼応するように全身から脂汗が滲む。

 それは正に、心太(ところてん)を天突きで押し出しているかのよう。


「やめっ……まっ……」


 やめてくれ。

 まってくれ。


 死んでしまう。

 それ以上内蔵を圧迫されると死んでしまう。


 必死に紡ぎだそうとした声は悲しくも音を奏でられず、喉からは滑稽に空気が盛れる音だけが溢れ出る。

 この世の全てを呪いたくなるような、痛苦の限りが暴れ回る。


 今俺の血色の具合はどうだろう。

 青白いだろうか?それとも赤黒く染まっているだろうか?

 腹部を強大な力で握り潰されているため、胃や肝臓、膵臓などが胸元まで押し流されているかもしれない。


 地獄のような苦しみに浸かっているにも関わらず、脳内を支配するのはそんな益体のない思考だった。

 この重苦を味わっているのは俺ではない。そう思い込まなければ、今すぐにでも舌を噛みちぎって死んでいる。

 他人事のような思考に耽っているのは、現実逃避による防衛本能の一種なのかもしれない。


 視界がアナログテレビのスノーノイズのように著しく明滅する。

 俺の眼球は今にでも眼窩から弾け飛びそうだ。


 口からは血の混ざった泡が絶え間なく溢れる。

 喉奥から泉のように鮮血が湧き、気道が塞がれる。ごぽごぽと、まるで湯船の排水溝に髪の毛が詰まり水が流れなくなった時のような、奇っ怪な通気音が鼓膜を揺らす。


「ぁ……ぎぃ……」


 脳が血に染る。

 思考が蹂躙される。


 20年、必死に生きてきた最後がこれじゃあんまりではないか。

 こんな辛苦の限りを尽くされる程、俺は悪人じゃない。俺の様子は傍から見ればきっと惨たらしい有り様のはずだ。そういうのは、凶悪殺人犯にしてくれ。だって、そうだろ。それが万人が納得する形ってものだ。


 ちぎれる。

 体が潰しちぎられる。


 俺には当然前科はない。平穏に、誰もが想像しうる普通の日常に入り浸ってきた。

 周りの期待に応えられないまでも、それなりの善行は積んできたはずだ。

 そう、こんなに痛めつけられるいわれはない。もっと安らかで穏当な往生で然るべきだ。


 こんな。


 こんなこと。


 理不尽だろ━━━━。



『ぶりゅ』



 有り得ない、看過できない現実に俺が憤りをひた走らせていると、突如腑抜けた肉音が響いた。


 それはやけに鮮明に体内に反響した。




 肉音とそう称したのはそれ以外に表現が思いつかなかったからだ。もう少し俺に語彙力があればまた違った表現も可能だったかもしれない。柔らかい肉が固い何かに潰された時の音。うーん。そう、あれだハンバーグだ。ハンバーグが何肉を使っているのかご存知だろうか?そう、豚肉だ。といってもこれは一般的ではないらしい。合い挽き肉が主流というのを聞いた事がある。また牛肉だけで作る人もいるだろう。まぁとどのつまり肉はなんでも良くて、俺は豚肉を使うよってこと。話がズレてしまった。ハンバーグを作った経験がある人は分かると思うが、最初に、ミンチ肉に玉ねぎやパン粉、調味料を加えた後、それを混ぜるという工程があるのだ。他の家庭は知らないが、俺はそれを素手で混ぜるのだ。不衛生だろうか?本当はビニール手袋なりして清潔に行うのが良いんだろうけど。どうしても横着してしまう。でも、素手は素手で良い点もある。あれは中々楽しい作業だと思うのだ。ひんやりとした冷感と、何とも言えない感触を味わえる。お気に入りの工程だった事は否めない。それで、俺はその時にミンチ肉を握ることがある。柔らかい肉を手で握り潰すのだ。掌に収まっていた肉ダネが圧力をかけられ、左右に握り流される。そう、その時に『ぶりゅ』『ぶりゅ』という肉音が聞こえる。




『ぶりゅ』



『ぶりゅ』



『ぶりゅ』

 



「…………ぶりゅ?」


 


 果たして俺の呟きは声に成っていただろうか。


 端正な顔を大きく歪ませ、痛々しいものを見る目で俺を視界に入れる英雄……東雲くんどころか、恐らく俺のすぐ側に居るホブ・ゴブリンにすら聞こえていない呟き。口内のみで完結したかもしれないし、もしかしたら脳内でしか展開出来ていないかもしれない。


 それでも俺は、確かに肉音を反芻した。


 その事実を認識した瞬間。


 どろりと、耳穴から、いや口から、目尻や目頭からも赤黒い血が流れ出る。鮮血とは思えない、おぞましい色をした血だ。


 それと同時に、尋常ならざる喪失感が俺を満たす。人としての存在、その機能の一部が消失したような、そんな無力感。


 多分、多分だけど何かしらの内蔵が潰れたのだと思う。体験した記憶がないため、多分としか言えないのがもどかしい。


 痛い、のか?俺は今痛いのだろうか?

 

 そんな言葉で片付けて良いのか?

 そんな生易しいものじゃないと声を大にして言いたい。


 苦痛、激痛、酷痛、劇痛、楚痛、惨苦、重苦、辛苦、難苦、倒懸、辛酸。


 違う、ちがう。どれもこれもが力不足だ。もっとこう、ないのか。神痛とか獄痛とか。世に存在する痛みの頂点みたいな。


 とにかく、痛みをはるかに超えたナニか。

 

 なんでショック死しないんだろう。

 正直死にたい。いますぐ首をはねて欲しい。これ以上、生きながらえさせないでくれ。怒りとか憎しみとか、もうどうでもよくて。

 ただただもうしにたい。


 天国にいったら、何をしようか。俺が小学生の時に死んだペットに会えるかもしれない。もしかしたら、なくなった偉人とかにも会えたりして。


 確かにそう考えたら死ぬのが怖くなくなってきた。俺はこの痛みから解放されて、天国で楽しめるんだ。何だって出来る。英雄にだってなれるかもしれない。



 うん、うん。


 いい感じじゃないか?

 最高だと、そう思う。これは終わりじゃない。強いて言うなら、始まりの終わりってところか?


 だから、だから。



 ボブ・ゴブリン、俺を早く殺してくれ━━━━━。



 俺は願った。心の奥底から、全身全霊をもって。楽にして欲しい。苦しませないで欲しい。お前のおもちゃはもうとっくに壊れたのだと。


 俺が悪かった。逃げなかった俺が。その愚劣の対価として、死んでもいい。死んでもいいから、出来るだけ迅速に殺してほしいと。

 


 それに対する、ホブ・ゴブリンの返答は。



「グヒ、ヒヒヒ」



 それはそれは、下劣で陰険で奸悪な笑顔だった。


 20年生きてきて、ここまで醜いモノを俺は見た事がない。どんな生き様をすればそれ程邪悪に染まれるのか。或いは環境によって培われた性質ではなく、根元から、生まれた時から不純物のない悪……いや、不純物そのものだったのか。


 少しだけ期待した。こいつにも介錯をするだけの良心の欠片が備わっているのではないかと。


 誤りだ。驕りだ。甘すぎた。


 天国に行けない。

 痛みからは逃げられない。

 俺はどこまで行っても、英雄にはなれない。


 俺は絶望と共に諦念をもった。俺の命はもってあと1分といったところだろう。もしかしたら30秒かもしれないし、10秒かもしれない。ただ、その10秒がどうしようもなく耐えられない。 

 この苦しみがあと10秒続くのなら、それは精神がおかしくなるのと同義だと言える。


 自死を選びたいのはやまやまだが、最早それを選択し実行する力が残されていない事は明白。


 おかしくなる。しにたい。いたい。


 その時、ふいにホブ・ゴブリンが俺を掴む手の力が抜かれる。


 支えを失った俺は当然人形のように力無く地面に投げ出され、水平に伏した。仰向けの体勢になり、その光が失われた瞳で大学ホールの天井を眺める。照明の光量がやけに強く、眩しいな、とそう現状に似つかわしくない感慨を抱いてしまった。


「……クソ!!クソッ!!!」


「早く!!早く逃げようよ柊!私達も危ないって!もうあの人は……助けられない」


 丁度俺の頭の延長、その先で若い男女の逼迫した声が聞こえる。位置的に視界には収められないが、聞き覚えがある声色だ。


 今日の朝……つい10分ほど前だ。俺に話しかけてきた女性、小和さん。何故かそんな最近の出来事が遠い昔のように感じる。その小和さんと東雲くんが悲痛に叫んでいる。


 彼らから俺はどう見えている?既に物言わぬ死体と成り果てているだろうか。それとも瀕死の怪我人?はたまた愚行の報いを受けた馬鹿かもしれない。


 ホブ・ゴブリンはそんな俺を笑顔を携えて見下ろす。


 いつこのおもちゃは命の灯火を消すのか。往生の際を観察し、愉悦している。自ら命を散らせるのは容易い。しかしそれでは面白くない。弱者が、愚者が、足掻いて、藻掻いて、生に執着しながらも、呆気なく無慈悲に死んでいく様を見たがっている。



 全身が強ばった。



 ホブ・ゴブリンの悪意にまみれた顔面を視界に入れている。

 沸々と、胸の奥から熱が湧き上がる。一度は手放した激情。


 憎悪とか憤怒とか。強大な痛苦に呑み込まれて消えたはずの感情が再燃する。それは小さく、しかし確かに存在する火種へと引火し、俺を奮起させる。


 これは気力とか底力とか、そんなものじゃなくて。死力とも言うべき、覚悟の力だ。


「ぉ……が……!」


 おかしいだろ。


「……ぶじょ……!!」


 不条理だろ。理不尽だろ。


 何故俺が苦しまなければならない?何故俺がお前に殺されなければならない?


 力を持たない臆病者は、【悪】に蹂躙され、命の価値を蔑ろにする行為を甘んじて受け入れるべきなのか?それが例え、臆病者に何の非もなく、【悪】の趣味のように興じられたものであったとしても。


「ぢ……が!!」


 違うだろ。


 そうじゃない。そんな行為がこの世界で罷り通って良いはずがない。邪悪が蔓延って、世界のシステムが歪まされてはいけない。


 先程までの、力にねじ伏せられ、痛みに屈した自分に対して忸怩しくじたる思いを抱く。


 俺の命はあと何秒もつ?次の瞬間には既に死んでいるかもしれない。


 死力をのせた視線でホブ・ゴブリンを射抜く。相も変わらず歓喜に満ち溢れた表情で眼下の弱者を見下ろしている。もしかすると奴にとってこれは【悪】ですらなく、ただの暇つぶし程度の行為として捉えているのかもしれない。仮にそうなのだとしたら。


「……ゅる……!!」


 許さない。ゆるさない。


 それは、反骨心の萌芽。赤黒くドロドロした血涙が怒りの発露に呼応するように一層勢いを増す。この世のものとは思えない痛苦と人生の最期に抱いた強大な憤怒が体中を駆け巡り、ブチブチと精神が乖離し始めた。


 離人症のような奇妙な非現実感が意識を支配する。

 ただそれは冷静に自らを見つめ直せるようになったということではなく、あまりの激情に俺の精神がついてこられなくなった、ただそれだけのことだ。


【正義】だの【悪】だの、前までは執着していなかった概念が俺を支配する。

 それはまるで、あの「キラ」のように。俺が丹精込めて作り上げたキャラクター、「キラ・フォートレス」のように【正義】を掲げ、【悪】を憎んでいる。


 何故だろう。


 ゲームのしすぎで、現実と架空の違いが認識できなくなったのだろうか?

 死の間際で、俺が最も愛したキャラクターを想起することで、少しでも救われようとしているのだろうか?


 泡沫のように儚い存在である俺が、キラのように強ければ、この目の前のクズをぶち殺せたからだろうか?


 まあそうだろう。

【正義】と【悪】なら、【正義】が勝つに決まっている。

【悪】は己の行いを後悔し、苦しみに塗れて死んでいくのだ。それはこの世の絶対に変わらない、変えられない摂理だ。

 変えては、ならないのだ。


 この世界に生きる人なら誰しもが思うはずだ。


 犯罪を犯した【悪】人は、全員死刑にするべきだろう、と。


 殺人も強盗も強姦も傷害も、全ての犯罪者は殺すべきだ。そうだろ?

 だってそいつらは【悪】で、裁く俺たちは【正義】なんだから。


 誰にでも人権があるとか。そいつにも事情があったとか。そういう偽善ぶる御為ごかしは必要ない。庇うやつらも同罪だ。


 全員、全員死ぬべきなんだ。

 そうじゃないと、清く生きている弱者が気の毒だろ?ある日なんの前触れもなく、【悪】に全て壊されるんだ。なのに、その【悪】はのうのうと生き続ける。

 

 ふざけるな。


 皆が【悪】に怖気づき実行できないと言うのなら、俺が全うする。


 俺が【正義】で。

 目の前のクズが【悪】ならば。


「ぉれば……」


 俺は、絶対にこんな所で負けないはずなのだ。負けていいはずがない。許されない。


 【悪】は滅ぼす。俺の全てをかけて。


 【正義】は繁栄する。他でもない俺が導く。


 俺は。


 俺は。


 俺は。



 ……私は。





「私は【正義】だ」


 


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