第2話 ホブ・ゴブリン
「……あ?」
……。
……あ?え?
な、んだ?
一瞬……視界が黒くなっ……た、か?
いや一瞬だったか?1秒にも満たない時間だったような気もするし、もっと長い間だったような気もする。これが、瞼の瞬きなわけもない。
今自分がいる場所を急いで確認するも、先程までの大学ホールに違いない。
額を伝う冷や汗を拭いつつ、湿った掌を広げる。奇怪な体験だった。
まるでテレビの電源を落としたかのように、視界……意識が暗転した、気がする。
床につき、夢を見ずに起きた瞬間の時間感覚に似ている。何時間も経過した感覚はあるが、対してほんの寸秒だった気もするというやつだ。
それを極限まで圧縮し、濃密にしたのが先程の一瞬。そんな、感じがした。
気のせいなはずはなく、若しかしたら何かの病気にかかっているかもしれない。今日はもう講義を休んで病院に診てもらうべきだろうか。
そこまで思案を巡らせた時、プリントをまだ受け取っていない事に気が付いた。
「あ、すみませ……」
突然固まった俺にさぞ困惑してるだろうと、慌てて前の席に座る人へ謝辞を述べようとする。
「……」
しかし、前に座る男性に反応はなく、プリントを片手に持ったまま怪訝な顔付きで頭を抑えていた。体調が芳しくない様子だ。正直、俺も今の不可思議体験によってかどうかは不明だが、僅かに頭が痛い。この人も、頭痛だろうか。
「……なんだ今の」
「え? お前も?」
「ちょっとだけ意識飛んでた」
「まじかよ。俺もだ」
「なになに、もしかして皆なったの?」
「おぇ、なんか気持ちわりぃし頭いてぇ」
「それ、体調悪くなったよな」
は?
なんだ、何が起きてる?
周囲、いやこの大学ホール中の人々が口々に同じ体験に見舞われた事実を明かしていく。話に聞く限りそれは俺も例に漏れず、間違いなく先程のブラックアウト体験を示唆していた。
俺だけではなかったのか……。
前の男性の様子がおかしかったのもそのせいか。
「おい、なんだよこれ!」
「全員、全員か?」
「ヤバいって! なんか毒ガスとか撒かれたんじゃ……」
「怖いこと言わないで!!」
「早くホール出た方がいいんじゃないの?」
「そ、そうだな。急げ! 外に脱出するぞ! なんかやばい!」
俺のすぐ近くの男女グループは、そういう結論に至ったらしい。行動力があり、頭の回転も早そうだ。
確かに何か得体の知れない事態に陥ってる可能性がある。毒ガスかどうかは不明だが、ここは彼らに習って俺も早急に脱出するべきだろう。この大学ホールはパニック寸前だ。出口が人で詰まってしまう前に、行動に移さなくては。
そうと決まれば、急いでリュックを背負い出口に向かおうとする。
その時。
「……ッ!?」
黒板を思い切り爪で引っ掻いたような、心底不快な音が耳を
質量が伴っていると錯覚しそうな程重厚で、甲高い、今まで一度も聞いたことがない異音。人の嫌悪感の根源を弄くり回す、
「……あぐぅ」
思わず耳を両手で抑え、その場に
意識が明滅する。歯を噛み潰さんとばかりに食いしばり、ただ耐える。
1秒、いや0.1秒でも早くこの地獄が終わって欲しい。気が狂う前に。
そう願ったのも束の間、音が唐突に消えた。
酷く耳鳴りがし、10秒ほどは聴覚が使い物にならなかったがその場でじっとしているとようやく回復してきた。
おぼつかない足取りでふらつきながらも何とか地面を踏み締め、辺りを見渡す。一体何が起こったのか。音響兵器でも投入されたのではないか。そんなことを考えながら。
「おぇええ」
「はぁ……はぁ……」
「なんっだよ! 今の」
「死んだかと思った……」
「耳痛い……ちょ、耳から血出てるんだけど!」
「核爆弾が落ちたのかと思った」
聞こえていたのは俺だけでなかったようだ。密かに胸を撫で下ろす。
しかし、嘔吐している人や耳から出血している人がいるのに安堵するのも不謹慎だ。この気持ちをなんと形容すればいいやら。
さらに広範囲に目を向けて見れば、ホール全ての人々が今の異音に晒されていたようである。涙を流したり、意識を失ったりしている人も中にはいる。正しく阿鼻叫喚の図だろう。見てて痛ましいので、すぐさま視線を逸らす。
「さて」
あれだけの規模の音だ。直前のブラックアウトといい、異常事態である事は最早確実だ。戦争か、はたまた大地震か。
どちらにしろ俺たち学生では判断がつかない。ここは教授に判断を仰ぎ、避難誘導なりなんなりして欲しい所だ。
そう考えた俺は教壇に意識を向ける。
「ん?」
しかしそこに教授の姿はなかった。
逃げたか?
まぁ、そらそうか。俺が教授でも一目散に退散するわ。高校までの学校の先生とは違って、教授って講義するだけだしな。学生の為を思って熱心に引率するなどといった行為は期待出来ない。
こればっかりは仕方がない。
切り替えて、自分達で対処しなければな。まずは外に出て状況確認からか。いつも通り日常が始まるのかと思えば、とんだ非日常だ。求めていた感じとは少し違うが、まぁ存外悪くないかもな。
そんな思考を展開しながら教壇を眺めていると、ふと違和を感じ取った。
それは分かりづらく、しかし明らかな異常。気のせいかと思い直して再度確認する。
目を何度か擦り、凝らして見てみてもやはりおかしい。そんなわけがない。あるはずのないものが、そこにはあった。
「……ひび?」
そう、ひびがあった。なんと表して良いのか、1mほどの割れ目が出来ていたのだ。さっきまであんなものはなかったはずだ。しかも何故そこにできる?
空中に。
教壇の机のほぼ真上に位置している。念の為少し横に移動し自分の位置もずらして確かめてみたが、やはりひびは空中に存在していた。見れば見るほど薄気味悪い。それなのに、目が離せない。離してはいけないと、本能が警鐘を鳴らしているように。
「おい、なんだあれ」
「……ひび?傷?」
「黒板が今の衝撃で割れてるってこと?」
「いや、よく見ろ。黒板の手前だ。空中だよ」
「は?」
「なんかきもちわりぃ〜」
周りの面々もひびに気が付き始めた様子である。良かった、俺が
「とすると、あれは……」
一体何だ?
その問いを口にする直前。
『ピシ』
今最も聞きたくなかった音がやけに鮮明に空間に響いた。
出処は、正面のひび。言うまでもなく、ひびが拡張するために
「「……」」
それまで騒音に包まれていたホールが今の一瞬で静まり返る。泣き喚いていた人も、怒り狂っていた人も、皆が一様にひびを注視する。それは俺も同様である。
何かが起こる。嫌な確信を得て、脂汗が全身から滲み出る。あれは『ヤバい』
『ピシピシピシ』
びくりと、近くの女の子の肩が震える。皆の荒い息遣いと罅割れる音しか存在しない。人は、自分の理解が及ばない範疇の事態が起きると思考が停止する。それは俺が今身をもって味わっている。逃げ出せない。蛇に睨まれた蛙のように、身動きが取れない。
『ビシビシビシビシ』
空間が軋む音がする。
ひびはもう3m程まで割れ広がっている。それは横にも広がっており最早裂け目と言った方が正しいかもしれない。後ずさりたい。悲鳴を上げながら一心不乱に逃げ出したい。しかし、体はそれを拒絶する。
本能と理性の葛藤で、頭がおかしくなりそうだ。緊張で喉は乾き切っており、瞬きを忘れた
裂け目は縦3メートル、幅が30センチほどであり、青白く光る何かがその『内部』から姿を覗かせている。
あれはまるで、異次元への入口のようじゃないか。汗で手が湿る。
そして。
『ごくり』と誰かの喉が鳴った瞬間だった。
「あ?」
空中に浮かぶ空間の裂け目にゆっくりと『手』がかけられる。
それは俺たち学生のうち勇気ある者が調査しに向かい裂け目に触れたのではなく、裂け目の『内部』から伸びた、隆々とした緑色の手のようなモノが突如出現したのだ。
内部という言い回しが適切かどうかは分からない。
ただ、裂け目の裏に人がいないのは間違いないし、裂け目の間の空間からまるで水面から出したように手が姿を見せた。
そしてその手の指が曲がり、力が加えられる。
硬い氷を強引に握りつぶすような、破砕音が空気を揺らす。それは明らかに裂け目から聞こえており、それを成しているのは間違いなくあの『手』だ。
「あいつ……」
手をあいつと言っていいのかどうかは分からないが、意志を持っているようなのであいつと呼ぶ。
「まさか」
まさか。
物体が砕ける音が尚一層大きくなる。1秒毎に倍増しているのではないかと疑う程の加速度的な音量の増大。破砕音は、既に落雷で建物が倒壊する程の量で俺達の恐怖心を煽る。
「まさかまさかまさか!」
あの手は。
あの手は、裂け目を広げようとしている。
そう、心の中で結論する直前、答え合わせは視覚的に行われた。
爆発的な音量と共に、裂け目がゆっくりと広がっていく。天地がひっくり返る、世界が崩壊する、そんな馬鹿げた妄想が脳裏を過る。
これは夢だ。悪い夢で、あってほしい。泣きたくなるほど意味不明な現状を目の当たりにして、現実逃避に走る。こんな荒唐無稽な非常があっていいはずがない。
そんな淡い希望も。
「……うぁ」
鼓膜をねじ切らんとばかりに震わす狂騒に掻き消される。
耳元で花火を打ち上げられたような錯覚をする。頭を押し潰す程、強く両手で耳を抑える。
そうか、これが空間が裂ける音なんだな。死人が出かねないくらいの超大音量だ。死因が音とかやだなぁ。
今にも消し飛びそうな意識の中、ぼんやりとそんな事を考える。そして、永遠にも感じられた時間に終わりが告げられる。
何の予兆もなく、段々と音が減衰して行くこともなく、唐突に終わる。
「げほっ! ……はぁはぁ」
そうか、この少し前に俺達を襲った不快な音、あれは空間がひび割れた音だな?音の止み方が似ているからな。くそが。
「……おい、みんな大丈夫か」
「……」
「ヤバすぎだろ」
「マジで死ぬって!」
「もうやだ……」
死屍累々といった様子の学生達。この短時間で随分とやつれている。泣きべそをかいたり、怒りで顔を震わせたり。気を失っている者も多く、一割程は倒れているだろうか。……死んでいない事を祈る。
また、案の定耳鳴りが酷く、機能が怪しい。今の学生たちの会話も辛うじて聞き取れたくらいだ。少し休んで、聴力の回復を待ちたい。
……だけど。
「ふぅーー……」
俺は忘れていない。
桁違いの破砕音の前に見た、あの緑色の手を。ゴツゴツとした、人間とは思えない肌を。それが、あの裂け目から出現したことを。
角度的にそれが見えなかった学生も多くいるだろうし、見えていたとしても今は皆直近の爆音でいっぱいいっぱいだ。気のせいかもしれない緑色の手など、気に留める余裕はないだろう。
だからこそ、俺は確認しなければいけない。あの裂け目に、現実に、目を向けなければいけない。爆音の、事の顛末を見なければいけない。
全身が小刻みに震え、視線を動かせない。
あの手は明らかに裂け目を強引に拡張していた。内側から、意志を持って。
ではその目的は?
「わかってる……わかってる!」
もう全部分かっている。
それなのに、怖くて怖くて、教壇の方角に意識を割けない。それを見てしまったら、もう戻って来られない気がするから。だから、爆音が止んだ時から、意図的に見るのを避けていた。
「……え、ちょ、なに……あれ」
一度だけ大きく心臓が脈打つ。
声を上げたのは、少し離れた場所にいる一人の女学生。教壇側に指を指し、驚愕と恐怖に染められた顔で震えている。
俺が躊躇し、二の足を踏んでいる間に先に見つけられてしまったようだ。
「なんだありゃ?」
「……人形? じゃない、よね?」
「え? え?」
「こわ! なんか、こわ!」
「さっきまであんなのいたっけ?」
一人の女学生を皮切りに、次々と学生達が『あれ』の存在に気付いていく。皆、驚いているというよりかは、得体の知れないモノへの好奇心がまだそれを勝っているようだ。
「やばい……やばい……」
対して、俺は絶望に頭が塗りつぶされていた。目の前が真っ暗になる。体の節々に力が入らない。背筋が凍るとはこういう感覚を言うのだろうか。
皆、何も分かっていない。あれをまだ視界に収めていない俺ですら、本能が告げる危険性に打ちのめされているというのに。
「なんだろあれ」
「……んー、緑色の……猿?」
「気持ち悪い猿だなぁ」
「猿ってよりゴリラっぽくない?」
「……う! なんか、臭くない?」
「そういえば、なんか臭うかも」
腐った虫の卵と生ゴミを数日間煮詰め、それを日向で発酵させたような酷い悪臭。僅かに臭うだけで、口の中が酸味と吐き気でおかしくなる。
この匂いは、緑色の手が出現した瞬間からずっと辺りを漂っていた。それに今更気が付くとは、どれだけ鈍いんだこいつら。
それに……。
『……んー、緑色の……猿?』
「……」
もう、分かった。
覚悟は出来た。見ればいいんだろう、見れば。膝が笑い、手汗が滲む。
「めちゃくちゃ臭い!!」
「おぇえええ」
「あの生き物何!? あれ何!?」
「知るか! 教授はいねぇし、どうすんだこれ」
「とにかく、早くこの場を離れよう!」
異臭を発端として、段々と混乱が増幅し、伝染していく。パニックに陥り騒ぎ立つ周囲を尻目に、俺は油が切れたロボットのように、ゆっくりと教壇へ視線を動かす。
こわい、こわい。本当は見たくなんてなかった。何故かは分からないけど、見てしまうとこの日常が終わってしまう気がしたから。怠けながら菓子をつまみ、ゲームを嗜み、冷暖房が完備された部屋でただ趣味に耽ける。そんな当たり前の日常が、どうしようもなく心地良かった事実に今気付かされた。
視界の端に、緑色の何かが映る。
動悸が激しい。
恐怖に目が回る。
口がパサパサに乾く。
そして、視線が漸く緑色の何かを捉えた。
体はかなり大きく、目算でも2メートルはありそうだ。緑色の肌は汚れで黒ずんでおり、この悪臭はあいつが原因であることが分かる。長い牙を口端から覗かせ、鋭利に伸びた爪は刃物として扱えそうだ。赤く濁った目や、先が尖った耳からはあいつが人間ではないことが分かる。
特筆すべきは、筋骨隆々な恵まれた体躯。あれの何処が猿か。ゴリラよりも大きいぞ。
「……」
俺はあれが何か知っている。
醜悪な笑みを浮かべ、俺の恐怖心を震え上がらせるあの存在を。
思っていたよりも少し……いや、かなり大きいが恐らくあの種で間違いないだろう。雑魚の代表格とも言われ、あらゆる作品に登場するキャラクター。こうして対峙すると、そこら辺のヤクザよりも余程怖い。
「あれは……恐らくゴブリ━━━」
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『ホブ・ゴブリン』
・
・階位 「下級 中位」
ゴブリンの上位種族。ゴブリンが魔魂を一定量吸収すると進化する。妖精に分類されるが、生物の根底に他種族への悪意が介在する。
==============================
「……は?」
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