第82話 オープンキャンパス5
なんて惨めな。
最愛の人の前で汚らしく体液を撒き散らしてしまうとは。幻滅されたらどう責任とってくれるのか。前原先輩、責任とって結婚して下さい。
「はい、落ち着きましたか?」
福岡先生がやけにツヤツヤした顔で場を執り成す。ドッキリが見事に成功して満足気だ。あっけらかんとした様子だけど、自分に生徒達の恨みがましい目線が集中している事を分かっているのだろうか?……恐らく分かった上であの表情なのだろう。図太い精神だこと。
まぁ前原先輩の前で体液をぶち撒けてしまったのはもう忘れる。
そんな価値の無い羞恥心に支配されるよりも、今は前原先輩に意識を向ける事が肝要だ。
「一先ずドッキリは成功ってところですか」
「そうだね。こんな騒ぎになるんだから、やはり俺も付いてきて良かったよ」
……ん?
前原先輩だけに注目し過ぎて全く気付かなかったけど、どうやら前原先輩の他にもう1人先輩がいるみたいだ。えと、あの人は……
え?
「じゃあまず俺から自己紹介させてもらおうかな。こんにちは中学生の皆さん、春蘭高等学校生徒会会長の桐生隼人だ」
な、なんで生徒会長が前原先輩と一緒に行動してるの?
桐生隼人会長と言えば、前原先輩に次ぐ2番人気なのは疑いようがない。そんな大物2人をセットにしてしまって良いのだろうか?他の生徒会の先輩には失礼だけど、人気が偏り過ぎて人選の配分のバランスが取れてないと思うのだ。
「僕はこの教室、1年1組の生徒だからこの授業を希望したんだよね」
「そして俺は前原くんが大好きだから付いてきたかったんだ」
「……」
前原先輩が、唐突な桐生会長からの告白を受け苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情を浮かべる。
だ、大好き!?そんな……男同士でなんて。なんて倒錯的な。でも、何だろう、こう胸の内からムクムクと膨れ上がるこの歪んだ欲望は。前原先輩と桐生会長……うっ、こんな禁忌に心を奪われそうになるとは。
「とまあ冗談はさておき」
会長が『パン』と1度手を鳴らす。
仕切り直しということかな。叶うならば、まだ前原先輩と会長のイケナイ絡みを眺めていたかったがそうもいかないだろう。ここは意識を切り替え、話に耳を傾ける。
「我々生徒会は殆どが3年生から構成され、それは俺自身も例に漏れない。ようするに君達が入学する頃には俺は在学していないことになる」
目を伏せ、呟く。
確かに私達中学生が入学するのは来年の話であり、来年といえば既に会長たち3年生は春蘭高校を旅立ち、大学に入学したり、就職したりしている頃だろう。
桐生会長目当ての生徒もいるらしく、悲哀に満ちた様子の人も少なくない。
「しかしだ。それでも」
そんな空気を払拭させるように、殊更明るく判然な口調へと一変させる。
「この学び舎には『彼』がいる」
会長は、前原先輩へある種の敬慕のような感情を思わせる眼差しを向けた後、私達生徒へ向き直り一息つく。
「……『勉学』は人生においてとても大切な事だ。身を粉にして勉学に勤しんだ者は幸福を掴み取る可能性が高い。そしてその事実は生きとし生ける者皆が認知している」
私達生徒の一人一人の顔へ見定めるように視線を送り、一拍毎に隣の人へ移す。その瞳には全て見透かされているような錯覚を覚える。
「だが、皆『ある程度』の努力は重ねるが、脇目も振らずに没頭するような者は殆どいない。人生を豊かにすると分かっていながら、だ。それは何故か。勉学は楽しくないからだ。興味の湧く分野があり、その勉強は比較的楽しいかもしれない。しかし、その愉悦は、友達とカラオケに行ったり、ゲームをしたりといった娯楽と比べるべくもない。後者の方が圧倒的に『楽しい』んだ」
生徒会長が演説を始めてしまった。教壇に立つ先生の授業は退屈に感じてしまうのだが、この人の話には何故か聞き入ってしまう。そのカリスマ性は生徒会長故の物なのかもしれない。
「では勉学にはモチベーションとなる何かが必要になる。それは、試験の合格意欲でもいいし、親からの褒美でもいい。そう、『彼』でも、いいんだ」
『彼』━━━前原先輩へと今一度意識を集中する。それは教室中の誰も例外ではなく、福岡先生ですら、前原先輩へ意識を向ける。
その本人は気恥ずかしげな表情だけど、そんな一面も可愛い。
「勉学の意欲の
真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに私達を見つめて生徒会長は言い切る。あまりにも真摯なその姿には言葉が出ない。これが、春蘭高等学校の生徒会長なのだと、そう思わずにはいられなかった。
『パチパチ』と余韻を打ち消すように、拍手の音が聞こえる。
そうか、前原先輩のために勉強を頑張っても何も悪い事なんてないんだ。志望理由に何処か後ろめたさを感じていたが、吹っ切れたように視界がクリアになる。
「とても素晴らしい言辞ありがとうございました。僕から言うことは何も無いです。では、福岡先生模擬授業を始めましょうか」
前原先輩が拍手が止んだタイミングでそう切り出す。生徒会長の言葉の余韻でまだ動け出せないでいる私達とは違い、堂々とした態度だ。高校生とはこんなに大きな人達なんだと、改めて敬意を深めた。そんな時間だった。
* * *
「はい、ではこれより模擬授業を始めます」
先程の熱も冷めやらぬまま、『現代社会』の模擬授業がスタートした。前の黒板には、『減り行く男性人口問題。その対策について考えてみよう!』と題が大きく書かれており、その前に福岡先生が指示棒を片手に立っている。
まず福岡先生には4人ほどのグループを作るように指示された。恐らくグループディスカッションのような形式で授業を進めるのだろう。幼馴染である凪と行動を共にするのは決定だとして、あと2人を何処かから引っ張ってくる必要があったのだが。それは前の席に座る2人も友人同士だった事で解決し、前の2人と、凪と私でグループを作る事になった。名を、
そしてそんなお目当てである前原先輩や、桐生会長が教室の何処に居るのかと言うと。
「ふむ、これは看過できない問題だからね」
「桐生会長は解決策をどう考えですか?」
「いくつか浮かぶ物はあるが……それを考えるのはこの未来の春蘭高校生の仕事だからね」
「ですね」
「「「「………」」」」
私達のすぐ後ろで談笑している。
言葉通り、すぐ、後ろだ。距離にしてみれば30センチ程だろうか。ともすれば、息がかかってしまうのではないだろうか。
私達4人は満足に息をする事も出来ずに、緊張と喜悦で硬直してしまっている。何気ない席のチョイスによりこんな所で得を得るとは、人生分からないものである。
「〜〜そして、現在では『男性』という人種を絶滅危惧種に指定してはどうかといった議論も展開されています。しかしこの案は、人権や倫理観の点から現実的ではないという意見が大半を占めています。
では、以上の話から、自分なりに考え付く、男性人口を減らさないための対策を自由に話し合ってみましょう」
あ。
ガチガチに気を張っていたせいで福岡先生の話の殆どを聴き逃してしまった。私のバカ。前原先輩が関わるといつもこうだ。もっと妻として自覚を強く持たないと。
「前原君や桐生君は、各グループを自由に行き来するから、その時に質問などがあればするように。では、始めて下さい」
福岡先生の合図により、教室の空気が一気に変わる。生徒達が口々に意見を言い合うのだ。そう、私達もディスカッションを始めなければいけない。いけないのだけど。
「あ、僕の席には凪ちゃんが座ってるんだね。凪ちゃんは何か意見ある?」
「あ、あああ、あり、ます!!」
常に冷静沈着で有名な凪が、前原先輩に一言話しかけらるだけで噛みまくるわ、挙動不審だわで酷い有様だ。だけど、気持ちは痛い程理解出来てしまう。現に同じ班の私や、響ちゃん、菜々花ちゃんは言葉すら発せられずに石像のように動きを止めているのだから。本当に石化したように指1つ動かないのだ。なんと情けない。
「ま、まじゅ、男性の寿命を伸ばすために、健康福祉施設を充実さ、させますわ!その他、いりょ、医療面での保証も手厚く行いますわ!い、いかがでしょうかしら!?」
見るに堪えない。見るに堪えないよ、凪。その似非お嬢様みたいな口調は聞いてるこっちまで恥ずかしくなるからやめてほしい。支離滅裂だし、前原先輩も苦笑してるよ?そんな姿もカッコイイけど。
「えと、じゃあそっちの2人、響ちゃんと菜々花ちゃんはどう?」
『うん、よく頑張りました』と殺人級の笑みで凪の頭を柔らかに撫でた前原先輩は別の2人に話題を振る。ぐっ……血涙が流れる程凪が羨ましいぃ。
「ひゃ、ひゃぃい!!だだだ!だんせいの!!じんこ、じんこうは……あ、あのあのすごく、あのや、やばい!!ので……その!!………」
「あ、あ〜ごめんね?僕達が居たら大分緊張させちゃうみたいだね」
「あぁ、議論にならないのはダメだな。次の班に移るか?」
響ちゃんが心配になるくらい汗を流しながら、日本語かどうか怪しいくらいの混沌とした言語を口走るものだから先輩達の気を使わせてしまったようだ。菜々花ちゃんに至っては、白目を剥いて鎮座しているので若しかしたら気を失ってるのかもしれない。凪は頭を撫でられた残響で幸せそうな顔でトリップしてるし、なんて無秩序なグループなんだ。もう滅茶苦茶だよ。
「……そうですね、じゃあ最後に。蜜柑ちゃんの意見聞こうかな?」
き、きききた!!
緊張が限界に達し、やけに大きく心音が聞こえる。手汗はかいていないだろうか、髪型はおかしくないだろうか。余計なことばかりに気が向く。
……そして、前原先輩は私を覚えているのだろうか。一世一代のプロポーズをし、未来の妻として見初められた私の事を。
それとも先輩にとっては、数ある内の遊びに過ぎず、気紛れに弄んだ中学生の女なんて眼中になかったのだろうか。少なくとも、まだ先輩の方から、前回の説明会の時のプロポーズを覚えているような様子は感じ取れていない。若しかしたら、本当に私のことなんて、とうに記憶の彼方へ放り出している、のかもしれない。
そうだ。当たり前ではないか。
前原先輩程の男の人がこれまで何回求愛や、求婚を受けたと思っているのだ。それは私が予想できないような途方もない数に違いない。当然その全てに首肯するわけにはいかず、断る場合が大部分を占める。それなのに、特筆すべき点もないただの中学生である私が彼に選ばれるなんてあるはずかない。何を浮かれていたのだ。未来の妻、なんて調子に乗った言い回しを心の中で繰り返し、将来の展望まで細かに妄想して。
そんな負の予想は止まることなく、そう思わずにはいられなく、前原先輩への猜疑心が芽を出し、とめどなくある感情が溢れてくる。
一泡吹かせて、仕返しをしたい、と。
こんな一般人に期待を抱かせたのだ。それ相応の報いがあっても良いのではないだろうか。
「……蜜柑ちゃん?」
反応がない私に、訝しげに前原先輩が声を掛ける。くっ、こんな美天使みたいな無茶苦茶カッコイイ顔して!私を弄ぶとは!許すまじ!
「そ、そうですね。人口が少ないならふ、増やせばいいんじゃないですか?ほら、男女がいれば増やせるでしょ?」
これはせめてもの反抗。男性は、こうした性事情についての話題が苦手だという。普段女から低俗な欲望の捌け口にみられているし、それは当たり前だろう。しかしだからと言って、私が所謂『下ネタ』が苦手かと問われると、答えはNOだ。女で下ネタを好まない人など見つける方が難しいだろう。私だって前原先輩と***なことや、###のようなえげつない
「……へぇ。男女のね」
ほら、前原先輩だって私の今の心無い発言にさぞ落胆したに違いない。不快な気持ちで満たされたに決まってる。ふん。私の恋心を弄んだ罰だ。今に見てろ、今日は家に帰ったらベッドで妄想に励みまくってやるからな。脳内で私に許しを乞うまで弄り倒してやるのだ。
「(……それはつまり、男女の、『性行為』の事を言ってるの?)」
前原先輩が私の耳元で他の人に聞こえないように小声で囁いてくる。
はわわ!!首元からゾワゾワと毛が逆立つような不思議な感覚が駆け巡る。麻薬のように脳が刺激されるが、必死に踏みとどまる。
ふ、ふん!そうですよ!男女の性行為について私は言ってるんですよ!どうですか、嫌な気持ちになりましたか!?どうですか!
「(……そっかぁ。じゃあ僕達も、将来男性を増やせるように頑張らないとね?)」
そうそう、私と前原先輩も男と女なんだから、男性人口がこれ以上減らないように2人で……。
…………。
……え?
「えっ!?」
前原先輩の言葉を咀嚼し、理解する。その過程で致命的な齟齬を知覚した。急騰する顔の火照り。脈打つ心臓。
今彼はなんと言っただろう?『僕達も頑張らないと』そう、言った。ここでいう僕達の定義とは?当然、会話をしている前原先輩と、私橘蜜柑。では一体何を頑張るというのだろう。直前の前原先輩の言葉を一言一句思い返してみる。
『……それはつまり、
男女の性行━━━━━
「うわぁああああぁああ!!!」
なんてこと。なんてこと。
前原先輩の口からなんてこと。
顔から火が出るとは正にこの事。皮膚の内側から高温の炎が噴き出しそうだ。いや、既に噴き出しているのかもしれない。全身の汗腺という汗腺から冷や汗が溢れる。
彼の口から何が出た?
深呼吸、子宮……じゃなくて至急、深呼吸を。ヒッヒッフー。ヒッヒッフー。
慎重に、記憶を掘り下げろ。
僕達も━━━前原先輩と私も、
将来━━━━つまり、結婚後を示唆している。
頑張らないとね?━━━━━何を?性交i………。
「………ッ!!!」
音速の勢いで背後の前原先輩へと振り向く。分からない。この人が分からない。だって、さっきまで私を覚えている素振りすら全く見せずに。凪にだって。だから私は。卑屈になって、この大好きな人の記憶に少しでも『私』を刻みこもうと、下劣な話題に。
「……ん?どうしたの?」
そんな荒れ狂う私の胸の内なんて、これっぽっちも意に介さないように。
何か問題でもあったのかと、決して揺れ動かない精神を誇示するかのように。
いつも通りに。健気に。それでいて、これ以上なく美しく。
笑っていた。
「……」
その瞬間、私は全てを理解した。
初めから、初めから私は前原先輩の手のひらの上で転がされていたのだ。
私を覚えていないように振る舞っていたのも。下品な話題に眉一つ動かさずに応じたのも。全て、この人の思惑通り。
分からない。自分の気持ちが分からない。
全てはこの人の思い通りに進んでいた悔しさ。こんなちんけな私の事をきちんと覚えてくれていた嬉しさ。先輩を困惑させようと出した下品な話題を見事にカウンターされた羞恥心。様々な想いが交錯して、ぶつかり合う。
けれど、この、胸中を支配する明らかに大きな感情は。これは。
「……ッ!!」
プロポーズを真剣に受け止め、私達の将来について
前原先輩は『私達の将来』と口にした。絶対口にした。
それはつまり、件の私のプロポーズを真面目に受け取ってくれ、将来に思いを馳せているということ。こんなちっぽけな、長所ひとつ無い、1人の小娘の戯言に。前原先輩は、一笑に付すことなく、ひたむきに向き合ってくれていたのだ。
その事実が嬉しくて嬉しくて。
どうにかなりそうだ。
同時に、そんな前原先輩を疑ってしまった罪悪感も。つい先程親友に抱いてしまった歪んだ感情を反省し、改心したと思った結果がこれか。悲しくなる。
しかし、今回の件に関しては前原先輩にも非があると思う。
乙女心を弄ぶようなからかいをして、私を混乱に陥れた罪があると思うのだ。だから泣いてなんかやらない。嬉し泣きなんて絶対してあげない。
「……ふっ。ぐっ……」
涙腺は絶対緩めない。完璧に栓をして、前原先輩には弱味は見せない。
私の様子を見て首を傾げる響ちゃん、菜々花ちゃん、桐生会長には真実は話してあげない。何事かと心配げに私を見つめる凪にすら、教えてあげない。今回の件は、墓場まで私だけの秘密にするのだ。
今回は負けを認めます。込み上げる愛情と、まんまとしてやられた悔しさを胸に深呼吸を繰り返す。ヒッヒッフー。
「(俺はずっと、待ってるよ)」
そんな時、不意にそんな呟きがやけに鮮明に耳を通り抜けた。同時に溢れ出す親愛の情。胸が、締め付けられる。
私はもう二度と、この人の愛も、自分の愛も疑うことはしないと誓う。何も持たない私は、だからこそひたむきに愛を示さなければいけない。私に出来ることなんて、それしかないのだから。
今回は、ただの前原先輩のおふざけだ。前原先輩自身も、私がこんな大嵐のように思考を展開させていたなど知る由もないだろう。だから、今回は、私だけの秘密だ。人知れずした、誓い。これを生涯大切にするのだ。
この断固とした誓いをひっそりと胸に宿しつつ、模擬授業を終え、施設案内を経て、今回のオープンキャンパスは終わりを告げた。
私は何も持たないからこそ、これからなんでも持つことが出来る。空っぽの分、そこには前原先輩への愛を詰め込もう。
前原先輩はこんな性格だから、きっと何人もの妻を娶るのだろう。その中で、1番魅力的にならなくてもいい。1番愛されなくてもいい。
でも、前原先輩を、夫を何人もの妻の中で、1番愛そう。
そんな妻に、私はなりたい。
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