第81話 オープンキャンパス4





 膨らませた風船に小さな穴を開け空気が抜けていくが如く、身体の節々から活力が零れ落ちていく。加速度的に零れ落ちるスピードは増していき、最早取り返しがつかないと思えるほど。ダラりと四肢を椅子から投げ出し、第三者の視点から見れば、怠け者、そう指さされてもおかしくは無い姿勢で腰掛ける。


 ちらり、と元凶とも呼べる隣の幼馴染みへと目線を向ける。


「すーーーーっ……」


「……」


 これ程までの敗北感を味わわされたのは、初めての経験だ。

 幼馴染み、東堂凪には今まで少なからず劣等感を抱いていた事実は否めない。成績優秀、容姿端麗、彼女に憧れる後輩も1人や2人ではない。可愛げのある口の悪さは一先ず置いといて、周りが視え、気遣い上手で人格者。劣等感を抱かずに何を抱けと言うのか。そんな彼女に、生まれて此方何かでまさった記憶がないのだ。

 そんな私だけど、なけなしの勇気を注ぎ込み果たした前原先輩へのプロポーズが物の見事に成功し、凪に意趣返し、という程ではないにしろ、少しくらいはギャフンと言わせる事が出来たと自負していた。勿論、凪はいい子で彼女に悪意などある筈も無いし、勝手に引け目を感じていたのは私の方だ。そんな器が矮小な私だからこそ、何か1つでも凪に勝り醜い優越感を享受したいと、そう奮起していた。それが前原先輩へのプロポーズ実行を後押ししたのは言うまでもない。


 それが、どうだろう。


 これが天罰なのだ。潔白な彼女に、醜い私が醜い自己欲望を向けた成れの果てが。


「……かぐわしい香り」


「……」


 この現状というわけなのだ。


 神様……いいえ、前原仁様。大切な、愛する幼馴染みに邪な感情を持っていた私めをお許しください。

 凪のおっぱいに触れてみて、『フッ、柔らかさでは勝った』とか勝ち誇ってすみませんでした。懺悔します。


「アーメン……」


「……さっきからその奇行は何なのかしら?」


 宙に浮かぶ前原先輩に祈りを捧げていると、いつの間にか凪が心底理解できないモノを見るような眼差しを私に向けていた。


「凪に最大級の敬意と謝罪の念を送ってたんだよ……!」


「……そう。目障りだからやめなさい」


「うっ!本人からそう言われては否応もないです」


「ま、蜜柑の奇行なんて今更だわ。それより一緒にこの机、か、嗅がないのかしら?」


 凪は、『ハッ』と呆れ顔で鼻を鳴らした後、途端に端麗な顔を恥じらいの色に染めながらそう問う。それを聞くためには自らの行いを省みる必要があり、自分が如何に性分にそぐわない行動をしていたか自覚した━━━そう、凪の百面相ならぬ二面相から伺える。


「えっ!いいの?だってさっきはダメって……」


「譲るのは勿論嫌よ。でもこの甘美な香りを一緒に堪能するのはやぶさかじゃないわ」


「……」


 先程の名残か、まだ僅かに赤い顔をそっぽに向けながら言い放つ。そのいじらしい姿を見ていると私の醜い葛藤だとか悩みだとか、そういう負の感情が頭から蒸発していくのがハッキリと感じられた。


 勝ってるとか負けてるとか。優越感とか劣等感とか。くだらない。心底くだらない。


 私達は端からそういう間柄じゃない。そんな無粋な感情に支配されるために凪と過ごしたわけじゃない。


「……蜜柑?」


 私はこの子が、凪が大好きなんだ。

 暖かくて冷たくて愛想良くて無愛想で優しくて冷酷で、色んな一面を持っていて、一緒に居て心地いいこの子が。


「ううん!じゃあ遠慮なく嗅いじゃおっかなぁ!ついでに凪の匂いも一緒に嗅いじゃおっかなぁ〜!」


「……」


「汚物を見るような目が痛い!」


 この子と前原先輩、2人と共にする人生はどれ程眩しくて素晴らしいだろう。凪のプロポーズが成就するように私も精一杯尽力しよう。2人で先輩に嫁入りなんてそんな幸せな未来を思い描いても許されるのだろうか。強欲が過ぎると、神様から咎められる危険はないだろうか。でも、例えそうだとしても、私は……。


「「すふーーっ……」」


 2人で前原先輩の香りを嗅ぎ込みながら決意を新たにする。

 私は前原先輩の将来の妻を確約された、世界随一のラッキーガール。この幸運を遺憾無く発揮する。全部、全部手に入れるんだ。


 幼馴染みに見られないよう、机の下で密かに拳を強く握った。



* * *



「はい、皆さんこんにちは」


「「「こんにちは」」」


 強く決意した後数分経った頃。先程の説明会にて舞台に立っていた出来る感じの女の先生が教室に入ってきた。名前を福岡と言っただろうか。

 彼女、福岡先生が入室した途端に喧騒は鳴りを潜め、生徒達は姿勢を正す。誰も、自分が目指している高校の教師に悪印象を与えたくはないのだろう。


 話に聞く限り、この教室、1年1組の担任をしているらしい。つまり前原先輩の担任ということだ。


「この教室は『現代社会』の模擬授業を行います。皆さん教室は間違えていませんか?」


 この問いに反応する生徒はいないようだ。


「はい。では今から『現代社会』の模擬授業を始めます」


 福岡先生が教室を一通り見渡した後、一度頷くと少し声のボリュームを上げそう宣言する。


 きたきたきたきた!

 遂に遂に、今回のオープンキャンパスのメインイベントの一つである模擬授業が始まる!今回の説明会で聞いた情報は、前回の説明会で既に知っている。私達が求めていたのは、男性の先輩━━とりわけ前原先輩とお近付きになれるこの模擬授業と施設見学なのだ。説明会は言わば前菜。メインディッシュを引き立てるために、こちらの気分を高揚させるためのイベントなのだ。そう言い切ってしまうと、説明会に参加していた人達には失礼に当たってしまうかもしれないが、これが正直な気持ちなのでどうか許して欲しい。

 

「と、授業の本題に入る前に、既に知っている人もいるかもしれませんがお知らせがあります。説明会では言及しませんでしたが、実は模擬授業には生徒会員並びに前原君が貴方たち生徒と共に参加する予定です。……どの先輩が、どの授業に参加するかは授業参加者生徒達の意向には配慮出来かねますので、お目当ての先輩が来なくとも文句は言わないように」


 鼻息荒く説明に耳を傾ける私達に不安を覚えたのか、福岡先生が釘を刺してくる。

 その瞬間ビクリと肩を震わせる生徒がちらほらと見えた。


 や、やだなぁ。品行方正、前原先輩の妻筆頭である私がそんなはしたない真似を、す、するわけない。


「………。まあいいでしょう。では早速ですが先輩達に入室してもらいます」


 『ドクン』と一際強く心臓が脈打つ。酷く耳をつんざくその音は周りの人に聞こえてしまったのではないかと疑う程、大きく響いた。期待と不安の汗が背中を伝う。


 大丈夫、大丈夫。前原先輩を引き当てる確率は3分の1だ。3分の1というと、あれだ、ジャンケンで勝つ確率と一緒だ。そこに私の未来の妻補正を考慮すると、うん、間違いなく引き当てると思う。


 深く思考し自らを奮起させるために視線を机に落とす。

 その行為とほぼ同時のこと。


『ガララ』


 教室に2つあるドアのうち黒板側━━━前側のドアが開かれる音が聞こえた。未だ心の準備が出来ていないため、処刑執行の宣告のように感じた。

 しかし私は反射的に、弾かれるように顔をあげてしまう。大丈夫。チャンスは3回ある。例えこの1回目に前原先輩がいなくとも、希望が潰えるわけではないのだ。だから不安など感じる必要はない。


 そう心を励ましながら……




「えーと、皆さんこんにちは〜。前原仁で〜す」



「「「ぶふぉっ!?!?」」」



 ぶふぉあぁっ!?!?

 ぶっ!?まっ!!!?


 盛大に吹き出す生徒達を目にして、彼は、前原先輩は心底愉快そうに笑う。


 唐突な大本命の参入により脳の思考が誤作動を起こす。もちろん望んでいたことだ。そうなのだが、こうも突如として叶ってしまうと驚愕と混乱が勝ってしまう。


 例を挙げるなら、そう、城をおとすために大軍を率いて正門から突入した瞬間に、城主が『よっ!』とそれはもう気楽に話し掛けてきたような、そんな感じ。私はあなたの よっ友か。


 例えば、福岡先生が前振りを完璧に行い、且つ前原先輩の入室まで時間を取り、私達生徒の心の準備を完了させてくれていればこのような事態には陥らなかっただろう。

 あまりに福岡先生がさり気なく入室を促すものだから、今回は望み薄かな、そう早々に結論づけてしまっていたのだ。

 ニヤニヤとした笑みを顔に貼り付ける福岡先生からも意地の悪い魂胆が窺える。


「(こ、こんなことが)」


 机に飛び散ってしまった鼻水やら唾液やらをハンカチで拭いつつ前原先輩を見やる。


 ……う、美しい。何百回、何千回と見る度にこんな生物が存在していいのかと疑問に思う。神の手が介入しているとしか思えない造形美。こんな人と将来を誓い合った喜びと、同時に私がこの人の妻足り得るのかという焦燥と不安を覚える。


「みんな良いリアクションしてくれて嬉しいなぁ」


「「……」」


 しかしそんな不安も前原先輩が視界に入るだけでこんなにも呆気なく浄化されてしまう。悪戯が成功した子供みたいな笑顔がこんなにも胸に刺さる。


「む、むねが……ぐるじい……」


 胸がキュンキュン……いや最早『ギュンギュン』してしまい、とてつもなく苦しい。しかし何故か嫌な感じはしない。マッサージの痛気持ちいいと似たような感覚なのかもしれない。


 こんな状態で果たして将来家庭を築けるのだろうか。一緒に暮らすどころか数分同じ空間に居られるかどうかすら怪しい。あの方が身に纏う神気は、私達一般人には耐え難いのだ。眩しくて尊くて。差し詰め、前原先輩が美天使だとすると、私はズボンのポケットに入れられたまま洗濯されてグズグズになったレシートの残骸だ。それくらいの差がある。


 いつかこの差が縮まるような奇跡が起きると信じて。


 今日も彼を愛し続けるのだ。この後の模擬授業など頭の端に追いやった私は、ただひたすらにぼんやりと愛する人を目に焼き付ける。

 いつでも思い出せるように。


 

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