第74話 後悔はしない





「……ん」


 ご主人様はどうやら気を失ってしまったようだ。私が駆け付けたからには安心して欲しい。煮え滾る怒りを押し殺しながらその痛ましい姿に目をやる。

 身動きができないように手足をベッドに拘束されている。ご主人様の体勢からは怪我を全て確認することは出来ないが、カビ汚いベッドのシーツには血が滲んでる。私が来るまでの凄惨な現場は想像に難くない。


「……」


 やはり無理にでも付いていくべきだった。ご主人様の意向を優先しようとした結果がこれ。判断を間違えた。私が間違えた。逆らおうとも、何としてもご主人様の安全を第一に考えることが正解だった。


「……あは。人の家の壁吹き飛ばしちゃって」


「……ん、あなたは死刑にすると決まっている。大人しく投降するといい」


 ご主人様を拉致した女は小汚いシャツに付いた埃を払いながら立ち上がる。もし抵抗するようならその時は仕方がない。ご主人様を傷付けたこの女への鬱憤ばらしも兼ねて多少……いやかなりの暴力には目を瞑ってもらう。過剰防衛など知らない。


 不祥事を起こせば、本部からご主人様の担当を外される事態になる。しかし最早ご主人様に危害が加わってしまっている以上、私が新人とはいえ責任追及は免れないだろう。どのみち今のこの状況になった時点で、これまで通りご主人様の担当を続けられるとは思っていない。それは希望的観測が過ぎるというもの。


 なら、我慢はしない。


 不健康そうな顔色の女が私をじっと見つめてくる。……なに?たとえ今更懇願しても許さない。


「そんなに怖い顔しないで。凛海達の仲でしょ?」


 すると、女があっけらかんとそんな事をのたまう。


「……?」


 リミ……?知り合い?


「……あは。やっぱり覚えてないんだ〜。……昔っからマルちゃんのそういう所凛海大っ嫌いだよ」


 ご主人様に出会うまでは他人に興味なんて微塵も湧かなかったため名前を覚えている知人など数える程しかいない。

 言われてみれば何処か面影に見覚えがあるような気もする。いつだったか。


「まぁ思い出せないなら別にいいよ〜。それにしても、風化して建物寿命間近とはいえ壁を蹴り砕いてくるなんて相変わらず化け物じみてるねマルちゃんは」


「……あなたの無駄話に付き合うつもりは無い。そこの大量の工具から考えてご主人様に害を仇なす存在であることは明白。即刻排除する」


「あ、これ?冗談に決まってるでしょ!凛海がダーリンが本当に嫌がることするわけないじゃん。確かに惨たらしく殺したいけど……死んで欲しくないし嫌われたくないから。凛海は我慢出来る子だよ?」


「見る限りご主人様は何ヶ所か負傷している。そんな戯言を聞く気は無い」


「……いやぁ、その。我慢できなくなっちゃってちょっと刺しちゃったんだけど。でも深くは刺してないよ?この工具用品達もただの脅しだよ。ダーリンの怯える顔が見たかっただけで本当に使う気はなかったよ?」


 露も悪びれずにリミと名乗る女は語る。初見で見抜いていた。この女は狂っている。罪悪感など感じる余地はないのだ。


「それにしてもダーリンの侍衛官がマルちゃんとはね〜。どうせダーリンの体のどっかに小型のGPS発信機でも仕込んであるんでしょ?」


「……」


「ダーリンがもしSBM付きだったとしても、それがただのSBMなら、こうして助けが来るまでにえっち1回分位の時間はあった計算だったんだけどな〜。でもそれがマルちゃんなら話は変わってくるよね。……あは。読み違えちゃったな。妨害電波流してるし問題ないかと思ったんだけど……。手間だけど発信機探すべきだったかな?でもそしたらえっちする時間なくなっちゃうし……」


 それにしてもよく喋る。知り合いなのかどうかは分からないが、旧知の仲という訳では無いし、こんな女とそんな関係だとは思いたくはない。この辺りが潮時か。


「……ん。長話はもうたくさん。そろそろ終わりにさせてもらう」


「……」


 事前に使用許可を本部に申請していないため、今は拳銃は所持していない。代わりに愛用している漆黒のトンファーを取り出す。打撃から防御、更には関節技など多彩な動きに合わせられるこの武器は非常に万能だと言える。とても重宝している。


「覚悟するといい。楽に死ねると思わないで」


 トンファーを構える。ご主人様の報いを受けるがいい。さっさと秒殺してご主人様を直ぐに病院へ連れて行く必要がある。手間はかけさせないで。


「……あは。ちょっと不利かな?」


 この女口調は軽いが、油断なくこちらを見据えている。まず間違いなく戦闘の訓練を受けた経験がある。一体何者?


「「……」」


 双方とも相手の動きを伺う。

 ……何故か何処と無く懐かしさを感じる。こうして相対するのは初めての筈だけど。一体何処に懐旧の情を抱いているのか。ふとした日常生活でデジャビュを感じる事は少なくない。気にしないのが吉だろう。


「……やーめた」


「……?」


 女の弛緩した一声により、張り詰めた空気が霧散する。女が臨戦態勢を解いたのを見て、私も構えていたトンファーを下ろす。


「むりむり。今の凛海じゃマルちゃんには勝てないよ〜」


「……ん。よく分かっている。では大人しく……」


「投降はしないよ?勘違いしてるかもしれないけどこの家は凛海のじゃないからね?ただの空き家。この家から凛海を特定出来るとは思わないでね」


「往生際が悪い。ならどうするの?」


 拳は握らない。かと言って諦念を感じさせる佇まいにも関わらず、投降もしない。第三の選択氏である逃亡も私なら問題なく阻止出来る。つまりこの女は詰んでいる。私を現場に到着させた時点で敗北は決定している。それは揺るぎない。


「……あは」


 女は薄気味悪い笑みを浮かべながら足元に転がるアイスピックを拾い上げる。切っ先は赤い液体で染まり、それが誰の血なのか容易に想像出来る。


「……」


「戦っても敗北は必至。降参は論外。それにおそらく逃がしてもくれない。……じゃあこうするしかないよね?」


 嫌な予感がする。この女は今から何かする。この場で最優先して守らなければいけないのは?決まっている。

 私は女の言葉を最後まで聞くことなく、ご主人様の傍に素早く移動する。


「相変わらず良い勘してるね!はい、ご褒美だよマルちゃん!」


 女がご主人様目掛けてアイスピックを投擲する。躊躇なくこちら側が1番嫌な標的を狙ってくるとは、嫌な性格をしている。


「……底意地の悪い」


 ご主人様に命中するような事があれば切腹も考える。私は細心の注意を払いながら、油断なくトンファーでアイスピックを叩き落とす。


「……あは。これはマルちゃんの弱点見つけちゃったかな?」


 気付けば女は先程まで居た位置ではなく、窓枠に足を掛けた状態で此方を一瞥する。……上手く陽動に使われた。ただ最善手を打った事は疑いようがないし、私には今以外の選択肢は見つからない。


「今日のところは引くね。……ダーリンは渡さないよマルちゃん」


 最後にそう言い残し女は窓から脱出した。


「……」


 追い掛けて捕縛する事は、恐らくできる。出来るが、少々時間と手間が掛かってしまうことは間違いない。だとするなら、優先すべきは憔悴しているご主人様。深追いはしない。


 あの得体の知れない女についてはまた調べておくことにする。


 兎に角今はご主人様。早急に病院に連れていかないと。電話を繋げ事情を説明する時間ももどかしいため、本部に救援要請だけしておく。GPSで位置は分かるだろうし、向こうで色々準備は整えてくれるはず。問題ない。


 先ずは私でご主人様の拘束を外す。



* * *



「……ん」


 幸いにも工具はそこらじゅうにあったため、5分程でご主人様の拘束器具を全て解体出来た。一応丁重にはしていたのだが、その過程でご主人様が目を覚ました。思ったよりは傷は深くないらしく、本人曰く痛むがそれ程気にする必要は無いとのことだった。

 救急隊が来るまでこの部屋で安静にすることにする。


「……そっか、逃げられちゃったんだね。それにしても助けに来てくれて本当にありがとうソフィ」


 木漏れ日のように暖かい笑顔で頭を撫でてくれる。相変わらず素敵な表情。

 もう微塵も仮ご主人様の雰囲気は感じられない。この人は、間違いなく私の大切なご主人様だ。


「……ん。至福」

 

 やはりご主人様の『ナデナデ』は別格。必死に頑張った甲斐が有るというもの。この『ナデナデ』の魅力に取り憑かれた女は数知れず。中毒性も孕んでおり、恐らく兵器級の危険度がある代物。


「……ところでソフィ。今何曜日の何時?」


「……ん、土曜日の20時」


 ご主人様が神妙な顔付きになる。『思ったより時間は経っていないな』『という事はそんなに距離は離れていない?』『まだ間に合うか?』などブツブツと独り言を唱えている。……一体どうしたのだろうか。


「ねぇソフィ」


「……ん」


 真剣味を帯びた端正な顔が私に向けられる。ここまで引き締まった表情は中々お目にかかれない。自然とこちらまで身が引き締まる想いだ。


「……ソフィは許してくれないだろうけど。俺今から同窓会行ってくる」


「……!?」


 ご主人様の口から発せられた言葉は想像だにしないもので。今の今まで監禁され暴行を加えられていた人の発言ではない。


「……それは許可できない。今は同窓会なんて行ってる場合じゃない。直ぐに救急隊が駆け付ける。だから……」


「ごめんソフィ。俺は今じゃないと駄目なんだよ。全部思い出した。だから、今しかない」


「……それでも今のご主人様は―――」


「俺の言葉で縛り付けている人がいる。その人を憂う人がいる。どっちも可愛い女の子だ。それだけで、理由は十分でしょ?」


「……」


 どうして。ご主人様は心身ともにボロボロで他人を気遣う余裕なんて無いはず。分からない。分からない。


「例えソフィが許可してくれなくても俺は無理矢理にでも行くよ。自分でそう決めたから」


 ……。


 ご主人様は記憶喪失に陥っていたが、つい最近記憶を取り戻しつつあった。既に仮ご主人様ではなくなっているみたいなので、恐らく必要な記憶は粗方思い出したのだろう。そのご主人様がこのように決断したということは、一時の気の迷いではないということ。


「……ん。分かった」


「!!ありがとうソフィ……」


「ただし条件。私も一緒に行く。勿論同窓会に参加はしない。けど少し離れた位置から監視させてもらう。これ以上は妥協出来ない。何かあった時に対処できないのはもうたくさん」


「……うん、それでいいよ」


 何故ご主人様はこんなにも人の為にひたむきになれる?何でご主人様の言葉には重みを感じる?分からないことだらけ。

 ……いつか答え合わせは出来るだろうか。私がこの人に感じた『特別』の。


「じゃあ行こっかソフィ」


「……ん」



 こうして私達は暗く静かな夜道を2人で走り出した。


 

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