第69話 おなじで違う








「はぁ……それにしても俺がなぁ」


 テーブルに顔を突っ伏し、盛大に嘆息する。


 まさかよりにもよって自分が記憶喪失になるなんて。嘆きたい気持ちが大半なのだが、何故か僅かな高揚感が顔を出す。記憶喪失に興奮するなんて余程のガキか、現実が見えていないバカくらいだろうに……。


「でも本当に記憶が戻ってよかったね。あとで一緒に病院に行こっか」


 母親がそんな事を口にしながら淹れたてであろうコーヒーを俺の前へ差し出す。これは一旦心を落ち着かせようと俺が先程頼んだものだ。カフェインには頭痛を抑える効果があるというしな。正直耐えられないほど痛い。


「ん」


 勿論ブラック。砂糖やミルクなどの不純物は雑味にしかならない事は全人類の共通意見なわけだ。だがそれらを大量に入れる蛮族もたまに生息していることは否めない。


 俺は顔を挙げ、目を瞑る。


『ズズ……』とコーヒーを啜る者を時折見かけるがあれは褒められたものではない。否定する気はないが、俺は決してやらないだろうな。まぁ猫舌であれば仕方ないとも思う。


 そんな事を考えながら愛用しているカップに口をつける。随分久しぶりに香りを嗅いだ気がするものだ。これも記憶喪失の影響か。まぁ新鮮味が常に味わえるためそこまで嫌いな感覚ではない―――



「ぶふぉ!?」



 次の瞬間、俺は豪快にコーヒーを吐き出した。


 あ、甘い?何だこれは?


 舌が心地よい苦味を感じ取る準備をしていたというのに、俺を襲ったのは不快な甘味。舌が引き締まるのではなく、甘味によってホロホロと侵食されるこの感覚が俺は大の苦手なのだ。


「ジンちゃん!?」


「ゴホッゴホッ!なんで砂糖入れるんだよ!ミルクも入ってないか?」


「え?え?だって、ジンちゃん最近はずっと無糖なんて飲まなかった……のに」


「あぁ!?」


「ん、恐らく以前のご主人様とは嗜好が違っている。記憶を無くす前は無糖が好きだったと予想」


 おろおろと慌てる母親を追求していると、白銀が横から口を挟んだ。その言葉で気付かされたようだ。


「あ、そっか。……記憶が戻ったんだもんね。うん、もう砂糖とかミルクはなしでいいんだ」


 母親は気落ちしたようにそう呟いた。ほんの数分前までは俺の記憶が戻ったとはしゃいでいたにも関わらず。


「……しっかりしてくれ」


 なぜか、心に何かが引っ掛かった。『なぜか』とか『何か』とか抽象的にしか表せない。母親の顔を見ていると、胸がかきむしられる。とても、不愉快になる。だからなのか悪態をついてしまった。


「あははごめんね。……このコーヒーは下げるね」


 母親がヘラヘラと笑いながら、カップを手に取る。その声色と指先は少し震えていた。


「……」


 何なんだよ。

 訳が分からん。



* * *



 その後、母親の態度に疑問を抱きつつも、記憶喪失状態であった期間について2人に教わった。


 学校に毎日通っていること。

 弓道部に所属していること。

 色んな女とつるんでいること。

 同窓会が控えていること。

 その他諸々。


 数々の奇行に正直頭を抱えたくなる。何なんだそれは。誰なんだ。話が進められていくうちに段々と憂鬱な気分になってきた。記憶喪失であったと聞かされ、非日常に浮かれていた所を打ちのめされた気分だ。

 ただ、どれもしっくりくるもので、なんというか納得した。なんでだろうな。まあそりゃ転生したらハーレム作りたいだろうし。


 ……。

 え?転生?


「……ん、ご主人様の最近は大体こんな感じ。理解できた?前原仁」


「……ま、まあわかったと言えば分かったが。だが1番大事なことをまだ聞いてねえな」


 唐突に脳内に現れた転生という単語は一先ず置いておく。


「……?」


 白銀は思い当たる節がないらしく、首を傾げる。フワリと揺れる髪から、鼻腔を刺激する甘い匂いが漂う。


「お前だよ。お前」


「……ん、わたし?」


「そうだよ。結局誰なんだお前は」


 そこまで口にしたところ、白銀は納得がいったような表情を見せた。

 そう長々と過去と現状を語られたのは良いのだが、肝心のこいつ自身の自己紹介がなかったのだ。知らぬ間に俺の家に当たり前のように受け入れられている外国人に、淡々と俺が知らぬ俺自身について語られる居心地の悪さが想像できるか?


「初対面の人にはまず自己紹介から。基本だろ?」


「……ん、申し訳ない。わたしからすれば初対面ではない。よって失念していた」


「御託はいい。で、誰なんだ」


 俺と白銀のやり取りに、母親がどうして良いか分からないという様相でいる。どういう対応をすべきか決めかねているのだろう。


「あ、えっとねジンちゃん。この人は」


「ん、母君。紹介は無用。ここはわたしから」


「そ、そう?じゃあお願いね」


「ん」


 白銀はそう短く応えると、椅子から立ち上がり背筋を正した。中学生のような身長にも関わらず様になっているのは、着ている服が黒スーツだからだろうか。


「わたしは男性特別侍衛官のソフィア・マルティス。今はあなた、前原仁の侍衛の任に就いている。よろしく」


 端的にそう述べた。引力を持つその菫色の瞳はこの人物が只者ではない事実を如実に訴えてくる。強かに気高く在るこの白銀へ疑う余地はないだろう。男性特別侍衛官か。大物だ。少し驚いた。


「……」


 だが、それよりも見過ごせない事がある。この光景に見覚えがある。 

 デジャブと言ってしまえばそれまでだが。以前にも、似た台詞を似た状況で聞いたような。

 胸が描き毟られる。何かが噴き出してくる気がする。本当に大切な何かが。


 記憶の湖から、一滴の描写が思考に色を付ける。それは微細で、しかし確かに変化が加わった。


「ソフィア・マルティス……ソフィア・マルティス……」


 反復し、喉に引っかかった小骨のような記憶を手繰り寄せる。もどかしい作業だが、諦めてしまう方が何倍も気分が悪い。


「ん、難解な名前でもない。そう繰り返さなくてもすぐに覚えられ……」


「ソフィ……?」


 白銀の言葉を遮るように、俺の口から『ソフィ』とそう零れ落ちた。それは意識しての行為ではない。口をついて出てしまっただけだ。ズキリと大きく頭が一度痛む。


「え!?ジンちゃん、思い出したの?」


「……そういうわけじゃない。大きな声を出さないでくれ」


「あ、ごめんね……」


 取り敢えず母親の頭に響く大声を止めさせる。

 さっきのは思い出したとか思い出してないとかではなく、単なる反射のようなものだ。ソフィア・マルティスとソフィ。恐らく愛称か?俺が知らない、俺が記憶喪失状態の時の前原仁。仮にジンとしておこうか。ジンは普段から白銀をソフィとそう呼んでいたのだろう。

 無意識に俺が呼んでしまったのは、所謂『体が覚えている』というやつだ。


「思い出してはないが、ソフィと俺はお前をそう呼んでいたはずだ。違うか?」


 確信に近い推測を白銀に告げる。ここまで散々こいつのペースに乗せられてきたからな。振り回された分、仕返しをしたい。どうだ、ピタリと言い当てられて結構驚いているんじゃないか?


 溜飲を下げたい一心で、僅かな笑みを浮かべつつ白銀を見やる。


「……」


 しかし、白銀は少し不快そうに眉をひそめていた。

 俺が初めて白銀と会ってからこれまで、奴は感情の機微を表情に全くと言っていいほど出さなかった。常に眠たげに瞼を垂らした無表情で何処か達観していた。

 それが事ここに来て何故か崩れた。


「おい、ソフィ。何かあったか?」


「……。ん、前原仁」


「どうしたソフィ」


「わたしをソフィとは呼ばないで欲しい。それ以外なら何でもいい」


「……は」


 一瞬、言われている意味が分からなかった。ソフィと呼ばないでくれ?そう言ったか?俺に?


「いや、いや。なんでだよ。俺が言ったことは間違ってないだろ?ジンはソフィと呼んでたはずだ。そうだろ?」


 俺はその推測に確信を抱いている。真偽を確かめるべくもなく、他でもない俺の体がそう言っているからだ。間違うわけがない。


「ん、確かにご主人様はわたしをソフィと呼んでいた。でもそれはご主人様であって、前原仁、あなたではない。わたしはご主人様にソフィと呼んで欲しい」


「……何を言ってんだ?お前が俺の何を知ってるのか知らねえが、ジンは俺だ。お前のご主人様とやらは、この俺で合ってる」


「残念ながら、あなたとご主人様は全くの別人。目を見れば分かる。男性特別侍衛官としての観察眼がそう言ってる」


「……狂ってやがる」


 頭大丈夫かこいつ。男性特別侍衛官は変人の集まりっていう噂は本当だったか。こうも話が通じないとは思わなかった。


 記憶の有無は確かに致命的な違いだ。培った記憶は人格を形成する。その性質故に、記憶がある場合とない場合では、周囲が当人に関わった場合莫大な齟齬を感じるだろう。それは当たり前で普遍的なことだ。

 しかし、ならばそいつは別人なのか?


 いや違う。それはどちらも本人だ。


 致命的な違いであったとしても、絶対的な違いではない。白銀はそれを理解していない。だからこいつはジンの面影を追っている。俺とジンを別々に考えている。俺はジンで、ジンは俺なのに、だ。


「ふう。埒が明かん。お前からも何か言ってやってくれ」


 白銀の説得には骨が折れると思い、母親に目配せを送りつつ助力を願う。


 すると母親は何かに逡巡するかのように大きく瞳を揺らし、目線を一度下げると、意を決したように言った。


「……ごめんねジンちゃん。私も『お前』とはあんまり呼ばれたくないかな。お母さんでも母さんでも、名前でもいいからさ」


 白銀だけでなく、あろうことか母親まで気が狂っていたか。さっきのコーヒーの一件で様子がおかしかったのも、さてはジンの事でも思い出してたか?下らない。


「お前ら分かってんのか?これまでのジンがどんな振る舞いをしてどんな関係を築き上げてきたのかは知らない。そいつと俺との違いに戸惑う事もあるだろう。だが、ジンと俺は本質的には同じだ」


「ん、同じではない。ご主人様は母君を『お前』とは呼ばない」


 白銀はあっけらかんと口を開く。


「だから!それは表面上の違いだろうが。記憶がないんだから多少の違和は仕方ないと割り切れよ」


「ん、本質だの表面だのの議論に意味は無い。別にわたし達はご主人様の影をあなたに背負わしたい訳じゃない。ただお願いをしているだけ」


 くそ。なんだこの水掛け論は。全く噛み合ってない。それに頭痛が酷い。頭が割れそうだ。


「さっきから、ご主人様ご主人様、ジンちゃんジンちゃんって随分馴れ馴れしいが、ジンは余程器が広かったみたいだな?そんなに俺と掛け離れてるか?」


 頭痛のせいか、言いたくも無い事を口にに出してしまう。俺とジンは同じだと訴えながらも、その違いを声高に叫ぶ。矛盾も甚だしい。


「ん、ご主人様は確かに凄く優しくてカッコよくて可愛くてイケメンだった」


「……」


 白銀が俺の問いに一瞬の間隔も開けずに首肯する。

 こいつ、何の迷いもなく肯定を……。なんかイラッとくるな。そんなに俺はダメか?


「えっと、記憶喪失の時のジンちゃんが優しかったのは本当だけど、昔と今のジンちゃんも優しい子だよ」


「いやそんな世辞の権化みたいなフォローはいらん」


「えっ?いや本当だよ?ちっちゃい頃なんかよく綺麗な泥団子をプレゼントしてくれたんだよ」


「……昔の話だ」


「ん、あなたにも純粋な頃があったらしい。今では見る影もない」


「ほっとけ」


 はあ。

 一旦落ち着こう。柄にもなく熱くなってしまった。そもそも俺はこんなお喋りな性格ではない。寡黙で必要最低限の言葉しか発しない、そんな奴だったはずだ。らしくない。らしくない。


「とにかく、俺は記憶が戻ったらしい。以前の俺との相違点が看過できないこともあるだろう。だが今は飲み込め。取り敢えず落ち着いたら病院に行こう。話はそれからだ。それでいいな?」


 頭を掻きながら二人に視線を向ける。色々と言い合ってはしまったが、別に争いたいわけではない。ここは諸々については保留という形がいいだろう。


「ん、仮ご主人様」


「分かったよジンちゃん。でも前みたいに母さんって呼んで欲しいな」


「ぐっ……それは、無理だ。折衷案で柚香ゆずかと呼ぶことにする」


「えっ!?なんか、それはそれできゅん……」


「はぁ……」


 なんかこの母親神経が図太くなったか?昔はもっと俺のことを丁寧に、腫れ物に触るように扱っていた。傷付けないように、細心の注意を払って。

 俺はそれが子供にする態度なのかと当時は憤って、拒絶したもんだが……。


 今思えばそれは確実に俺のせいだろう。なぜかつての俺はその考えに及ばなかったのだろうか。視野狭窄にも程がある。


 記憶喪失を経たからか、少し思考に変化が訪れている気がする。それが良いことなのか悪いことなのか判断はまだつかないが……。


「それにしてもソフィ、仮ご主人様とはよく言ったもんだね?」


「ん、我ながらセンスに脱帽」


「私もジンちゃんに柚香って呼ばれちゃった」


「別に羨ましくない」


「えぇ〜」


 少なくとも、白銀……ソフィと母親……柚香がこうして談笑している様を見ている分には、悪い気分ではない。


 未だ鳴り止まない頭痛に苛まれながらも、俺はそう心から思った。


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