第68話 母親





 張り詰めた空気が満ちる。

 凛とした白銀は、尚も気高く俺にとある事実を伝える。

 その内容は、到底すぐには受け入れられなく、しかし妙な説得感を伴って鼓膜をつんざく。


 冷房が効きすぎているのか、寒気がした。


「きお……く、そうしつ」


「……ん」


 明瞭に聞こえたはずの単語を、間違いではないかと確認するために言葉にする。

 白銀は一切の表情を変えずに、顎を引いた。少しくらいは感情を表に出してくれてもいいんじゃないか。


 記憶喪失。 

 字面の通り、記憶を思い出せなくなる障害。原因は様々ではあるが、ほんの数秒記憶が飛ぶレベルから自分が何者なのか分からなくなるレベルまで存在する。物語では、その設定が盛り込まれた物も少なくはない。


「……マジか」


 実在自体が眉唾な疾患だ。確かに、世界の何処かで蝕まれている人がいるかもしれない。歴史を辿ると蝕まれていた人がいたかもしれない。

 だが、それに俺が陥るのか?

 認識としては、決して実際に目の当たりにした事がない、魔法やモンスターに類する超現実的現象だと言っても差し支えない。


 当事者になるなんて考えもしなかった。ただ日常を享受して、日々を浪費し続けていただけ。臭いものには蓋をし、逃避と諦観に塗れていた。

 そんな俺が、記憶喪失だと?

 ファンタスティックでミステリアスなあの?


 そんなこと。

 そんなこと……!


 ……。


 ……ッ!!



「(テンション上がるんだけど……!!)」



 マジか!記憶喪失マジか!

 ちょっと、カッコよくない?

 こう、悲劇の主人公みたいな?

 俺は、俺が分からない!とか言っちゃうのか?おい!


 この足元から迫り上がる武者震いと不安で楽しみな未来展望をどう表したものか。この夢見心地の程度を例えるならば、遠足を次の日に控えた小学生、いや、冒険に旅立つ直前の主人公か?


 場違いな感想だ、分かってる。記憶喪失なんて伝えられたら、普通なら項垂れ、絶望し、そんな事あるはずないと喚き立てるだろう。それが常人の反応というものだ。

 しかし、どうだろう。今の俺は記憶喪失によるデメリットなど何も見えていない。脳へのダメージの有無も、日常生活への支障も、人間関係の変化も。今はただ非日常が訪れた多幸感に塗り潰され。俺の全てを放り出し、俺はこの異質を受け入れる。

 それは楽観的とも非難される考えかもしれないが。俺は俺に恭順する。


「……」


「……?ん、前原仁、何をニヤニヤしているの?」


 白銀は俺の反応が心底理解できないとばかりに首を傾ける。菫色の宝石のような瞳に、端正な俺の顔が映っている。瞳の中の俺が浮べる笑顔は、狂気じみていた。


「……いや、何でもない」


 俺は、事ここに至って少し冷静さを取り戻した。自分を客観視すれば興奮も収まるというもの。

 ……うん、らしくない。限りなく、らしくない。俺はこうじゃない。こんな幼い思考じゃない。何もかも投げ打ってまで、リスクを度外視してまで好奇心に従うなんて有り得ない。


 この“らしくなさ“も記憶喪失が影響を及ぼしているのかもしれない。だとするなら、人格を歪ませる程の害は無視できたものじゃない。


 そもそも白銀は俺が3ヶ月間記憶喪失状態だったと言っていたな。勿論その間の記憶は今の俺には無いわけだが。ではそんな長期間『俺』として過ごしていた俺は一体何だ?そいつはどこへ行った?……記憶と人格の消失?それは実質的な『死』に他ならないが。


 何とかして記憶を呼び起こせないだろうか?例えば病院の―――


「ジンぢゃぁああああ!!」


「ぼはぁ!!」


 思考に耽ける俺を、唐突に骨が軋む程の衝撃が襲う。吹き飛ぶ景色。その勢いのまま、俺は床に倒れ込む。明滅する視界の中何とか状況確認に努めると。


「ジンぢゃ!!ぎおぐ!!戻ったんだね!?ぞうなんだね!?」


 涙と鼻水で顔面をコーティングした母親が俺を抱き締めていた。尋常ならざる力のせいか、ギリギリと嫌な音が響く。


「お、おい!離せ!弾丸か。日頃からタックルの鍛錬でもしてるのか!?」


「ぞの口調!前のジンぢゃんだ!うぁああ」


「いで、いでで!分かった!分かったから取り敢えず離せ!」


「ジンぢゃぁああ!!!」


 クソ。なんて馬鹿力だ。振り解ける気がしない。この細腕の何処からこんな馬力出してやがる。化け物か。このままでは抱き潰されてしまう。身体がひしゃげるのも時間の問題か。


「うぇぇぇええん!!ジンだゃぁ〜!!」


「くそがぁあああ!!!」




* * *




「……大変お騒がせしました」


「 ……ったく」


 十数分後、俺は落ち着きを取り戻した母親から平謝りされていた。頬を薔薇色に染めつつしょんぼりと体を縮こませている。

 文句の1つや2つ、3つや4つくらいは浴びせたい所だが、彼女の泣き腫らした目元を見ているとそんな気も失せる。これ以上深く追求するのは、格好が付かないだろう。


 今のタックルで頭痛が何倍も酷くなり、意識の混濁、新たな記憶の追憶など脳みその中身はグチャグチャだが、それを言うのも野暮というもの。もう、どれが自分の記憶なのか分からない。


「あー、まぁいいよ。その代わり俺が記憶なくなってた頃の事洗いざらい教えろよ?」


「う、うん!」

 

 俺の言葉に表情を晴れさせる。この人の感情表現が豊かなのは昔から知ってることだ。

 ……それにしても、俺はこれ程気軽に母親に接する事が出来ただろうか。愛に怯え、信頼を拒絶していたあの頃の俺は見る影もないように思う。この変化が良いのか悪いのか判断はつかないが……


「えへへ」


 ……母親のこの笑顔が見られるということは、決して間違ってはいないんだろう。そう、思っておこう。


「……ん、手間をかけさせないで欲しい」


「う、ごめんねソフィ」

 

「……ん」


 何を隠そう、母親に潰されそうだった俺の窮地を救ってくれたのはこの白銀である。俺のフルパワーでも逃れられなかった母親のホールドを、白銀はいとも簡単に解いてみせたのだ。それは、少し絡まったスマホの充電コードを解く労力とさほど変わらないように見えた。いつもの無表情で、無感情に、淡々とこなした。底知れなさに恐怖を覚えたほどだ。


「と、とにかく!」


 母親がパンッと一度両手を合わせる。自身の気恥しさやら何やらを払拭し、場の雰囲気をリセットしたいのだろう。またそれと同時に自分に注目を集めたいのだ。


 何だろうか。


「ジンちゃん」


「……?おう」


 母親が俺に視線を向ける。何処までも真っ直ぐに透き通っている。温かく慈愛に溢れたそれは、母性と、そういうのだろう。

 久方ぶりの感覚に、自分に少しばかりの戸惑いを感じる。柄にもないこの感情は、羞恥だろう。


「……おかえりなさい」

 

「……あぁ」


 まぁ今くらいは素直に返事しておこうか。

 未だに取り巻く頭痛と記憶流入に恐怖と不安を抱きながらも、気丈に返事を返しておく。


 

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