第67話 健忘症




「……ん、その前にまずあなたに聞きたいことがある」


 俺の絞り出したような言葉に、白銀が悠々とそう返す。こちらの気も知らないで呑気な口調だ。俺がおかしいと知っていながら、微塵も変化することの無いその態度には安堵を覚えるし、感嘆に値するが。


「……私。私の名前本当に思い出せない?」


 白銀が真っ白でしなやかな指で自分を指し、分かりきった質問をする。

 考える必要などない。こんな特徴的な少女を見紛うはずも、忘れるはずもないのだから。記憶からは思い出す取っ掛りすら見つけ出せず、言葉通り、全く覚えていな―――くはない気がする。

 恐怖と頼もしさ、確かな信頼を感じる。頭痛もこいつを見ていると酷くなるみたいだ。もう少しで、何かを……。


「……」


「……ん。わかった」


 その眠たげな双眸にはどんな感情が宿っているのだろうか。俺の無言の返答に心無しか肩を落とした雰囲気の白銀は、ゴソゴソと胸元から何か黒い物体を取り出す。


 なんだ?あの形見覚えが……。確か琉球古武術で使われる―――。


「……ん。私を知らないご主人様なんて嫌い。あまり気が進まない。しかし殴打療法により記憶を取り戻す」


 ―――漆黒のトンファーを構え、何の気なしにそう言い切る。熟達したその姿には、恐怖よりも先に感動してしまう程。

 意図せず、ゴクリと喉を一度慣らしてしまう。


 うむ。

 殴打……療法。聞いたことは無いが、そんな治療法が存在したとは。……。


「っておい!それ、トンファーで俺殴られるんじゃないの!?」

 

「だだだ、ダメだよソフィ!!」


 こいつ正気か!一目見た瞬間から只者ではないと感じていたが、まさかイカれたヤツだったか?やっぱりこいつ侵入者じゃないの?

 認識を改めなければいけないかもしれない。


「……ん、冗談に決まっている。そう騒がないで欲しい」


 白銀はやけにこちらの神経を逆撫でするように嘆息すると、やれやれと言わんばかりにトンファーを胸元にしまう。


「「……」」


 ぶっ飛ばしてもいいか?

 何故この俺が右往左往しなければいけないんだ。加えてツッコミ役まで押し付けられるとは。人生で1度もこんな恥知らずな行いなどした事は無いのに、何故か口を衝いて出てしまった。いまいち、この白銀のペースが掴めない。非常に相性が悪い、苦手なタイプと言えるだろう。


「……こほん。では、真面目な質問に移りたいと思う。ふざけないように」


 咳払いの後、白銀が俺と母親へ釘を刺すような目を送る。いや、ふざけてるのはお前だよ。ぶん殴るぞ。


 そんなこちらの思惑は無視し、白銀の顔が引き締まる。……ような気がした。

 今から本題に入るということだろう。


「ご主人様……いえ、『前原仁』。この名前は分かる?またあなたの年齢や、この家の家族構成は分かる?」


「……俺の名前は前原仁だ。年齢は、15歳……あれ?19歳?家族は……母親に、妹と姉が、1人ずつ……いや、一人っ子だったか?」


 当たり前の質問に戸惑いつつも、間違っているわけないと確信しながら、記憶に照らし合わせ齟齬がないか確認し答えを紡いでいく。それなのに、答えが2つあるかのように絞りきれない。別の人間のプロフィールを確認しているみたいで、気分が悪い。

 頭が、痛くなった。


「……ん、あなたの名前は前原仁。家族は母、姉、妹」


「……」


  19歳とかひとりっことかのよく分からないプロフィールは、どこかの本の登場人物か何かだろう。割と深入りして読んでしまう性だからな。


「……随分混乱している様子」


 くそ、頭打っておかしくなったのか。別の人間の生い立ちが流れ込んできているみたいだ。


「……ん、記憶が消し飛んだわけではない、と。じゃあ次の質問」


「お、おい!」


 非難の声が聞こえていないのか、矢継ぎ早に白銀が質問を続ける。その深く底が見えないまなこは俺を捕え、言い知れぬ焦燥感を煽る。


 分かったから。もう沢山だ。

 俺が悪かった、降参、降参だ。この茶番は終わりだ。俺が矛盾点に気が付いた段階で最早続行する意味は無いだろう。そうだ、早く飯にしよう。腹が減ってるんだ。

 だから、もうやめにしよう。


 頼むから。



「あなたの、意識が覚醒する前の最後の記憶は?」



 泣きたくなる程の焦慮しょうりょの中、いやに鮮明に問いが聞こえる。周りの音を払ったかのように耳に響き、あまりにも脳にすんなりと浸透する。


 俺の、最後の記憶。


『チッチッチッ』と秒針を刻む時計の音と、母親の不安げな息遣いだけが部屋にこだまする。

 もうこんな意味をなさない問答はすぐに辞めさせて、いつもの日常に戻りたい。何故、初対面の外国人にこうも問い詰められなければならないのか。不満は勿論ある。あるが、今この場を投げ出しても、それは恐らく根本的な解決にならないだろう事も心の奥底では理解している。


「はぁ……最後の記憶ね」


 観念した意思表示の代わりに息を一つ吐く。疑念も、不服もある。だまれ、うるさい、その一声で蹴散らすのも容易いがここは素直に答えておこう。

 嫌がらせの線で予想するにしても、俺が数々の違和感を抱いているのもまた事実。ポリポリと頭を掻きながら答えを口にする。



「最後の記憶って、決まってんだろ。階段から落ちて寝込んでたんだから、階段から落ちた記憶が最後だろうよ」



 ほら、これで満足か?納得したか?くだらないノリに付き合ってやったんだ、相応の謝礼があるんだろうな。


 そう憎まれ口をききたくなるが、グッと感情の発露を抑え込む。俺はガキではない。苛立つ事も勿論あるが、それを何の抵抗もなく表に出すのは精神が未成熟な証拠だと言える。その辺り、欲を喚き散らす滑稽な男共はガキと遜色ないのは間違いない。

 

「……」


 ん。

 そう言えば、俺の返答に反応がないな。完璧すぎて返す言葉もないか?


 空間に流れる空気の色にも気が付くことなく、俺は呑気に得意気に見返す。

 

「……あぁ」


 それと、小刻みに震えた涙声が聞こえてきたのは同時の事だった。


「……ん?」


 その発生源は白銀と向かい合う俺の丁度後ろ。わざわざ位置を確認せずとも、目の前の白銀が口を開いていないのは一目瞭然であるし、この部屋にいるのは3人の人間だけだという事を鑑みると答え合わせは必要ないだろう。


「……そんな……嘘……」


 振り返ってみると、一人の女性が木目調の床に膝から崩れ落ち、顔を両手で覆いながらすすり泣いていた。

 俺の……母親だ。


 母親の涙など数え切れないほど見てきた。俺が母親を邪険に扱い始めた頃など、毎日のように寝室で枕を濡らしていたのも知っている。心が痛んだのも一度や二度ではない。しかし、母親からの愛を恐れた俺は拒絶を続けたのだ。罪悪感と少しばかりの悔恨を背負いながら。


 しかし、どうだろう。今この瞬間の母親の涙を見て。

 果たして俺は、泣かせてしまった罪悪感や後悔の念を抱いているか?我儘でまた悲しませてしまったと自責しているか?


 違う。


「……な、んで……泣いてるんだよ」

 

 怖い。

 母親が何故今泣いているのか全く分からない。俺が原因なのか、そうでないのかすら見当もつかない。


 涙を流す要素などなかったはずだ。悲しませた……訳では無いと思う。だとすれば、歓喜による感涙にしか考えは及ばない。しかしそれこそ理解出来ない。


 嫌がらせか超常現象としか思えない種々の違和感や謎の白銀の登場。加えて母親の奇妙な涙。


 自分を取り巻く事象は不安と恐怖の種を俺に着実に植え付け、それは今この瞬間一気に芽が出て花開いた。


「……お、おい!」


 恐らく母親に話し掛けても無駄だろうと判断した俺は、白銀へと説明を促す。お前は説明の前に質問を行うと言った。じゃあその質問タイムは終わりだ、説明へと移行しろ。早急に。


「……ん、つまりそういうこと、でいい?」


「……ッ。……ッ」


 白銀は焦る俺を一瞥すると、母親に何かの確認を行う。嗚咽で声は出せないようだが、母親はコクコクと首を大袈裟に縦に振る事により肯定の意を示した。

 

「……ん。前原仁」


「……なんだよ」


 名を呼ばれつつ一瞬射抜かれたと錯覚する程の視線の圧を受け、たじろいでしまったが、何とか自然体を装う。

 今から説明が始まると言葉なくともはっきりと理解した。


 無意識に背筋が伸びる。

 何倍にも時間を引き伸ばされたと錯覚する知覚の中、白銀の口が開く。そして彼女はこう言った。



「……あなたはこの3ヶ月間逆行性健忘症に陥っていた。簡単に言うと、記憶喪失状態だった」



 本来の働きを忘れ去ったかのように、脳が思考を放棄する。凍り付いた時空の中、驚愕が浸透して行く様を俺はゆっくりと認識した。

 

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