第66話 違和感





 未だに付き纏う微睡みを、頭を数回振り霧散させる。粘っこく、中々消えてくれないこの眠気は一体何なのだと、悪態をつきたい気持ちを抑えて、階段を落ちないように恐る恐る下る。

 この階段から豪快に転落した情景が未だ鮮明に網膜に張り付き、それが足を竦ませる。


「くそ」


 何故俺が自宅の階段にビビらなければいけないんだ。忌々しい。


 普段の5倍程の時間と労力を掛け、何とか階下に辿り着く。眠気と恐怖のコラボレーションに苛立ちを覚える。階下に降り立った瞬間に、安堵に似た感情を抱いてしまった事実もそれに拍車をかける。まるで、無事階段を踏破出来て安心しているようではないか。3歳児じゃあるまいし、嘆かわしい。


「……ん?」


 それに、たった今気がついたが、異常に暑い。部屋は冷房が効いていたのか全く気にはならなかったが……。


「あ!ジンちゃん起きたの?お粥出来てるから一緒に食べようね」


「……え?」


 そんな折、気の抜けた声が鼓膜を揺らす。聞き覚えがある。あるのだが、妙に久しぶりな気がして、僅かながらの動揺が頭をよぎる。身体の違和感と言い、暑さと言い、階段を落ちてからどれ程眠っていたというんだ?この胸騒ぎは一体何だ。


「ジンちゃん?」


 返事をしない俺を不信に感じたのか、母親が顔を覗き込んでくる。


「あぁ、ありがとう母さん。今行くよ」


 ……!?


「今日は元気そうだね〜りょーかい」


「……」


 馬鹿な、今さりげなく口に出た言葉はなんだ。『母さん』?そんな呼び方はしたことなどなかったはずだ。頭の髄がキリキリと痛み出す。ああ、なんだか記憶の整理がつかない。


「……何なんだよ」


 そう吐き捨てて、母親の横を通り過ぎてリビングへ入る。

 階段から落下した後どうなったかなんて聞かない。そのうち誰かしら話題に出すだろうし、よしんば出さなかったとしても怪我もないようだし別にどうでもいいしな。


 そんな思考を浮かべながら、リビング内へと意識を向け直す。


 ……ん?

 所々家具の配置が変わってるような気がする。俺の部屋もそうだが、俺が寝込んでいる間に模様替えとは随分図太い精神をしているものだ。……まぁ嫌われ者、邪魔者の俺の扱いなんてそんなものか。


 ただ、それをさしひいても目が覚めてから何かがおかしい。決定的に、たしに、本能が警鐘を鳴らしている。現状を放置してはならないと、本能が訴えているのだ。


 やむを得ないか。

 あまり気が進まないが、ここは母親に聞くのが1番確実で効率的だろう。


 俺の頼みを流れのまま了承した母親は、粥の支度を開始したようでコンロに火を点火している。見れば見るほど話し掛ける気が削がれるが、妥協は有り得ない。


「はぁ」


 嘆息をひとつ。

 何を躊躇っているんだか。たかだか母親に問うだけだ。なまじ何年もろくな会話がなかったせいで、慣れていないだけ。


「なあ、俺が寝てる間に何か―――



『ガチャ』



 ……あ?」


 問いを発しようと口を開いた瞬間に、リビングの扉が開け放たれた。出鼻をくじかれるとはこの事か。

 一体誰だ、俺の邪魔をしたのは。


 少しの苛立ちを携えて、背後に振り向く。

 多少なりとも文句を言ってやる。



「……ん、ご主人様壮健そうで何より。でも無理は禁物。ゆっくり休むといい」



 ……。


 は?


 扉の前にちんまりとした姿を晒すのは、長い白銀の髪を垂らし眠たげな目で俺をじっと見上げる外国人の少女だ。黒色のスーツに身を包み、民家にはひどく似つかわしくない異彩を放っている。


 こいつは。

 この女は。



「……誰だお前は。この家で何をしている?」



 小さな侵入者に鋭い視線を浴びせる。

 こうも堂々と姿を見せるとは間抜けなやつだ。直ぐに警察を呼んでひっとらえてやる。男がいる家屋に侵入する愚行を後悔させてやる。


「ジ、ジンちゃん何を言ってるの?」


 母親が、声を震わせながら、粥をかき混ぜる手を止めつつ白銀と俺とに交互に目をやる。

 いや、お前こそ何をしているんだ。早く警察を呼ばないと。


「……?」


 白銀の少女はと言うと、首を傾げ、長髪をふわふわと揺らしながら俺の目をそのすみれ色の双眸で注視してくる。

 全てを見透かすかのような振る舞いは、居心地が良いとはとても言えない。


「……」


 じっと。ただじっと、俺を凝視する白銀。一体何秒この状態が続くのか、薄気味悪い。何者なんだこいつは。


「おい、いい加減に―――」


「……ん、あなたはご主人様……じゃない?誰?」


「は?」


 咎めようと声を上げた瞬間、機先を制するように言葉を割り込まれ、その言葉の意味に脳が思考を停止する。


『誰?』


 いや、何を言っている?それは俺のセリフだろ?お前が誰だよ。人の家に我が物顔で上がり込み、あろう事か住人に誰だと?

 ほら、母親も何か言ってやれ。こいつの奇行にはうんざりしているはずだ。そして早く警察を呼ぼう。異常者の相手は疲れる。


 さあ。


 ……。


「……おい?」


 何故今黙る?

 声を張り上げるべきだろ、私の家に勝手に上がるなと。

 何故行動を起こさない?

 直ぐに然るべき場所に電話を繋げるべきだろう、不法侵入者がいると。


 何故。


「何故、そんな目で俺を見る?」


 得体の知れないモノに向ける眼差しを俺に向ける理由はなんだ?それを向けるべきは白銀の方だろ。コイツは侵入者だぞ?何を呑気にしているんだ。力を合わせて弾劾するべきタイミングだろ。

 それをなんだ。


 まるで、おかしいのは俺の方だと言わんばかりの……。


 ……。


「……ッ!」


 違和感が拭えない体の変調。


 時間が飛んだと感じ違える程の気温。


 気付かぬ間に変わっている部屋模様。


 妙によそよそしい母親の態度。


 記憶にない白銀の少女の参入。


 ……2人の俺を見る目。


 俺が階段から落ちて寝てる間に。


「……何があったか説明してもらうぞ」


 ここに来て俺は自分の鈍さに歯噛みする。あれ程豪快に階段から落ちたのに、怪我が一切ないわけがなかった。落下の気絶から目が覚めたばかりなのに、母親の態度がいつも通りなわけがなかった。



 一体、何が起きている?

 






 

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